第809話 それは蠢く卵塊の如く
門番として控えていたはずのシァシァの姿はなく、施設内への侵入はじつに簡単だった。
しかし一歩踏み込んですぐに鼻腔を擽った血生臭さにバルドは眉根を寄せる。
「なんだお前ら……仲間割れか?」
まずオルバートが床に水の槍で刺して留められ、広げた白衣を赤色に染めていた。まるで昆虫標本だ。
そんなオルバートに面した場所にはシァシァが満身創痍といった様子で立っている。
回復魔法を使ったようだが、回復魔法は失った血液の再生までは行なえない。ナスカテスラレベルの治療師が本気を出せば可能かもしれないがコストがかかりすぎるだろう。
つまり属性の合致で使えるものの極めているわけではない上に、回復対象が疲弊した自分自身であるシァシァは体の傷を回復させきることが出来ていなかった。ついでに魔力も枯渇しており血も足りない、という最悪の状態である。
セトラスも肩の傷跡は塞がりつつあったが、肉を焼きながら貫いたリータの矢によるダメージは回復が遅いのか、未だに片腕は使い物にならない様子だ。
それでも銃を構えた手は震えてすらいないのだからプロだな、とそう感じながらバルドは判断しづらい状況に目を細める。
「面倒なのが増えましたね……」
セトラスはシァシァに銃口を向けたまま嫌そうな顔をした。
バルドは切っ先をどこへ向けるべきか迷いながら、ひとまず声を発したセトラスへ再び問い掛ける。
「随分邪険にしてくれるんだな。立ち去ってやってもいいが……その前にあの穴について教えてもらおうか」
伊織は静夏が追っている。ここに居ないなら先に訊ねるべきは穴のことだ。
どういった原理で開かれたものなのかはさっぱりだが、魔獣が次々生まれ落ちる穴など放置していていいはずがない。
「僕の予想じゃあの穴はお前たちが作ったものなんだろ?」
「そうですね」
「なら閉じ方も知ってるはずだ。……さっきから異様な頻度で魔獣が生まれてる。ほっといたらすぐこの島いっぱいに溢れ返るんじゃないか」
そこへ「きっと島どころじゃない」と口を開いたのはシァシァだった。
「アレはね、伊織の魔力を利用して開かれたものだ」
「伊織の……!?」
「あの子は今後あそこから生まれた魔獣がしでかしたことを自分の罪のように思うかもしれない。――穴を自分の手で開いた時点で酷い境遇だっていうのに、これ以上何かを背負わせるなんてワタシは嫌だ」
どの口が言うんだ。
バルドはそう思ったが、シァシァが言っていることは本心に思えた。
本心だからこそナレッジメカニクスの仲間たちと袂を分かち、その結果こんなにもボロボロになったのだろう。
「今まで散々利用しておいて随分な物言いだな」
バルドの代わりにそう言ったのはサルサムだった。
シァシァは目を細めた後、険しかった表情を緩めると眉を下げる。
「ホントにネ」
「お前――」
「文句は後で聞く。ひとまず今のワタシは君たちに害はない。そして優先すべきは穴を開き固定する装置の停止。その停止方法を知っているのは……オルバートだ」
バルドはゆっくりとシァシァからオルバートへ視線を移した。水の槍を握った状態で様子を窺っているのか微動だにしない。不老不死でも痛覚はあるため顔色は悪く冷や汗を流していた。
しかしその様子は怪我によるものというより、マンナパルナの雪原で見せた不調に襲われている様子に似ている。
(僕がそばにいるからか? なら隙も出来るはず。どうにかして装置の停止を促して……)
その時、背後から獅子よりも低く太い咆哮がこだました。ガラスというガラスがびりびりと震える。
バルドの代わりに振り返ったサルサムは空を舞う草花で出来た東洋龍を見て口角を下げた。
「植物で出来た長細いドラゴンみたいなのが飛んでる」
「なんだそれ。とりあえず魔獣か」
これは急いだ方がいい。
そう一瞬だけ思考が魔獣へ向いた時、視界を横切る黒いものを目が勝手に追った。
意識がそれに追いついたのは一秒か二秒経ってから。その間に黒い大量の手がシァシァを殴り飛ばし、同色のローブが倒れたオルバートのそばに降り立つ。
「……っシェミリザ!?」
普段は両側で縛っている髪は片側が解け、吐血でもしたのか口から喉元まで赤く染まっていた。ローブの下からは鮮血が広がりつつある。
それでもなお、いつも通りの笑みを浮かべているのはリータたちが追ったはずのシェミリザだった。
「あらあら……不穏な様子のシァシァだけ先に攻撃したのだけれど、思っていた以上に人が居るわね」
門番があの様子じゃ仕方ないか、とシェミリザは壁に激突したシァシァを見遣る。
失血の影響かシァシァは壁に背を預け足を放り出したまま気絶しているようだった。魔導師が気絶したせいだろう、オルバートに刺さっていた水の槍が形を保てなくなり霧散する。
シェミリザの視線がセトラス、バルド、サルサムの顔を順に見た。敵意の確認と対処可能かチェックしているようだ。そこへオルバートが浅い息をしながら言う。
「シェミリザ」
「何かしら」
「君の願いは、叶ったのか」
オルバートは濃い赤紫色の目でじっとシェミリザを見た。
その瞳に映り込んだ自分を見ながらシェミリザはしばし沈黙し、そしてにこりと微笑む。
「ええ、最終目的まであと一息といったところだけれど、ほとんど叶ったも同然よ。あとは露払いをするだけ。――どう? オルバ、あの時の答えは得られた?」
オルバートはマンナパルナでシェミリザに問い掛けた時の返事を思い返す。
味方なのかという問いに、味方だけれど理由はいつかはわかるとシェミリザは言った。
そしてそれは彼女の願いが叶った時だということも。
世界の穴が開くまでシェミリザはたしかにオルバートたちの手足となり動き、有益になるよう振る舞ってきた。だが不穏な動きも多く、あの想定外の穴の大きさも彼女が仕組んだことだというのはオルバートも理解している。
「はは、たしかに……あの時は味方だったね」
「裏切ってしまったかしら」
「そうだね、でもこの結果に不満はない。あれだけ大きな穴なら……、……?」
上半身を起こしたオルバートは胸元を押さえる。
バルドが近くに居るせいですべてのコンディションが最悪だ。その不快感に混ざっているのは肉体が再生される感覚だった。水の槍に貫かれ再生が邪魔されていた部分も綺麗に治っていく。
だというのに、治った部分がまるで他人のように感じられるのは何故なのか。
その違和感もすぐに消え去ったが、まるでそっくりだが別の設計図で修理でもされたかのようで気分が悪い。
思わずバルドを睨んだオルバートはしかし、彼の後ろで世界の穴から蠢く巨大な何かが伸びているのに気がつくとそちらに意識を奪われた。
つららが出来るようにゆっくりと伸び広がる。
まるで薄い膜でもあるかのように錯覚したのは動きがゆっくりだったからだ。地面にタッチするため伸ばす腕にも似ていた。しかしそれは渋滞していたからだ。
数百を越える魔獣が大挙し、互いに押し合いながら世界の中を目指している。
それが夜の闇のような暗さの中で行なわれていた。
「突然なんでこんな暗く……」
サルサムは仲間の代わりに後方確認をしても普段なら気は抜かない。
先ほどの東洋龍の際も急に襲われても対応できるよう注意していた。しかし今ばかりは完全に目を奪われ、言葉を無くす。
卵魂のような魔獣の束。
それを生み出す穴の真上を、その何倍も巨大な赤黒い大穴が覆っていた。
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