第1話 母さんの夢
十八歳になってすぐに手をつけたのはバイク免許の取得だった。
そんなバイクを伊織がここまで急いで走らせたのは初めてのことだ。
危なっかしいカーブを描きながら制限速度ぎりぎりで目的地に向かっていた伊織は数十分前に耳にした言葉ひとつひとつを頭の中で反芻する。
伊織の母親、
入院費をはじめとする諸費用は静夏の実家が資産家のため問題ないが、伊織も学校の許可をもらいアルバイトで一部を負担している。
ただしこの病院というのが特殊な設備が必要なことから居住地から離れており、バイクの運転免許を取ったのも見舞いに行くのに好都合だったからという理由が大きい。
それでも車種にこだわったのは伊織の数少ない趣味と娯楽を兼ねてのことである。
「母さん……」
伊織は小さく呟いて下唇を噛む。
突如かかってきた電話は静夏の危篤を知らせるものだった。
父親が早くに事故で亡くなったこともあり、静夏の家族は伊織しかいない。実家も県を跨いでいるためすぐには駆けつけられない。
伊織はとにかく早く駆けつけて、母親を安心させてあげたかった。
タイヤが道路を激しく擦る音を聞いたのはその時だ。
突然バイクの目の前に躍り出た車が速度を落として蛇行し始める。リアウインドウ越しにいくつか見える顔は笑っているようだった。
数秒かかったが、ニュースでよく見かける煽り運転だとようやく気がつく。
(――なんで僕? 急いでるって傍目から見てよくわかるから?)
伊織は道を変えようと視線を走らせたものの、曲がれそうな道が見当たらない。
そもそも伊織は今までバイクで同じ道しか通ったことがなく、土地勘のない場所で知らない道を通ることに抵抗感があった。
(早くしないと母さんが)
ばくばくと脈打つ心臓を宥めながら車を追い越そうとするが、何度やっても失敗してしまう。
いっそのこと路肩に寄って一時停止すべきだろうか。
そう考えたのとほぼ同時だった。
「えっ……」
道路に落ちていた大きな石に前輪が乗り上げ、バウンドして体勢を崩す。
このままでは煽り運転をしている車にぶつかってしまう。
そう咄嗟にハンドルを切った瞬間、視界が斜めに傾いてバイクごとアスファルトの上を転がった。
息ができない。
伊織がそんなシンプルであり切実でもある感想を抱いたところでハンドルから両手が離れ、驚くほど簡単に体が浮いて吹き飛ばされた。
地面に激突する凄まじい衝撃が体中を蹂躙する。不思議と痛みはないが、代わりに手足が動かない。
黒い霧に覆われるように狭まっていく視界の中、ひび割れたヘルメットの目と鼻の先にスマホが落下してきた。半分以上粉砕されながらも辛うじて映る画面には電話のマークが浮かんでいる。
それが病院からのものであると知る前に、伊織の意識は完全になくなっていた。
***
「しかし運が良かった!」
ぱちぱちと両手を叩く初老の男性はバイク事故の瞬間を映し出していたモニターを消し、伊織と――そしてその隣に正座する静夏を見た。
とある世界の神様を名乗る男性は四十代ほどの普通の人間に見える出で立ちで、服装も至って目立つところはなく、本当に神様なのか疑いたくなる姿だった。
しかし彼が口にした内容はまったく普通ではない。
運が良かった。
それはふたりとも奇跡的に命が助かったという意味ではなく、もっと唐突で突拍子もないことだった。
「お前たちはほぼ同時刻に死亡し、そして我が世界の救世主として選出された。ひとりの予定だったが運でそれを選び取ったんじゃ。う~ん、マーベラス!」
「は、はあ」
伊織は夢でも見ているような気分で生返事をする。
事故の直後、真っ暗闇の世界から真っ白な光の世界に掬い上げられたかと思ったら、この場で正座させられていたのだ。
隣にはなぜか静夏が同じような表情で座っており、ふたりして何度も目を疑った。
静夏は長い黒髪を肩辺りで緩く結っている、儚げという表現が的確な女性だった。
それがここでは随分と顔色がよく見える。ベッドに寝ているわけでもない。
だからこそ伊織は夢でも見ているのではと疑ったのだ。
「それじゃあ……あなたの世界の救世主になれば、私たちふたりはまた健やかに暮らせるんですね?」
静夏が身を乗り出して訊ねる。
男性の説明によると、救世主になることを受け入れれば別世界で改めて生まれ直すことができるのだという。契約上記憶はそのままで、更には『望んだものをひとつ得た状態』で生まれることができるらしい。
破格の条件だったが伊織は未だに状況が飲み込めない。
それに反して静夏は男性が頷くや否や「やります」と即断した。
「ちょ、ちょっと母さん、そんな簡単に決めていいことじゃない気が……」
「簡単になんて決めてない。伊織、私……夢だったの。元気で健康な体であなたと暮らすことが」
静夏は病床でも芯のある意志の強い瞳をしていた。
その時とまったく同じ瞳に見つめられ、伊織は否定の言葉をぐっと飲み込む。
母親の夢は自分の夢と同じものだった。
