蓮之助と華
安田 けいじ
第1話 事の始まり
慶長九年冬。徳川家康が江戸幕府を開いて一年が経とうとしていた頃の事である。
夜も深まった大和の国の柳生家の陣屋から、一人の屈強な男が灯りも持たずに顔を見せた。彼は辺りを窺い、誰もいないことを確認すると、足早に闇の中へと消えていった。
この男の名は柳生蓮之助。無刀取りで有名な柳生石舟斎の孫である。父親が早世した為、石舟斎が親代わりとなり、剣の師匠ともなって鍛え上げ、今や柳生一門の中でも五本の指に入るまでの剣豪となっていた。
だが、その蓮之助は今、柳生一門から破門され、一切の禄や職を失い、流浪の身となって故郷を去らねばならなかったのである。
彼は目の前に続く漆黒の街道が、魔軍ひしめく修羅の道のように思えて、足取りは重かった。
前途を有望視された、二十五才の偉丈夫の身に一体何が起きたのか? それは、一月前に遡る。
柳生藩の藩士であった蓮之助は役目の為、隣国の郡山藩に赴いていた。
彼が役目を終えて、街中を歩いている時に事件は起きた。前方に人だかりが出来ていて、そこから女の悲鳴が聞こえて来たのだ。
蓮之助が、茶屋の前のその人だかりに近づいてみると、美しい町娘が、四、五人の若い侍に囲まれて無体を強いられていた。
娘に言い寄っている若侍は色白で、着ているものが立派な事から、どこかの若様とその取り巻きだと分かった。若侍は、嫌らしい笑みを浮かべながら、その娘を舐めるように見ていた。
「お武家様、おやめ下さい!」
手を捕まれた娘は必至で逃げようとしているが、若侍の力には敵わない。
遠巻きに見ている群衆の中に、彼女を助けようとする者は一人もいなかった。
「少しだけ酌に付き合えというに、余の命が聞けんのか!?」
少し酔った風の若侍は、嫌がる娘を強引に引き寄せると、乳房を鷲づかみにして、その口を吸おうとした。
娘が悲鳴を上げてのけ反った瞬間、反射的に娘の平手が若侍の頬に飛んだ。
「パシッ!」
辺りは一瞬、水を打ったように静まりかえった。
「女、若様に何をするか! それに直れ、無礼打ちにしてくれる!」
周りにいた若侍の仲間の一人が、こめかみに青筋を立てて刀の柄に手をかけた。
「待て! 余に手をあげるとは身の程を知らぬ奴、将軍家康公のひ孫である、余が直々に成敗してくれる!」
将軍のひ孫と名乗った若侍は、いきり立つ仲間を下がらせると、刀の白柄を掴んでスッと引き抜き、悲鳴を上げて逃げようとする娘の背中に振り下ろした。
取り囲んだ群衆が顔をそむけた、その刹那、
「ガツッ!」
刀と刀が当たる鈍い音が響いた。
見ると、蓮之助が若侍の前に立ちはだかり、その剣を跳ね返していたのだ。若侍は一瞬怯んだが、仲間が刀を抜いて加勢しようとすると、傲慢さがまた戻って来た。
「貴様、何者だ! 余は松平清道だ。御上に刃向かうか!」
権力を笠に着た余裕を含ませながら、清道は蓮之助に詰め寄ったが、彼も負けてはいない。
「拙者は、柳生蓮之助。郡山藩のご子息ともあろう者が、街中で、女に不埒を働いたあげく、言う通りにならないからといって無礼打ちにするとは何事か! 藩主は民の為にある事を知らんのか!!」
蓮之助が鋭い目で見据えて一喝すると、清道は顔色を失ってズズッと後退りした。正義感に溢れる若い蓮之助は、権力を笠に着た人間の理不尽を許せなかったのだ。
蓮之助は太刀を納めると、倒れていた娘の手を取って立ち上がらせ、着物の埃を払ってやった。
その時、娘の顔が恐怖に戦いて、清道の刀が煌めいたのと、蓮之助が振り向きざまに太刀を抜いたのが同時だった。二人の身体が交差した瞬間、蓮之助の刀が清道の腹を斬り裂いていた。
「うぐっ!」
清道は、血反吐を吐いて倒れ伏した。
群衆は息を呑んでいたが、一人が悲鳴を上げて走り出すと、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
(しまった。私は何て事をしてしまったのだ……)
我に返った蓮之助に後悔の念が込み上げて来たが、松平清道は既に絶命していて後の祭りだった。
「……若様!!」
近習達が、喚きながら斬りかかって来たが、蓮之助は彼らを、一瞬の内に刀の峰で叩き伏せた。
その内、町方が現れ蓮之助は捕えられた。
蓮之助は、奉行所の牢に入れられたが、事の重大性もあって、江戸での吟味が決まった。
藩主の息子を殺された城からは、蓮之助の身柄を渡せと矢の催促だったが、江戸の評定所送りが決まった事で彼らも手を出せなくなった。
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