第28話

 時計は六時を過ぎ、陽は更に落ちた。空は濃い橙色に染まり、家々にはちらほらと明かりが灯る。

 しかしながら、先生はまだ目覚めない。すぴすぴと健やかな寝息を立てているので体調に問題はなさそうだが、無理に起こすのは憚られる。

「……どうするつもり」

 赤錆さんが低い声で問う。顔には陰が落ち、言葉一つ発するのも重苦しい。

「許せるわけねえだろ」

 ベッド傍に立つ烏羽さんが冷たく言い放つ。その鋭い眼差しは眠り続ける青褐先生を睨むように見下ろしている。

 烏羽さんは母親を交通事故で亡くした。僕が家に泊まった日、彼女は気にしていない風に話していたが、交通事故の加害者に対しては思うところがあるのかもしれない。

「どうするか決めるのは包介よ」

「わかってる。……わかってるけど、許せねえよ」

 僕は一体、先生をどうしたいのだろうか。

 加害者と被害者の関係ではあるけれど、青褐先生ばかりに非があるかといえば、そう単純な話でもない。

 日記には、僕が飛び出してきた、と書いてあった。

 制限速度を超えて走行していたのは先生の過失だが、突然飛び出してきた子供を避けるのは容易ではない。むしろ、周囲の確認を怠った僕に原因はあるともいえる。僕こそが加害者と捉える人もいるだろう。

 しかし、僕はで飛び出したのだ。その一点が、事態を複雑にしている。

 未だ雪の降る季節に後ろ歩きは難しい。そもそも、これから公園を出ようとするときに、あえて出入り口に背を向ける意味が分からない。

 突き飛ばされた。

 あくまで可能性のひとつであり、ともすれば僕が自分の不注意を認めたくないが故の思考である。だが、後ろ向きで道路に飛び出したことと、傍に立っていたというもう一人の子供が判断を迷わせる。

 それに加えて、傷跡の場所だ。公園と道路の位置関係を考えると、真っすぐに飛び出て車とぶつかったなら、最初に地面にぶつかるのは左側だ。しかし、実際に傷跡が残っているのは右目の辺りで、体が回転するほどの勢いで撥ねられたなら、もっと悲惨な後遺症を負っていただろう。

 決定的な証拠はないが、本当の加害者の存在を否定するには無視できない点が多過ぎる。

「オマエはどうしたい」

 声に反応して顔を上げると、烏羽さんが僕のすぐ正面で立っていた。

 少し思惟に耽り過ぎていたようだ。真相は気になるが、今考えるべきは先生への対応である。

「僕は」

 言いかけて、言葉に詰まる。

 烏羽さんの言う、許す許さないの話は、正直なところあまり重要ではない。片目を駄目にされた挙句、醜い傷を刻まれたことについて思うところはあったが、先生の内心を文字ではっきりと読み、知ってしまった。贖いのために生きる覚悟を決めた先生を追い詰める気持ちにはなれない。

 だからといって、今日見たことをすべて忘れて普段通りに接するというのも難しい。たとえ僕が隠し通せたとしても、烏羽さんは同じようにはいかないだろう。道理を重んじる彼女は、ふとした拍子にすべてをぶつけてしまう予感がする。それが衆人環視の場だったなら、先生を深く傷付ける結果になりかねない。

「……とりあえず、先生に直接聞いてみよう」

 熟考の末に導き出したのは、逃げの答えだった。

 事故の詳細と先生の意思はすでに日記に綴られている。あらためて問うたところで得られるものは同じだが、当人の口から聞くことで非難の空気が少しは和らぐかもしれない、という淡い期待だった。

