一千年越しの蜜月を

janE

1.精霊印


 一千年も昔、魔王討伐の英雄が建国したとされる新生リュニス聖王国。艶やかな色使いの伝統的な木造の建造物が未だに多く見受けられ、中でも聖王宮殿は素晴らしく美しい建造物だった。


 特に朝はまるで楽園が天界から降りてきたようにさえ見えた。柔らかい朝日で煌めく露に濡れた木々、緑に囲まれたリュニス峡谷の崖上に建造された朱塗りの宮殿。


 今よりはるか昔だというのに今あるどの建造物よりも精巧に作られた聖王宮殿を見れば、英雄によりどれほどこの国が栄えたかうかがい知ることができる。


 普段は跳ね橋がかけられているが、有事の際にはそれを上げることで、敵の進行を渓谷ではばむこともできた。また、聖王宮殿の背後は険しいテュクマ山脈に面しており、奇襲をかけられる恐れもない。


 絢爛なだけでなく強固な守りを誇る。その姿はそのまま英雄ヴァスロを表しているかのようだった。



「ヴァスロ様は、派手好きだったの?」



 寝物語に母が寝室で歴史を教えてくれていたのに、妹のニムがくすくす笑いながらそんなことを尋ねる。


 母が困った顔をしたのですぐさま「こら、ニム」と姉ぶってファナが叱咤するが、母が庇ったのはわざとらしく泣き始めた妹の方だった。



「ファナ。強い言葉を使わないの」


「だって、ヴァスロ様を派手好きだなんて……先に下品なことを言ったのはニムでしょ」


「違うもの。私、派手好きなんて言ってない」


「嘘つき!」


「ファナ」



 再びたしなめられ、ファナは寝台から降りた。


 いつもいつも、母が庇うのはすぐ泣く妹の方だった。せっかく忙しい母が歴史の話をしてくれていたのに、こんな面白くない気持ちのまま一緒にいたら、酷いことを言ってしまいそうで、逃げるように寝室を出た。


 ファナは古い木造の一軒家に母と妹の三人で住んでいる。父もいるが、二年に一度しか帰ってこない。テュクマ山脈の向こうで出稼ぎをしているからだ。優しい父が次に帰ってくるのはまだまだ先のことだった。


 歴史学の先生をしている母のマニネは帰ってきても夜遅く、疲れている。ニムが泣きださないよう神経をとがらせているところがあった。


 今思えば、もう少しファナがニムに優しくしてやればよかったのだろうが、愛らしい顔立ちで嘘をついても甘えて泣いて誤魔化し、許されるニムを憎々しく思っていた当時、許してやるなど土台無理な話だった。


 成長するにつれ、ニムはどんどん美人になり、あっという間に高貴な身分の夫を持った。


 ファナは、ニムに入れ込むお世辞にも利口とは言えない男たちを見ていたせいで結婚に希望を持てず、早々に修道女となるため青天院せいてんいんに入った。


 青天院は宮殿内にある歴史の研究が行われる学院であり、また、英雄ヴァスロの魂を慰める神聖な場所でもあった。修道女になるためにはまずは学生として学院に通い、十年してやっと見習いとなる。学院を出た後、マニネのように修道女の道を選ばず、結婚するものもいるが、ファナは迷うことなく修道女見習いとなり、二年して正式に修道女と認められた。


 二十六歳となった自分は鏡で見ても、ぱっとしない顔をしている。不細工というわけでもないが、決して美人でもない。きつい性格と相まって、幼い頃から異性に人気があったことなど一度もなく、それが何となく胸の中に禍根として残っていた。


 おそらく、結婚しようとしても誰もファナを選ばない。ファナ自身、いつまで経ってもどことなく子ども臭い男と夫婦になりたいとは思わなかったので、選ばれなかったところでそれ自体に不満はない。


 だが、少なくとも、父は立派な男で、マニネと二人の娘を愛していた。寡黙だが、優しく、危険な仕事の不満をこぼすこともない。そうやって、ファナたちを平等に大切にして、ある日、帰路の途中、テュクマ山脈で滑落事故に遭い、帰らぬ人となってしまった。


 悲しむ母を見て、自分の双眸を濡らす焼けるような涙の熱さに、愛し愛される人が先立つ辛さを知った。


 滑落は珍しいことではない。中流階級の妻子ある男が山脈の向こうに出稼ぎに出ることはそれ以上によくある話だ。


 理想の男性がいたとして、その人に必要とされて、その人にすべてを捧げて生きられるなら、それは幸せだろう。しかし、そうではないことの方が多い。


 それならいっそ、修道女として、英雄ヴァスロの魂を慰める責務を担うことで、自分自身の平穏を守れるような気がしていた。



「ファナ。おかえりなさい」



 冬至祭りに合わせ、一年ぶりに帰った我が家は何も変わっていない。


 暖炉には薪がくべられ、容器で湯が沸かしてある。


 母のマニネとは仕事柄会うことも多く、久しぶりというわけではなかった。そのせいか、最後に帰った日が一年前だとは思えなかった。そんな風にしてすでに十二年も経過している。


