第17話
「……うっ、う〜ん……。ふぁああ……」
よく寝た。中々いい目覚めだ。ん?
「……ここはどこだ?」
僕はまぶたを擦って周りを見回した。
「ああ、おばあさんの家か。……家かどうかはまだ分からないけど」
スマホからモバイルバッテリーを抜いて、僕は時間を確認した。十ニ時前だ……。寝るのが遅かったとは言え、人様のお家で昼前まで寝てしまった。家族の人が帰ってきてたりしないだろうか?
「そうだ、挨拶しないと……!」
僕は失礼のない程度に髪の毛を整えて、慌てて客室から出た。
「あら、お兄さんおはよう。よく眠れたかしら?」
「え?」
リビングに向かうとおばあさんがは椅子に座っていて、何かを飲みながらテレビを見ていた。そして、こちらに気が付き僕に挨拶をくれた。
「お、おはようございます……」
昨日会った時は認知症っぽかったよな?
「うふふ。私を送ってくれたのよね? それに、ゴミも片付けてくれたのもあなた?」
「そうです……」
おばあさんはカップを置いて、席に座るよう促した。僕はとりあえず促されるままに席についた。
「お紅茶を淹れるようになったのは、あなた位の歳になってからだったわ」
おばあさんはティーポットに入った紅茶を、コップに入れて僕の前に置いた。
「どうぞ。これでも結構自信あるのよ。夫にも褒められたんだから」
「いただきます。……美味しいですね」
「でしょ? ……気付いたかもしれないけど、私、今記憶が戻ってるのよ」
「そうなんですね。おかしいなと、思ったんです。失礼かもしれないですけど、昨日に比べて今は落ち着いてますから」
「そうね。だって、おばあさんですもの。……ふふふ」
「昨日の事憶えてるんですね」
「ええ。あの状態の時の記憶はだいたいあるわ。人間ですから多少忘れる部分もあるけど、忘れたい事ほど憶えているものよ」
「つらいですね……」
「お母さんはね、何十年も前に亡くなったの。居るわけないわよ」
おばあさんは紅茶を一口飲んだ。
「娘がいるんだけど、私が酷いこと言ってしまうから、何度も喧嘩しちゃってね。もう殆どこの家に来なくなってしまったの。…………いいえ、私が家に近づくなと言っておいて、その言い方はあの子に失礼だわ」
「何で喧嘩してしまうんですか?」
「娘は悪くないの。私、うさぎが好きって言ったでしょ? ある日のお夕食がうさぎのお肉だったのよ。お母さんは悪気なく出してくれたんだけど、『可愛いうさぎを料理にしてしまうなんて、人の心が無いの?』って喧嘩してしまってね。それから仲が悪くなったのよ。それで、娘はお母さんそっくりで……。ああ、性格は全然違うのだけど、発症してしまってる時は違いなんて分からないのよ、私には。そのせいで悪くもないのに娘を責めてしまって」
「そうでしたか……。今は思い出してますけど、続かないんですか?」
「またすぐに忘れちゃうわ。……忘れるなら、どうせ忘れるなら、ずっと思い出さなければ良いのに。そうすれば辛くなんて無いのにね……。なのにたまに思い出してしまうの。……ああ、ごめんなさい。おばあさんの愚痴なんて、聞きたくないわよね?」
「いえ、そんなことないですよ。良かったら聞かせて下さい」
「あら、良いのかしら。ありがとうね。若い頃は娘と一緒に料理を楽しんだり、楽しくお喋りしたり、とても仲が良かったのよ。私が認知症を発症しても文句も言わずに支えてくれたわ。拒絶したのは私の方。……そういえば、恥ずかしい事なんだけれど、あなたが私を送ってくれていた時も、家に着いた時も、家に上げた時も、思い出す前に客室を覗いてしまった時も、とても怖かったのよ」
「そうなんですか? 全然気づかなかったです。一応、家に入った時に誰って聞かれた時はそうかな? って思いましたけど」
「自分がすぐに忘れてしまう事は分かっているのよ。私が誰? って聞いたら、皆悲しそうな顔で何度も教えてくれるの。頭の片隅で、そんな事は憶えているのでしょうね。知ったかぶりをして隠してしまうのよ。悲しませたくないし、自分が忘れているのが怖いから」
「そうだったんですか……」
「そんな悲しい顔しないで! 今だって、辛いことばかりじゃないもの」
「ああ、すみません。顔に出ていましたか?」
「ええ。でもね、人との関わりは減ったかもしれないけれど、忘れている時は、子どもの頃に戻ったように自然だとか、動物だとか、遊びだとかにわくわくしてしまうもの。大人になって忘れてしまった感覚が味わえて、凄く楽しいわ……」
おばあさんは寂しそうに笑った。
「……例えばもしも、本当にもしもなんですけど、もしそれを治せるとしたら、治したいですか?」
「どうかしら……。治したい気もするけど、期待してしまうともっと辛くなりそうで怖いわ。あんまり訊いて欲しくない質問よ。でも、気を使ってくれてるのよね? ごめんなさい」
「いえ、大丈夫です。娘さん以外の親族はいないんですか?」
「夫は先にいってしまったし、子どもは娘だけ。娘の夫はどう接したらいいか分からないみたいで、長らく会ってないわ。でも気を使ってくれているみたいでね、金銭面でお世話になっているわ。孫は忙しいみたいだから、会わなくて良いと言っておいたわ。迷惑かけるだけだもの……」