「それならとっとと起こすぞ」

「え?」

 烏羽さんは僕の答えを聞くやいなや青褐先生の傍に歩み寄り、ベッドの脚を蹴飛ばした。

「うわぁ、なにしてるのさ」

「起こすならこれしかないだろ」

 それにしたって乱暴な起こし方だ。烏羽さんは僕の静止を気にも留めずベッドの脚を蹴り続け、先生の体が振動で大きく上下する。

「──ハッ」

 青褐先生は床に落ちる寸前で目を覚ました。大きく目を見開くと、ばね仕掛けの勢いで起き上がる。

「私は……」

 目覚めはしたが、意識ははっきりしていない。僕らを見回す瞳は茫洋としていて、半開きの目蓋はいかにも重そうだ。

「先生。おはようございます」

 声を掛けつつ、ペットボトルを差し出してみる。先生は促されるままに受け取り、中のスポーツドリンクをゆっくり嚥下したところで、ようやく状況を理解したらしい。

「エ゛ェッホ!!」

 思い切りむせた。多量の飲み残しが僕の顔面にふりかかり、襟元までぐっしょり濡れる。

 わざとではないし、不快感はあれど笑って済ませる範囲だ。けれど、爆発寸前の烏羽さんは流すことができなかった。

「アンタ、どこまでふざけるつもりだよ」

 烏羽さんが青褐先生の胸倉を掴み、ドスの効いた声で凄む。

 高熱にやられ、満身創痍な状態の先生にまともな判断力は残っていない。足のつかないプールに放り込まれたようにはぷはぷと息継ぎするのがやっとの様子である。

「おっ、おっぱいが見えてしまいます」

 いや、意外と余裕があるのかもしれない。絞り出した第一声がそれとは。

 大事なことではあるのだが、胸倉を掴まれた状況で言うには挑戦的すぎる。案の定、烏羽さんはこめかみに太い青筋を張った。

 平手打ちくらいならやりかねない。いよいよまずいと膝に手をついたところで、思いがけない方向から力強い音が響く。

「いい加減にしろ」

 赤錆さんが日記を机に叩きつけた音だった。口調は淡々としていて動作も緩慢であるが、身に纏う無言の覇気に烏羽さんも冷静さを取り戻す。

「……スンマセン」

 片言の謝罪を口にしながら青褐先生をベッドに下ろす。腹のうちでは納得していないだろうが、形だけでも筋を通した。喧嘩両成敗、とまではいかないにしろ、先生が謝罪を受け入れれば穏便に収まるはずだ。

「黒橡さんも見ましたよね!? こいつ、先生に手をあげました! 停学! 停学です!!」

 ちょっと駄目かもしれない。

 病人を痛めつけるようで気が引けるが、実力を行使するしかない。赤錆さんの手から日記をもぎ取り、いよいよ拳を握り込んだ烏羽さんと先生の間に体を割り込ませる。

「ひゃあっ」

 額がぶつかりそうな距離にまで近づいてしまうが仕方ない。鬼の首をとったかのような得意げな顔は一転、熟れたりんごの赤さに染まり、飴で固められたみたいに硬直した。じっと目を合わせ続けると青褐先生は顔を逸らし、心の準備が、とか、先にシャワーを、とか、何やら囁き始めたが、律儀に付き合っていてはいつまでも話が進まない。

「青褐先生」

「は、はいぃ」

 びしりと背筋を正す先生の目の前に日記を突きつける。

「これの中身について、よく教えてください」

 先生の上気した頬は一瞬で血の気を失った。熱由来ではないどろどろした汗が沸々と湧き出て、瞳孔が点になるまで収縮する。

「先生」

 落ち着かせようと肩に触れる。瞬間、先生は電気を流されたみたいに激しく痙攣し、倒れ込む勢いで頭をベッドにつけた。突っ伏した姿は赦しを乞う土下座にも、身を守るために蹲っただけのようにも見えた。




「先生、顔を上げてください」

 畏まった謝罪はいらない。僕はただ、青褐先生の口から事実を確認できればそれでいい。

 しかし、先生は頭を下げたまま微動だにしない。正確に言えば、力んだ首筋がふるふると震え、頸にかかる髪の毛が少しずつ垂れてきているが、会話が成り立たない以上、動いていないのと同じだ。