 それでもよく見れば、昔と比べ、あちこち壁や床が傷んでいて、歩けばきしむ音が大きくなっている。


 昔は大きく感じた居間の四人掛けの机も小さく感じた。



「母さん、修繕しないの? 雨とか漏らない?」



 机に荷物を置いて、天井を見上げながら尋ねる。


 お茶の用意をしてくれたマニネが「お金がかかるから」とつぶやく。



「荷物、部屋に置いてきなさい」


「わかった……」



 家に金がないような言い方が気になった。


 貴族の妻になったニムとはかなり疎遠になっていた。それでも家の修繕費くらいは出してもらえるだろうし、そもそも、マニネは現役の先生だ。ファナも研究者として活動し、得た賃金は母に仕送りをしている。家くらい楽に修繕できるはずだった。


 だから、すぐに家を直すつもりがないのだろうとわかった。


 昔、ニムと使っていた狭い二人部屋に荷物を置き、居間に戻ると、マニネが机の上に古そうな黒い箱を用意して待っていた。



「それは?」


「あなたに引き継いでもらおうと思っていた精霊印が施してある古文書よ」



 何でもないことのようにさらりと母が言う。


 だが、精霊印とは大昔、それこそ、ヴァスロが実在した時代に使われていたとされる伝説的な技法だった。


 重要書類などを保管する上で、魂に宿る精霊を用いて封をする方法で、選ばれた者しか開封できない仕組みになっている。最古にして、最上級の封印ともいわれる。


 今、発見されている精霊印は、開封済みのものばかりで、封印状態のものは聖王国の歴史的に見てもかなりの大発見になる。



「ファナ、そんなに目を輝かせても無駄よ」


「どういうこと? 母さんはそれの研究を任されたの? 私もその研究に加われるの?」


「落ち着きなさい」


「触っていい?」


「あなた、母さんの話を聞いているの? 座りなさい。そして、落ち着いて。話はそれから」



 はやる気持ちを抑えてファナは母と向かい合い、片手で持てる大きさの古い箱を挟む形で座った。


 マニネが素手で持ち上げ「触っていいわ」とファナに手渡す。



「素手で?」


「代々うちに伝わるものなの。もう研究できるところはしつくされているから」


「そんな……でも、うちにこんなものがあったなんて知らなかった。どうして教えてくれなかったの?」



 さび付いたように見える箱はつなぎ目が一切ない。確かに精霊印が施されているようだった。精霊印の実物をこんなにも間近で、しかも触れることができるなんて夢のようだった。


 わずかな凹凸さえ気になって、舐めるように見てしまう。


 そんなファナを見てマニネは笑った。



「どうして、なんて。あなたが聞くの? こんな誰が見ても高価なもの、ニムに教えたら大変なことになるでしょう?」


「か、母さん……そんなこと思っていたの?」



 意外だった。確かにニムは小遣い欲しさにファナが使っていた髪留めを勝手に売ったことがある。それも一度きりのことで、事件以来、ファナは気に入ったものを隠すようになった。


 まさか勝手に人のものを売るなんて信じられなかったが、そのことを母に言いつける気にもなれず、ファナはずっと黙っていた。



「ごめんなさいね……。ニムのことは、母さんにも責任があると思ってる。甘やかしすぎたのね」


「……いいの」



 もう昔のことだ。それに母がわかっていてくれるなら文句はない。ファナは首を振って答えた。



「それより今はこれでしょう」



 ファナはいったん、箱を母に返した。



「どうしてこんなものがうちに?」


「『ロスタルに渡して』」


「え?」


「そう伝えられているの。ロスタルという人に渡すため、こうして一千年もの間、我が家に保管してある」


「……でも、それは一千年も昔の人の名でしょう?」


「そうね」



 マニネは大切そうにその箱を撫でた。



「だけど、これには送り主の思いが込められている。開けられることはなかったとはいえ、精霊印をほどこし、その人だけに伝えたかった何かがここにあるの。そういう思いを大切にすることも、研究者の務めだと思わない?」


「うん……」


「よろしく頼める?」


「もちろん」



 母から箱を受け取った。



「お茶、冷めちゃったけど淹れ直す?」


「ううん。平気」



 母が入れてくれた冷えたお茶を飲みながら、ファナは箱を眺めた。






































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