涼宮ハルヒの贋作

長綿実

エイトワンダーズエイジ

プロローグ

 桜がもう少し早く散ってくれていれば、俺はもっと健やかなゴールデンウィークを過ごせていたはずだった。

 まだ春の暖かい陽気に包まれていた頃、鶴屋家主催で開かれた花見大会の第二回目から数日間で起こったあれやこれやを思い返しながら、俺はどこまで遠くへ飛んでいっても必ず巣に帰ってくる燕のように、結局はこの文芸部室のパイプ椅子に鎮座しているわけだ。

 たった今こうして部室でSOS団専属メイドである朝比奈さんが香り高いお茶を注いでくれる瞬間、ただこの一時だけが俺にとっての平穏というものなのだ。そう、俺はやっと手に入れたのどかな時の流れに身を任せながら、じりじりと近づく中間テストの足音には気付かないふりをしていた。


「チェックメイト、ですね」


 古泉がいつもと変わりない微笑顔でつぶやいた。

 いや、それは俺が言うべきセリフだ。

「すみません、そうですね。つい自分の口から言葉が出てしまいました。これも悔しさのあらわれかもしれません。今回はかなり自信があったのですが、見事なまでに完敗ですよ」

 いつからかすっかり百人一首ばかりに興じていた俺たちだったが、原点回帰という何回目か分からない決まり文句を発した古泉の気まぐれで、今日は久しぶりにチェスの駒を引っ張り出していた。そして例に漏れることなく勝ったのは俺だ。

 朝比奈さんが淹れてくれたお茶を啜りながら、俺はこの平常運転と言える部室の風景を今一度噛み締めることにした。


 部屋の隅にはパイプ椅子の上に手毬のように乗っかって無言で読書をする宇宙人の長門、デパートの売り場で仕入れたであろう新しい茶葉を急須へ入れ込むメイド姿で未来人の朝比奈さん、俺の眼前で目を細めたスマイル顔でチェスの再戦を申し込んできそうな超能力者の古泉。もちろん俺はチェスに飽きたので再戦は断るつもりだ。

 しかし、この三人の肩書を並べてみると、これが平穏・日常といって良いものか分からなくなっちまうな。宇宙人に未来人に超能力者ってどこのB級SF映画だよ。

 これまで数々のドタバタや生命の危機を乗り越えながら、やっと掴んだこの静かな午後なんだ。今は各々の奇天烈なキャラクター設定など忘れて、のんびりとオフの日を過ごす人気俳優の気分を想像しながら、俺はまた湯呑みに手を伸ばした。


 ただ、約一名この部室に足りない人員がいた。そいつは確か今日は掃除当番ではなかったはずである。だから遅刻する理由もないはずだ。しかも俺よりも先に教室を出ていったときの、風になびいた後ろ髪を覚えている。

 部室の奥に居を構える団長席は、いつもよりがらんどうとしていながらも、あるじの帰りを待つ家来のように物言わず、ただそこにあった。そして、それはまさしく嵐の前の静けさ、とも言えるし、針で一刺したら瞬時に破裂する風船のように、主が帰還することへの期待を膨らませまくっていたように思えた。

 俺はふと、いつ部室の扉が叩き割られることになるのかといういささかの不安を湧き立たせながら、そんなことになったら教師方や生徒会にどう説明すべきなのか考えを巡らせ、そういう面倒なことの言い訳は全て古泉に任せれば得意の話術で言いくるめてくれるだろう、そう、こういう時こそ部員同士の連携プレーが重要なのだ。などと頭の中で独り言を垂れ流していたところに隕石が降ってきたような轟音が鳴り響いた。


「ごめーん! みんな待たせちゃって悪かったわね!」


 勢いよく開け放たれた、というよりもぶち破られたといっても過言ではない部室の扉の横に、我らが団長様が笑顔で仁王立ちしていた。俺はとっさに扉のほうに目をやる。よし大丈夫、扉は叩き割られずに済んだようだ。

「もっと静かに入ってこられないのかよ。そのうち扉がぶっ壊れるぞ」

「うるっさいわね! 急いでたんだからしょうがないでしょ。大体このくらいの開け方で壊れるんだったらこの扉はあたしたちの部室の扉としては不合格ね。そんなんだったら無いほうがまだましよ。」

 おいおい、部室が廊下の風に吹きさらしになってもいいってのかよ。冬になってから後悔しても遅いんだぞ。

 笑顔から一気にアヒル口のふてぶてしい表情に変わった団長様は、担任の岡部に呼び出されて体育祭の実行委員になることを依頼されたが断ったとか、岡部の話が回りくどくて長すぎたせいで遅れたんだとか言い訳を並べながら、鞄を長テーブルの上に放り投げてから奥の団長席へ座った。

「まったく待ちくたびれたぜ。おかげで古泉とのチェスも一戦終わったところだ」

 そう、俺たちは団長様の到着を待っていたのだ。実は昼休みが終わる直前にわざわざメールで団員全員へ次のような内容の連絡が届いていた。


「本日の放課後、部室にてSOS団緊急ミーティングを開催します! 遅刻した場合は罰金が課せられるうえに変なあだ名をつけられます! 以上」


 俺はこのメールを送ってきた団長様と同じクラスであり、しかも一つ前の席だ。メールを受信したとき、後ろを振り返った俺は、いたずらした子供を叱る親になりきったつもりでこう言った。

「何なんだこのメールは」

 携帯電話に映された文面を見せながら問い正したが、団長様は何も言わずにニヤリ顔をしただけで、すぐに午後の授業開始のチャイムが鳴ってしまい、会話は強制終了された。


 どうせまたこいつのよからぬ思いつきに振り回されることになることは明白だった。でも俺はもはや諦めに近い感覚で不安を頭の隅へ追いやり、午後の授業はいつも通りにやり過ごしていた。

 遅刻の罰則について言えば、俺はもうキョンという変なあだ名で呼ばれ続けているし、今更それが変わったところでどうってことない。むしろ変えてほしいぐらいだ。それに罰金ならどうせ駅前の喫茶店で全員分のお茶をおごるくらいだろうし、別に部室の集合に遅刻したところで特段の支障はないと考えていた。

 ただ、そのあと部室へ向かう俺はいつもより早足だった。放課後のチャイムが鳴る頃には、やっぱり変なあだ名に改名させられるのは億劫だなとか、茶店代を払わずに済めば欲しかったゲームソフトが中古でなら買えるんじゃないかとか、急に思い立った言い訳のようなものを頭の中で反芻しながら、自分でもおかしいと思う姿勢の早歩きで部室へ急いでいた。周りの奴らから変な目で見られていなかったかが心配だ。

 まぁ本音を言うと、どうせまた巻き起こるであろうあれこれに対して、なぜだか楽しみに思っていた自分がいたんだ。わくわくするってこういう気持ちのことなのかね。こんなことを思うのも、今日の天気が突き抜けるほど晴々としていたからだ、ということにしておいてほしい。


「それでは、SOS団緊急ミーティングをはじめます! 今回、涼宮ハルヒとSOS団は、北高の七不思議を解明します!」


 団長様こと涼宮ハルヒは窓が割れるんじゃないかってぐらいの雄叫びでそう宣言すると、お年玉袋を目の前にした子供のように瞳を光らせていた。

 おい、その前に遅刻の罰金と変なあだ名の話はどこに行ったんだよ、まったく。自分に都合が悪いことは全部すっ飛ばしちまうんだもんな。やれやれだ。


 ……って、北高の七不思議? それはもうとっくに終わったはずの話じゃなかったか。

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