 対応に困り視線を窓の外に向けると、夕陽の光には紺色が混じり始めていた。残された時間は少ない。

 強硬手段を取るしかなさそうだ。やるせない気持ちを溜め息と共に吐き出して、仕方なく日記帳を手に取る。

「5月8日」

 聞こえやすいようにゆっくり読み上げると、先生の体がびきついた。ここ一番の反応だが、顔を上げるつもりはないらしい。ひと呼吸置いてから本文に目を移す。

「また包介さんを呼び出してしまった。だけど、連休の間ずっと会えなかったのだから仕方ない。久しぶりに会った彼は少しだけ大きくなったような気がした。同年代と比べると小柄だが、成長期の変化は激しい。いつか私を追い越す日が訪れると思うと、嬉しくもあり、寂しくもある。そういう感情から思わず手を握っていた。指が絡み合う恋人の繋ぎ方。突然の衝動に自分自身で驚いてしまったが、包介さんも同じ気持ちだったようだ。顔を真っ赤にして慌てる姿は年相応で可愛らしかった。それにしても、動揺するということは包介さんにもそういう欲求があるということだろうか。中学生のそれは未熟で汚らしいとしか思えないが、包介さんが抱くそれはいじらしく蠱惑的だ。教師と生徒の関係で決して望んではいけないこと。だけどもし、彼に求められたら、私は──」

「お゛お゛お゛お゛お゛!!」

 青褐先生が獣の咆哮を上げて飛びかかってきた。目を見張る瞬発力だが、病人の域を出ない。片手で肩を抑えて後ろに控えていた赤錆さんに日記を渡す。

「か、返じでっ!」

「日記だと僕のこと、下の名前で呼んでくれるんですね」

「い゛や゛ぁっ! 返してぇ!」

 予想以上の狂乱振りだ。日記という私的な秘密を大っぴらに読み上げられたのだから無理もないが、普段の冷静な青褐先生からは想像もつかない暴れ方に烏羽さんはドン引きしていた。

 とにかく、両腕を振り回されていては話ができない。タイミングを見て掻い潜り、左脇の下と首にまとめて腕を回し、右肩を掴んで固める。肩の可動を抑えられた先生はそれでも抵抗を続けたが、次第に無為と悟ってか力は弱々しくなり、一分経つ頃には大人しくなった。

「……取り乱しました。もう大丈夫です」

 高熱と羞恥で真っ赤に染まった顔はとても大丈夫には見えないが、少なくとも暴れる危険はないだろう。床に膝立ちになって覗き込む形で目線を合わせる。

「それじゃあ、教えてくれますか。僕を撥ねた状況と、それから貴女がしたことについて」

 青褐先生は小さく頷いて、それから、訥々と語り出した。

 大学二年生の冬、帰宅の途中に公園から子供が後ろ向きで飛び出してきたこと。傍にはもう一人、別の子供がいて、突き飛ばしたように見えたこと。僕を撥ねたこと。毎日、見舞いに訪ねたこと。僕が目を覚ました時、パニックになって逃げ出してしまったこと。それからしばらく、碌な食事も摂らず引きこもっていたこと。

 僕のために、先生になると決めたこと。

「それにしても、よく狙って僕の進学先の先生になれましたね」

「別に難しいことではありません。貴方の住所から校区は簡単に割り出せましたから。それなりに仕事をこなしていれば、誰をクラスに配置するかも意見できます」

 青褐先生はさらりと言ってのけたが、簡単なことではないと思う。住所については事故に関連して知る機会はあっただろうが、僕の担任になるために日々多忙な教師の業務をこなし、僅か二、三年で意見を通せるほど実力を認めさせるのは並大抵の努力ではできない。青褐先生にとって、僕のクラスの担任になることはそれだけ重要だったのだろう。

