ヒトゴケ
木船田ヒロマル
ヒトゴケ
夜の山道に、甲高いスキール音が鳴った。
タイヤがスリップする感覚に、背中全体が汗を噴く。
「うわあっ!」
車はなんとか無傷で停車した。
僕はすぐ後ろの妻と義母とを見やった。
「大丈夫ですか、二人とも⁉︎」
「ええ、大丈夫」
「大丈夫やけどぉ、驚いたァ」
「どしたん? 動物?」
「いや、動物……? 見間違えかな。今見えたのは毛むくじゃらの、ヒト、みたいな」
後ろの席で妻と義母とが顔を見合わせる。
「ヒトゴケかね」
「ヒトゴケやね」
***
初めの子が出来た頃である。
身重の妻は九州のO市に帰省していて、僕は休みのタイミングで妻に会いにO市まで来ていた。
当時のO市のZ山の山頂には「天空の湯」という温泉スパのレジャー施設があり、僕が妻の実家を訪れた時には義実家の家族を連れて天空の湯に行くのが恒例だった。
その日は海鮮和食屋さんみたいなお店でご飯を食べて、天空の湯で温泉に浸かって帰る。みたいなルートだった。
天空の湯から妻の実家までは車で15分程の距離だが、その大半が山の中、鬱蒼とした森の間を縫う曲りくねった下り坂だった。
落ち葉の溜まりを踏むとタイヤが滑るので、僕はヘッドライトが照らし出す荒れ気味のアスファルトの路面を注視しながらハンドルを操っていたが、いくつ目かのカーブを曲がった直後、ライトの光域に毛だらけの足が照らし出された。急接近する中で上半身もチラッとだけ見えたが、オランウータンのような毛足の長い茶色い毛だったと思う。でも、フォルム自体は真っ直ぐ立った人間のそれだ。
急ブレーキ。甲高いスキール音。幸運にも落ち葉の溜まりはなかった。謎の類人猿に当たったような衝撃もない。顔を上げると、けむくじゃらは影も形もなかった。
「大丈夫ですか、二人とも⁉︎」
「ええ、大丈夫」
「大丈夫やけどぉ、驚いたァ」
「どしたん? 動物?」
「いや、動物……? 見間違えかな。今見えたのは毛むくじゃらの、ヒト、みたいな」
後ろの席で妻と義母とが顔を見合わせる。
「ヒトゴケかね」
「ヒトゴケやね」
「ヒトゴケ?」
「……この山にはお屋敷があって。屠殺場と精肉で儲けた会社の社長の屋敷なんやけど」
「はあ」
「社長の奥さんが子供ば産まはったら、その赤ん坊がはあ身体中毛むくじゃらやったらしくて」
「へえ」
僕は周囲に異常がないのを確認して、再び車をスタートさせる。そろりそろりと。
「お医者さんが赤ちゃんの毛ば剃らしたばってん、剃った端からすぐ毛ぇの伸びてぇ。原因が分からんし、そんなやけん学校にもやれんって。お家に家庭教師ば呼んで。お金はあらすけん」
「その子、どうなったんです?」
「分からん。そんなしとるうちに奥さんや一緒に会社やってた弟さんやが病気にならして、社長さんも体調崩して、会社ば畳んでね、お屋敷に引っ込んだって話やったったい」
「まあ、お金には困らないのか……」
「そうよ。んで三十年……四十年くらいなるかね。この山でおっきい猿が出たって騒ぎになって。消防団と警察が山狩りしたったいね」
「……猿?」
「捕まえきらんやったばってん、その内の何人かが姿だけは見たゆうて」
「毛むくじゃらの……人間?」
「苔むした、ヒトみたいやった。苔が人間になって歩いてるみたいやったって」
「それを錦橋新聞が面白がって記事にしたんよ。O市Z山にヒトゴケ、って」
「ヒトゴケ……」
「でも地元のもんは、屠殺場の社長の件を知っとるやん? だからあれはあのお家のお子さんかねえ、山ン中で生きてなすったのかねえ、って噂し合ったたいね」
「じゃあ……さっきのって……」
「分からぁん。その話ももう四十年から前よォ? この山には猿もおるから見間違いかも知れんばってん、時々思い出したようにヒトゴケば見たっていう人がおるから。ヒトゴケかも知れんねえ」
「今でも目撃されるんですか?」
「道路脇の用水のコンクリに座って足をぶらぶらさせてたとか。山菜採りしててオイッオイッって言われて振り返ったらいたとか」
「こわっ」
「まあ悪さしたって話は聞かんけど。関わらん方がええやろうねェ、肉にした獣のタタリやろうし」
「そういう話、今でもあるんですねぇ」
「あるある。東京や大阪では知らんけど、畜産やってるような田舎では似たような話はゴロゴロあるさねェ」
「怖いけど、面白いですね。ちょっと調べてみようかな」
義母は顔をしかめて首を振った。
「はぁやめときやめとき。タタリに触ったらタタらるっばい」
***
とは言われたものの、だ。
妖怪や怪異……オカルトの好きな物書きとしては、こんなナマの、生きたネタを放っておけるわけがない。
僕はヒトゴケに付いて調べることにした。
キーワードは幾つもある。
O市Z山。