ただ忘れているだけじゃない。その分の辛さ悲しさ虚しさなんかが、思い出した時に一気に押し寄せてくるんだ。
「こんなお話はおしまいにしましょう? そうだ、あなたは何故ここにいらしたの? 隠れているみたいだったけれど」
「はい。僕が悪いことをしたんだと、勘違いされて警察とかに追われているんです」
「あら、まあ。あなたも大変ね。お話をして誤解を解くことはできないの?」
「分かりません。でも、捕まってしまう前にやっておきたい事があるので、それを終えてからですかね。話をするのは」
「そう。上手く行くといいわね」
「ありがとうございます。あ、紅茶美味しかったです」
おばあさんも紅茶を飲み終えた。
「え? 何かしら……? …………お紅茶、お紅茶? ああ、美味しかったわ。ありがとう」
「いえ、こちらが頂いたので……」
「え、そうだったわね。言い間違えてしまったわ」
おばあさんは周りを何度も見回している。
「ああ、忘れてしまったんですね……?」
「……忘れて? 私は忘れてなんかないわ! 失礼ね」
おばあさんは、"忘れる"という単語を聞いた途端、怒り、叫びだした。タブーワードなんだろう。
僕はゆっくり、あまり刺激しないようにゆっくり立ち上がった。
「何? やめてちょうだい、叩かないで!? 私、うさぎが好きだっただけなの! 文句言わないから、来ないで……」
おばあさんは酷く怯えている。
「大丈夫、大丈夫ですよ……」
僕はそう言いながら、少しずつおばあさんに近づいて行く。距離が近づくにつれ、怯えは顕著になっていく。
「僕、治すかどうか悩んでたんです。忘れている時は楽しそうだったし、思い出した時は凄く寂しそうだったから……。でもやっぱり、治しましょう。忘れている時間が長ければ長い程、どんどん寂しく、辛くなるんですもんね。もう、そんなのは終わりにしましょう?」
治せるかどうか、やってみた事がないから分からない。でも、できる気がした。できなくても、今できるようになれば良い。僕は少し、緊張していた。
「助けて、誰か……。誰か助けて……」
おばあさんは固く目を閉じて震えている。
「
僕は深呼吸をして、意を決する。
「無いんですよね? 心当たり。では、良かったら僕がその
僕は微笑んで手を差し延べた。
「助けてくれるの……?」
おばあさんは鼻声で訊き、恐る恐る僕に
手を預けた。
「はい」
僕は右手から光を出す。おばあさんは目を丸くして驚いたが、手は離さなかった。優しい光が体全体を包み込み、それを受け入れたのかおばあさんはゆっくりと目を閉じた。
いくらか時間が経って、次第に光が弱まり数十秒経った頃、とうとう光は完全に収まった。結果は、どうだろうか?
────どうか、効いていてくれ……。
気付いたらおばあさんは大きく目を開けて、口も閉じずに僕の方を見ていた。
「……今日は、心地の良い朝だわ。そう思わない?」
「え? そうですね。天気も良いですし……」
「私、お世話になりっ放しね。ありがとう」
「思い出したんですか?」
「ええ。そうね。何だか、もうあんな忘れ方はしない気がするわ。何の根拠もないけれど、そんな、気がするの……」
「それは良かったです」
「あ! もしかして、あなたは神様が遣わした天使かしら?」
「ははっ。そんな大層なものじゃないですよ」
「冗談よ。うふふ」
おばあさんはホッとしたように笑っている。
「あの光は何なのかしら?」
「僕にもわかりません。小さい頃に使えるようになったんですけど、怪我や病気が治るって事以外は、何に効くのか、どれくらいなら大丈夫なのか判らないんです」
「あら、そんなのを使ったの? 恐ろしいわね」
「すみません」
「今回だけなら許してあげるわ」
おばあさんはいたずらっぽく笑った。
「はははっ。ありがとうございます」
「そういえば、やっておきたい事があるんだったわよね? そろそろ行くのかしら」
「はい」
「そう…………。あの、お恥ずかしいのだけれど私、何かお礼したくても……。ごめんなさい、何も思い浮かばなくて」
「いいですよ。気にしないでください」
「でも……。何か欲しいものはないかしら?」
「そうだな…………。あ、そうだ。一段落したら、またお邪魔していいですか?」
「別に構わないけど……」
「美味しい紅茶をまた飲ませてください。それで、軽くお喋りでもしませんか?」
「そんなので良いの?」
「はい。お金もらったり、人の大切なものを譲られるより、この方がずっと嬉しいですよ」
「そう言ってもらえたら嬉しいわ」
「それは良かった。……では、行きますね」
僕が席をたつと、おばあさんも続いて立った。
「ええ。気をつけてね。あ、そうだわ。私、娘と仲直りできるよう頑張るわ。前みたいにお喋りしたいもの」
「それは、とてもいいですね」
「そうでしょ? もう、話したい事が山積みよ」
玄関に着いた。
「上手く行くといいですね」
「ええ。ありがとう、さようなら。またね」
「はい。さようなら」
そして僕は手を振ってこの場を後にした。
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