元気で健康な体は持っていたが、心強くしっかりとした精神力で母親を支え、そして何気ない毎日を暮らしていけたらどれだけいいか。
――それが叶うなら、そこは日本でなくてもいい。
「……わかったよ。僕も受け入れる」
「伊織……!」
「ハグは! ハグはやめてさすがに人前だし!」
抱きつく静夏と暴れる伊織を眺めながら「仲がいいのは良いことじゃ」と頷いていた男性が不意に真面目な声を出した。
「ただしひとつ問題がある」
「問題ですか?」
「そう、シズカ殿は自然死。病のせいとはいえ予定された死、魂も無理のない形で剥離し傷ひとつついておらん。それに対してイオリ殿の魂はズタズタじゃ」
えっ、と伊織は自分の体を見下ろす。
事故を起こした時と同じ服装をしているが、上着を捲ってみても傷はひとつも見当たらない。きっとズボンの下も同じだろう。
どうやら目に見えるものではないらしい、と理解したところで男性が言った。
「事故で無理やり肉体から引き剥がされた魂で転生し、すぐさま正常な生命活動を行なうことはできん。ただし……」
言葉の途中で向けられた視線は静夏を見ている。
「十三……十四年か。それだけの時間、新たな肉体で魂を休めれば可能じゃ。休養中は完全に眠っている状態になるがの。そこでふたりに確認しよう」
「なんでしょうか」
静夏がじっと見返すと、男性はゆっくりと口を開いた。
「次の世でも母子でいたいか?」
「もちろんです!」
「ではシズカ殿だけ先に転生し、そこで適齢期になったら自らの胎でイオリ殿の肉体を育てよ。そしてその肉体が十三歳になるまでしっかりと世話をするんじゃ」
「んなっ……」
思わず立ち上がった伊織は男性に掴みかかりそうになった。
使命を課された転生なら急を要するはず。ならきっとすでに用意された肉体に入って育っていくのだと伊織は思い込んでいたが、人の胎から生まれるところからなら話は変わってくる。
その時に使うのは、やっと自由になった母親の胎だ。
「それって十月十日妊娠して、そのあと意識のない寝たきりの人間の世話を十三年間やれってことだよな!? そのあいだ母さんを独りぼっちにするなんて……誰か手助けしてくれる人はいないのか!? なあ、アンタは!?」
「いいや、無理じゃ。儂は自分の世界にそこまでの干渉は出来ん。自分で自分の脳手術を出来んようなものだと思ってくれ」
「そんな……じゃあ母さんひとりにそんな負担――」
「伊織」
静夏がそっと伊織の手を握る。
その体温は病院でベッドから握ってくれた手と同じものだった。
「あなたは何年も私の世話をしてくれた。そりゃもちろん同じ条件じゃないけど、まだ小さかった――みんなと遊びたい盛りだったのに、私のために色々としてくれたでしょ。今度は私の番ってだけ、何の負担でもない」
「母さん……」
「大丈夫。あなたが目覚めた時に驚くくらい素敵なお家と、沢山のお友達で出迎えてあげる。そこで一緒に暮らしましょう?」
伊織は辛い気持ちをぐっと堪えて俯き、数秒かけてゆっくりと首を縦に振った。
男性がひとつ頷く。
「さあ……もう眠りなされ、イオリ殿。本来なら起きているだけでも魂が雲散霧消してもおかしくはない。詳しいことは後でシズカ殿に説明しておこう」
こんなに健康な肉体を持っているように見えるのに、目に見えないところが傷つき母を守ってあげられない歯痒さを感じながら伊織は静夏を見た。
自分の魂が強ければ。
肉体から引き剥がされた程度で傷つく弱さがなければ。
見知らぬ土地で母親に不自由を強いることもなかったのに。
伊織のそんなどうしようもない不甲斐なさごと、静夏が息子の頭を抱き締める。
「全部任せていいの。代わりに目覚めたら目一杯頼らせてもらうから、ね?」
「……わかった」
「いい子いい子。さあ、久しぶりに子守唄を歌ってあげようか。ふふ、本当に久しぶりだから歌詞を忘れてたらごめんね」
静夏は太腿に伊織を寝かせ、頭を撫でながら懐かしい子守唄を口ずさむ。
昔、伊織が幼い頃はよくこうして寝かしつけられた。
もうそんな子供じゃないんだけどな、と思いつつも否定は一度もできず、伊織は目を閉じて暗闇と歌声に身を任せる。
暗闇は命を失った時と同じもの。しかし、そこに恐ろしさは一欠片もなかった。
***
いおり、いおりと呼ぶ声がする。
初めはもやがかかって聞こえ辛かったが、徐々に名前を呼ばれているのだと理解できるようになった。ちゃんと学校には行くから、まだあと十分は寝ていたい――と思ったところで違和感に気がついて身じろぎする。
ゆっくりと目を開けると眩しい世界に伊織は頭がくらくらした。
やたらと瞼が重く、思わず唸ってしまう。
「イオリ様が目覚めました!」
数人の人間が行ったり来たりする気配。
体感的には数秒前まで居た白い空間で了解した誘いを思い出し、そうかちゃんと回復できたんだと伊織は理解する。
(じゃあ今の僕は十四歳くらいなのか……?)