「なるほど。よく分かりました」

 ひとまず、日記との答え合わせは済んだ。もう一人の子供の正体は分からないというし、新しい情報はない。これ以上の質問は不要だろう。

 消耗した先生を無理に喋らせるのは忍びない。話を聞いているうちに赤錆さんと烏羽さんも落ち着いてきた。いい加減切り上げようとしたところで、ふと思い直す。

 聞くべきことが後一つだけ残っていた。答えは予想でき、不要に追い詰めるだけの質問だが、二人を巻き込んでしまった手前、聞かないわけにもいかない。

「今まで隠していたのはどうしてですか?」

 僕を撥ねたことを隠していた理由。

 先生は悄然として項垂れ、寝巻きの裾を握り締める。

「……言うべきだとは分かっていました。本当は、出会ったその日に謝罪すべきだと。でも、いざ貴方を目の前にした時、嫌われるのが怖くて、言い出せませんでした」

 罪の告白には勇気がいる。加えて、僕は事故の記憶を失っていた。明かすべきだと分かっていても責任から逃げ出してしまう気持ちは、賛同はしないが理解はできる。

 しかし、烏羽さんは違った。

「ふざけんなよ。コイツが今までどんな気持ちだったか、知らないとは言わせねえぞ」

 烏羽さんは強い。体や技術だけでなく、意思に一本の芯がある。彼女自身、性差による強さの限界に恐れを抱いていたが、弱さを事実として受け止めることもまた心の強さの証左だと思う。

 だから、青褐先生が僕と向き合わず、先延ばしにしたのを許せなかったのだろう。怒りに燃えるその顔は見る者を震え上がらせる迫力があるが、しかし、どこか清々しさを感じさせる。烏羽さんの正しさを前に先生はますます体を小さくした。

「まず、通すべき筋があるだろうが」

 烏羽さんが冷たく威圧する。先生は卑屈そうに僕を一瞥すると、おずおずと頭を下げた。今度は両手を三角についた紛うことなき土下座だった。

「チッ」

 青褐先生の改めての謝罪を受けても、烏羽さんの苛立ちは収まらない。憎々しげに舌打ちして乱暴に頭を掻く。

 先生を責めたところで傷跡がなくなるわけでも、目が治るわけでもない。だが、仕方ないと簡単に受け入れられるほど軽い話でもない。ベッドに額を擦りつけた先生をどうすることもできず、やるせない気持ちなのは僕も同じだ。

 何か手打ちにできる理由があればいいのだが。

 糸口を求めて再び先生に視線を戻し、ある一点に目を奪われる。いや、最初からずっと視界に入ってはいたのだが、真面目な雰囲気を崩さないため気にしないよう努めていた。

 青褐先生のお尻。

 頭を下げたことで寝巻きが捲れ上がり、はっきりと露わになった白くて大きく丸いそれは、赤錆さんに滅多打ちにされた時の赤みを薄っすらと残している。

 すべすべで柔らかい。跡が残るほど強く触れられたら、きっと幸せになれるだろう。

「お尻ぺんぺん」

「は?」

 しまった。先生のお尻に見惚れるあまり、心の声が漏れてしまった。

 先生が目を覚ましてから静かにしていた赤錆さんも流石に聞き捨てならなかったようで、すぐさま反応する。蔑むような視線は安易な誤魔化しを許していない。

「い、いや、お仕置きの定番といったらお尻ぺんぺんかな、って」

 相当無理のある弁明だ。しかし赤錆さんは、否定するでもなく顎に指をかけじっくりと考え、そうして、気怠げに嘆息すると薄く目を開いた。

「……悩んでても仕方ないわね。時間もないし今日のところはとりあえず、デカケツでケジメをとってもらいましょうか」

「そ、それはどういうことですか」

 過激な発言を耳にした先生は土下座の姿勢を貫くことができなかった。堪らず頭を上げ、不安げな表情で赤錆さんの顔色を窺う。

 涙と鼻水の乾き切らない悲惨な様相である。常人であれば無理をしないでと慰めたくなるところだが、赤錆さんに慈悲はない。彼女は先生を冷たく一瞥すると、酷薄に罰を宣告した。

「今からあんたのだらしないケツを、包介がぶっ叩くってことよ」

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