精肉、屠殺場。
四十年前。
そして、ヒトゴケ。
時代と市が分かっていれば、屠殺場なんてそんなに何個もないだろう。
しかし流石にGoogleで一発検索、とは行かなかった。
僕は図書館に出向いて市の古地図を調べることにした。誰かに取材したら早かったのかも知れないが、地元の人たちはこの話題を嫌がるかも知れない。妙な噂でも立てば、妻の実家に迷惑が掛かる可能性もある。
52年前の地図の南の外れに、それはあった。
キツタカ畜産屠殺工場
キツタカ畜産。
調べるべき会社の名前は分かった。
***
キツタカ畜産。
橘高、と書くらしい。
この会社の名前は意外にもGoogle検索でヒットした。
とは言っても会社のホームページやWikipediaの纏められた項目などではなく、O市の郷土史研究をまとめた個人研究者さんのサイトのようだった。
元々は乳牛中心に畜産を営んでいたが、太平洋戦争末期に軍部の要請と援助を受け敷地を拡大、大々的に肉牛、豚、山羊を増産し、併設して近代的な屠殺場を建造した。当時の社長は二代目の橘高八郎。この時代にキツタカ畜産は最盛期を迎え、関連会社や直営の小売店までを含めると雇用する従業員は8200人を超える大所帯だった。
終戦後、規模は縮小したものの畜産も精肉も続けていて、自社牛肉のブランド化にその時代としては早くから取り組み商売的には成功を収め、高度経済成長を背景に安定した経営で地域の基幹企業の一つだった。
だが1960年代、共同経営者だった社長の弟、慈裕が病気で急逝。程なく社長自身も体調を崩し、会社を廃業。キツタカ畜産は63年の歴史に幕を閉じた。
***
ヒトゴケ、は2ちゃんねるオカルト板、地元の怖い話掲示板の該当地域スレッドがヒットした。
僕の他にも調べた人がいたのか、キツタカ畜産の記述こそなかったものの、屠殺業の社長、その子のタタリ、山狩りとヒトゴケの由来、またこのスレッドでは山狩り当時の錦橋新聞の記事の画像を見ることができた。
日付は197●年、7月。
恐らく三面の小さな記事だろうが「Z山に怪人ヒトゴケ」の見出しには少し笑ってしまった。まあ今と違い地方新聞の三面ならこれくらい怪しいことを書いても許されるくらいには、当時はおおらかな時代だったのだろう。
記事を要約するとこうだ。
近隣の農家が干し柿を取られたり作物を荒らされたりする被害が続いて、鹿や猪を疑っていたが、ある日犬が殺され、鶏が食い荒らされる事件が起きた。
野犬か狼かと猟師の組合が山に入ったが、巨大な猿を目撃し、腰を抜かした者を抱えて全員で逃げて下山した。
で、地域の消防団と若い衆、警察と狩猟組合がまた集まって山狩りをしたところ、その内の若い衆のグループ四人が、「苔がヒトガタを成して闊歩したるが如き」何かを見た、と。だが勿論記事で分かったのはそこまでで、ヒトゴケの正体やその後については何も分からなかった。「昭和に生き残った山の精が、気紛れに里に降りたのか」と記事は結ばれていた。
に、してもヒトゴケは何故僕らの目の前に現れたのか。
もしヒトゴケの正体が屠殺で儲けた橘高八郎の、そのタタリを受けた子供だとしたら、本人も六十歳前後の高齢のはず。車が行き来するような道に出て逃げ遅れでもしたら跳ねられてお陀仏だというのに、あんな夜中に道路をうろつく意味が分からない。それとも長年山を彷徨う内に限りなく獣そのものに近づいてしまい、車道は危ない、といったヒトとしての常識すら失ってしまったのか。
ショッピングモールの中のマクドナルドでそんなことを考えながらテリヤキバーガーを頬張っていると、義母から電話が掛かって来た。
妻の陣痛が始まったのだ。
***
産院に駆け込んですぐに破水。
僕は立ち合いたかったが、妻が嫌がったので妻の意向を優先した。
赤児の泣き声。
手術中のランプが消え、先生がマスクを外しながら部屋から出てくる。
「おめでとうございます。母子ともに健康。元気な男の子ですよ」
僕は心から安堵した。
義母は泣いていた。
それを見て僕もちょっと泣いた。
***
「あなた」
「よく頑張ってくれたね。ありがとう」
疲れ切って汗だくの妻のおでこを、優しく撫でてねぎらう。
「お父さん、抱っこしてあげてください」
看護婦さんがそう言って、生まれたばかりの小さな命を、僕に慎重に手渡した。
あれ? こんなもんだっけ。
羊水にべったりと濡れた愛しい我が子は、僕のイメージしていた新生児の姿よりも、髪の毛や全身を覆う産毛が、長く、数も多く、密度も濃いように感じた。
*** 了 ***
ヒトゴケ 木船田ヒロマル @hiromaru712
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