兄妹の絆(1)
王都からは遠く、
チークムーンと名付けられた少女は、優しい両親と弱気な兄に囲まれてなに不自由なく暮らしていた。
ある日、兄に連れられて隣街へ買い物に来た日のことだった。母親から頼まれたおつかいを終え、幼い兄妹は甘いお菓子を求め街を歩いていた。小さな二人には分からないようだが、周囲にはわずかな緊張がはりめぐる。ある噂に町の大人はひりつき、それでも平時の賑わいを見せているため、町は引きつった笑みを浮かべたような異様な空気に包まれていた。
「おい聞いたか? 王宮を襲撃した奴が近くの街に潜伏してるって話だぞ」
「あぁ、それを見つけるのに捜査団みたいなのを募集してるらしいぜ。誰がそんなもん入るかっての」
「だけどけっこう金貰えるって噂だぞ。ただ入団試験があるみたいだし俺たちみたいな魔法も剣も扱えない人間には関係ない話だな」
ここ数日、この国はある事件の噂でもちきりだ。
先日、王宮に1人の男が侵入し、国王の側近を数人殺害したという衝撃の事件に国民の多くが不安を抱いていた。過去に前例のない王宮への侵入と襲撃。更にそれが1人の男によるもので、その被害は王の無事を除けば甚大であること。そしてなによりもその男が今もこの国のどこかで息を潜めていることに多くの人が恐れを抱いていた。すぐ隣に迫っているかもしれない血の臭いに怯えて。
そんな状態であるにも関わらず小さな二人だけで遠出をさせなくてはならなかった母親の気持ちを知らない少年と少女は久しぶりの遠出に浮かれていた。いつもはあれこれと注意してくる母も父も今は隣にいない。手を繋ぐ2人の小さな兄妹は、自分達の住む村にはない活気と行き交う多くの人の波に心を踊らせていた。
鼻孔をくすぐる甘い香りに少女は兄の手を振りほどき走り出した。
「あっ! チーク走ると転ぶよ! 待って!」
妹の行動に振り回されてばかりの兄ロートメルトは再び妹の手を掴むために走り出す。追いかけて細い路地を曲がるとそこには信じがたい光景が広がっていた。
顔を抑えうずくまる妹の手は、鮮やかな朱に染まる。血だ。涙と血の混ざる雫がポタポタと少女の手を伝い地面に染みを作る。
「あーあ。1発で鼻血出ちゃったよ。子供ってすぐ壊れちゃうから嫌いだなー。ほら早く謝ってよー。ねえ聞いてる? 僕は無視されるのが1番嫌いなんだよね」
自分とあまり年の変わらないように見える真っ黒なロングコートに身を包む赤毛の少年は、ポケットに手を入れ
『チークをよろしくね、ロート』
その言葉に兄の血が
「おい、聞いてんのかよ! 喋れねえのかお前は! その口が飾りだって言うなら縫い付けてやろうか? なあおい!」
少年はうずくまる妹の頭に足を乗せ喚き散らした。まるで機嫌を損ねた子供の
その光景が目に映った瞬間、兄の中の何かが弾けた。
「テメェェェェェ! チークから離れろ!」
身を潜めた建物に立て掛けられていた掃除用のモップを手に兄は飛び出し、妹を踏みつける忌々しい少年に向けて力の限り殺意を振り下ろした。
「は? なんだお前。今、僕にテメーって言ったのか? 言ったよなぁ!? ざけんなよ! 殺す! 殺す殺す殺すッ!」
兄の渾身の一撃は少年に届くことはなかった。モップの
間違いない。魔法だ。ロートメルトは確信した。そして、圧倒的な力量の差に絶望し、怒り狂う少年の叫ぶ言葉に死を覚悟した。その瞬間、地面から声が聞こえた。
「ご、ごべんなしゃい」
地べたにうずくまり
顔を押さえていた手で鼻から流れ出る血を拭い、鼻をすすりながら顔を上げた。涙で濡れた怯える瞳には絶望的な現実が映り込んだ。
「あ、謝りますから、お兄ちゃんは殺さないで」
涙を赤い手で拭いさらに顔を血で染める妹の目には怯えの中にも強い意思が宿っていた。そんな妹の姿に、ロートメルトは自分の立場を強く意識させられる。自分が勇敢で優しいチークムーンの兄であることを。
「謝るから兄貴は助けろだって? 何様だよお前。僕はこいつに殺されそうになったんだぞ! だったらこいつだって死んで当然だろうが!」
ロートメルトは少年の言葉に納得してしまう。自分は確かにこいつを殺そうとした。だったら逆の場合についても覚悟しなければならないのかもしれない。そうだとしても、妹だけは守らなければ、この場に飛び出した意味がなくなる。
「わかった。僕は君の好きなようにすればいい。だけど妹は、妹の命だけは……ッ!?」
「誰が喋っていいって許可したんだよ? 何様だよお前? なぁ、何様なんだよ!」
「ッく……うあああああ」
堪えようとした痛みが悲鳴となり狭い路地に響く。
ロートメルトがモップを振り下ろそうとしていた左手の甲には短いナイフが貫通していた。痛覚により意識が単一化する。痛みに集約された意識は、先ほどまで確かに介在した別の意識をはじき出し、いつの間にか身体の自由が利くようになっていた。
無意識にナイフの刺さる左手を右手が強く圧迫する。痛みが治まるわけではないがそうせずにはいられなかった。全身から脂汗が滲む。左手から伝う痛みと熱と血の匂いで頭がおかしくなりそうになる。思考と呼吸は乱れ膝から崩れ落ち、激痛で消し飛びそうな意識を必死に握りしめた。流れる血の量に気が動転しそうになるが、それでも兄は膝をついたまま妹ににじり寄った。
血まみれの兄妹は互いを救おうと必死だった。そこに悪魔のささやきが静かに響いた。
「お前ら兄妹なのか。いいこと思いついたぜ。これは僕からのプレゼントだ。ありがたく受け取るといい」
不気味な笑みを浮かべた少年とロートメルトの視線が交わることはない。なぜなら、
[つづく]
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