沙羅双樹

星都ハナス

第1話 望まない妊娠

 春の風は暖かいはずなのに、マフラーが必要だと思った。


「……沙羅、大丈夫なのか?気分が悪いか?もう一度診てもらうか?」


 隣で弘志ひろしの声がする。妊娠五ヶ月の検診日に必ず家族の付き添いが必要だと医者に言われ、沙羅は迷ったあげく、父親に頼んでいた。弘志は誰の子なんだと問い詰める事もなくもの分かりのいい父親を演じている。


「……お父さん、迷惑かけてごめんなさい。仕事に戻る?」

 

 沙羅は五年ぶりに突然呼び出した事を心配した。仕事の途中で抜け出して来てくれたに違いない。弘志はそういう優しい人だ。


「お父さんの事は気にしなくていい。それよりお腹が空いてないか?昼飯でも食べていくか。あれから母さんとは口をきいてないんだろう。今後の事もあるし、少し話がしたい」


 弘志はつわりで顔色の悪い沙羅を気遣いながら、電光掲示板を確認する。

「ここで待っていなさい。会計を済ませて薬を貰って来る」

 総合病院の待合室には色々な科の患者がいる。産婦人科の専門病院でなくて弘志は安心していた。手元の番号を確認し会計に向かった。


「ありがとう、これ」沙羅がお金を払おうとすると、これからもっとお金がかかるからと弘志は受け取らない。貯金はあるのか、出産費用は大丈夫なのかとも聞いてくる。全く変わらない父親の優しい言葉に沙羅は涙がこぼれる。


「この近くに美味しいイタリア料理店があるんだ。ピザとかパスタ好きだったろ。そこでランチでもしようか」


 弘志はなるだけ明るく言った。もう五十五歳になるだろうか。五年前には無かった白髪がちらほら見えて、眉間のシワが濃くなった気がする。


 つわりで蕎麦のようなさっぱりした物がよかったが、タクシーで十五分ほどのイタリア料理店に向かった。父親との外食はいつぶりだろう。ランチタイムなのになぜかその店は空いていた。


「いらっしゃいませ。お待ちしていました。あなたが沙羅ちゃんね。来て下さって嬉しいわ。どうぞ、こちらへ」


 案内してくれたのはまだ三十代後半か、四十代前半の美人な店員だ。

「この店で一番旨いものを頼むよ」行きつけのお店なのだろうか、弘志はそう店員に言うと一番奥のテーブルに座った。父親の知らない面を見せつけられて、沙羅は戸惑った。いや、父親の事は何一つ知らなかったかもしれない。営業マンで出張が多くて一週間家を空ける事もあった父親。記憶にあるのは、いつも母親と喧嘩していた事くらいだ。


 ヒステリックな母親を宥めるわけでもなく、じっと耐えて無言を貫く父親の態度の理由が分かったのは、中学校に上がった頃だった。


 沙羅が中学三年生の時に両親の離婚が成立した。沙羅と三つ上の兄、双樹そうじゅは久美子の方に残り、父親だけが家を出た。


「……あなたは私や子供達を裏切っただけでなく、神に対しても罪を犯したのよ!分かっていますね、配偶者を裏切った罪の償い方は離婚しかないの!子供たちの親権は私にありますからね!許せない、本当に許さない!」


 久美子は涙一つこぼすわけでもなく弘志を責め、罵倒した。久美子の眉をつり上げた恐ろしい顔を思い出して、沙羅は吐き気を覚えた。


「沙羅、疲れてないか?体調が悪いのに連れてきて父親失格だな」


「……そんな事ないよ!今日は病院に来てくれてありがとう」

「沙羅、お母さんにも話しておいた方がいいと思うんだ。いざ出産となると父親より母親の方が頼りになる。沙羅が言いにくいなら父さんから伝えようか」

「……私、お母さんとは話せない。教団の掟だから」

「……娘の命がかかっているんだぞ!こんな大事な時に掟もクソもあるか!よし、今から父さんが電話してやる!」


 弘志は背広のポケットから携帯電話を取り出して、久美子に電話をかけた。


「……沙羅ちゃん、赤ちゃんが出来たんですってね、おめでとう」

さっきの店員がおしぼりとお冷を置いて笑顔を向ける。どうして私の妊娠を知っているの?沙羅は父親の顔を責めるように見た。ちょうど久美子と話始めたらしく店員の言葉を聞いていない。父親の軽率な行動が信じられなくて、沙羅は店員に父親との関係を聞こうとした。ちょうどその時、弘志の怒鳴り声がした。


「そんな言い方があるか!お前は母親なんだろう。沙羅に子供が出来たんだ。母親なら母親らしくしろよ!」


 温厚な父親の荒げた声に驚いたのは沙羅だけではなかった。店員が弘志の肩を摩っている。他の客の迷惑になるからだろか、違う、まるで妻が夫を宥めているようだ。


「あいつはまだあんな宗教の言いなりになっているのか。全く理解が出来ない。教団の教えに背いた沙羅と話をする事は、神の掟を破る事になるの一点張りで……話にならなかった」


 弘志は落ち着くために水を一口飲んで、苦々しく言った。


 教団から戒めを与えられたその日、沙羅は二度と母親とは話せない事を覚悟していた。二年前の久美子の言葉が矢のように鋭く、針のようにチクリと刺さる。

何度も思い出したその言葉の刃で、時に沙羅は全身から血を流し、時には血の涙を流してきた。もう傷つくのは嫌だ。


──沙羅、あなたとはもう親でもなければ子でもない。沙羅は神を自分から捨てたの。だからあなたも神から捨てられるのよ!一人の辛さを学びなさい。悔い改めて許してもらえなければ、あなたとはもう赤の他人なの。一切連絡して来ないでね。このやり方が神の愛の取り決めなの。双樹も沙羅もお母さんを裏切って幸せになれると思う?沙羅、あなたみたいな人間は生まれてこない方がよかったって教えにもあるでしょ。双樹も沙羅も私に恥をかかせて……ゆるせない。


 泣かない、父親の前では絶対に泣かないって決めてきたのに、久美子の冷たい言葉をまた思い出して、沙羅は泣いた。


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