眠っていたせいで色んな部分が発達しなかったのでは、と危惧したものの、視力も徐々に馴染んで耳もまともに聞こえるようになった。
なぜかはわからないが初めから機能に問題はなく、あとは伊織の脳が馴染むだけだったようだ。
(そうだ、母さんは……!)
やっと意識が明瞭になったところではっとし、顔を上げる。
伊織が寝かされていたのはベッドの上で、周囲にはなぜか老若男女様々な人だかり。ぎょっとしながら口を半開きにしていると「伊織!」と嬉しそうな声が飛んできた。
声質は違うのに直感的に母親だと認識する。
「母さ……」
「伊織、おはよう! 待っていたぞ!」
目を向けた先にいたのは、身の丈二メートルはあろうかという引き締まりまくったムキムキ体型の女性だった。
ムキムキの、マッシヴな、笑顔の眩しい、母親だった。
「……へ?」
迫る逆三角形の上半身に目が点になる。
避けることもできないでいると、ばきめきと背骨が反るほどの力で抱き締められて伊織の口から潰れた蛙のような声が出た。
そんなことに欠片ほども気づかず静夏は嬉しげな声を上げる。
「狂いなく予定通りに目覚めるなんて偉いぞ! さすが私の息子!」
「え? え?」
「ほら、皆もこんなにも喜んでくれている!」
わああっと周囲から歓声が飛び、伊織は「おはようございます!!」と口々に言われた。こんなにも大勢の人間に挨拶をされ、歓迎されたのは人生初のことである。
その間も伊織を抱き締めている両腕は逞しく、硬さと柔らかさの両方を備えた筋肉が温かい。母親のぬくもりである。
しかしこれを「母親のぬくもりだ」と認めていいのか判断ができなくなった伊織は大きく息を吸い込んだ。
「え、えっ、ぇええええええ――ッ!?」
そして肺が軋むほど叫びながら飛び跳ねるように身を離し、ベッドから転がり落ちた勢いのまま視界に入ったドアをタックルして開いて外へと脱出し、叫んだまま全力疾走した。
わけもわからず全力疾走した。
これが夢かどうかの判断すらつかなかった。
しかし予想以上に幼い手足と、脳内で把握している自分の体格が見合わず足がもつれて転びそうになる。
そんな危険なところを凄まじい早さで受け止めたのは太い右腕だった。
うわびっくりした丸太が生えてきたかと思った、と伊織は一瞬だけ正気に戻る。
首の後ろで無造作に縛られた、黒色のワイルドなボサボサロングヘアーが見えた。
色しか元の母親の姿と似ていない。
だというのに、その合間から見える眼差しはまさに静夏のそれだった。
「まったく、急に動いたらだめだろう」
見た目も喋り方も違うのに、やはり彼女を母親として認識してしまう。
そうだ、と伊織は静夏の望みを思い出した。
元気で健康な体。いやいやたしかに元気で健康な体だが。
「い、言う通りすぎねぇ?」
背後から駆けてきた人々が伊織たちをにこやかな顔で見ながら「目覚めてすぐにここまで動けるとは!」「さすがマッシヴ様のご子息!」と囃し立てる。
なんだマッシヴ様って、と伊織が表情に出していると、至高のマッスルボディを持つ女性――静夏は照れた様子で言った。
「色々あって聖女と崇められているんだ。皆良い人だぞ、あの家も我々のために用意してくれた」
「い……」
「い?」
伊織は再び肺いっぱいに空気を吸い込む。
「いいいい言う通りすぎねぇぇぇぇ――ッ!?」
そして、前世も含めて人生で一番心の奥底から湧いた言葉を叫びきったのだった。
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