第二章「枯れた夢」1-5

 実際にはやや苦労したが、あんなにも私を求めている磯村を見られてそれだけは嬉しかった。その零れそうになるくらい満たされた胸、それを右手で当てて浸かっていた。帰りの電車内で二人が写っている写真をうっとりと見つめている。

 その時であった。頭の一部が上からもの凄い力で押し込められるような痛みが襲う。その痛みは一瞬でも尋常ではなく左手で痛みを感じる部分をおさえて勢いよく首を下に曲げた。

「いたっ、なに今の痛み」

 人の目など気にする間もなく声を出してしまう。幸い直ぐに痛みがひいて首の位置を戻した。右手に持っているスマホの画面を見る。

 それを見た途端、無表情になる真里。いくら、いくら記憶を巡らせても、何度も思い返しても自分の隣にいる男性が誰だか分からなかった。

「こんな仲の良い男子いたっけ?」

 しかもそれは写真フォルダの中で一番新しい写真である事に気がつくとより衝撃が強くなる。真里は他にもこの男が写っている写真はないか探してみた。

「(あった)」

 それはおそらく卒業した高校の校門前、立てられている看板を見て卒業式の時だと分かる。

「えっ、うそ」

 この一生に一度の特別な日に二人きりで抱きしめ合いながら写真を撮る。二人の表情は見るからに幸せそうだ。しかも誰かに頼んで撮ってもらっている。こちらも仲の深さがうかがえた。

「これってもう付き合っているってことじゃない?」

 だが真里にその覚えはない。恐怖が、下から、腹の辺りから上へ、まるで無数の、得体の知れない小さな虫が一挙にわきあがってくるように走る。それは表情にも表れる。顔が強張る。

 座っていられず立ち上がる。電車の扉の前にいき外を見ながら心を落ち着かせた。激しい運動をしたわけでもないのにいつの間にか息は乱れていた。気分が悪くなる。これはまさか、今にも吐き出しそうかもしれない。真里は早く着いてくれと願った。

 扉が開くと顔を歪めながら急いで飛び出した。力を振り絞り階段を駆け上がり改札を出る。一刻も早く部屋にこもって身を潜めたかった。どういうことか整理する必要がある、これは誰かが仕組んだドッキリか、そんな妄想まで膨らませてしまう。

 まだ家の中に誰もいなくて助かった。こんな取り乱した娘を見たら両親は心配になってしまうだろう。誰かから逃げ出してきたかのように部屋に入る。今は本当にここまで小走りで来たことで息を切らしている。ドアを背に床に座り込む真里。部屋着に着替えることも、手を洗う気にもなれなかった。今一度、確かめる。どこかで見たくもない自分がいたがそうもいかない。

「誰なの、この人」

 連絡先。この際、自分が誰だが分かっていない事は置いておいて、これだけ仲の良さそうに写っている写真がここにあるということは当然、連絡先だって登録されているはずである。真里は電話帳を開いた。あいうえお順で並んでいる。名前をみれば直ぐに顔が浮んでくる中に一人、誰だか見当もつかない人を直ぐに見つけた。

『磯村恭一郎』

 男の名前。そんな誰だか分からない人の連絡先がこれだけでなかったら怖いが一応、全ての名前を確認した。やはりこの人物だけ。つまりそういうことか。

 彼とはどんなやり取りをしているのか、メールの送受信歴などを漁ると気を失って倒れてしまいそうになった。フォルダを見れば山のようにあるそのメール、内容は。

「なにこれ」

 送信先、磯村恭一郎と記されているメールに舌先をペロッと出して胸元を強調させている写真を添付して送っているものがあった。上は黒のキャミソールのみである。そんなメールがこれだけに留まらず挙句、下着モデルのように堂々と全身が写っている類いの写真がいくつも出てきた。それをここ最近はかなりの頻度で送っている。

 真里はツイッター上に自分の自撮り写真を何枚も上げている。中には男が喜びそうなミニスカートなどの服装を選んで撮ることもあるがさすがに下着姿までさらけ出す事はない。この磯村には惜しげもなくそんな写真を何枚も送っていた。

 誰かに、いやこの磯村に洗脳されていた。それが今、解かれたのか。もう訳が分からなかった。どうしても認めることができない、私はこの男と恋仲だと。

 今度は自身のツイッターアカウントのツイートを見てみると彼氏がいることをアピールしているものは直ぐに出てこなかったが7月、ここまで遡り初めて出てきた。

 今日で付き合って3年目の記念日ということで、そのデートの様子をカメラが趣味の友達に撮ってもらったという文と共に画質が鮮明な写真が1枚。そこにはサングラスをかけたあの男を背後から両手を回して腹の辺りを抱きしめている自分。

「付き合って3年目、そんなに経つの」

 当人には何も知らされず結婚が決まってしまった話よりもたちが悪いような気がした。その彼と過ごした3年という歳月の記憶はない真里にはこの楽しかったであろう記録を見ても、もはや捏造としか思えなかった。

 これは悪質な悪戯、どうすればそんな事が出来るのかは見当もつかないがその線をまだ捨てきれない真里は西田に電話してみた。この写真を撮ったのは西田だとアカウントのリンクが貼ってあったので分かった。大学で最初に仲良くなった西田も加担しているなんて裏切られた気分、そう言い聞かせて電話を出るのを待つ。

「はいはい、どうしたの、真里」

「あのさぁ、7月に麻里が撮ってくれた写真に写っているこの男、誰なの?」

 言っていることの意味がまるで理解できず暫く無言に西田はなってしまう。その沈黙の間でさえ真里はどう弁明するのか考えている間だと思い込んでいた。

「なに言っているの?」

「だから麻里が7月に、ここ渋谷かな? そこに付いていって写真撮ったみたいだけど、その私と一緒に写っている男は誰なのか聞いているの」

「それ真面目に聞いている? なにかの冗談でも理解できないよ私」

「冗談って」

「その質問通りに答えればその男っていうのは真里の彼氏の磯村さんでしょう。どうしたの、この男とか冷たい事を言って」

「彼氏、それ本当に言っている?」

「それはこっちの台詞だと思うけど。本当になんでそんな確認をするの、喧嘩でもした?」

「……私、その磯村っていう男が、誰だか分からないの」

 急に涙声になりそう告白する真里。すすり泣く声が西田の電話越しからも聞こえた。

「えっ?」

「これは本当、麻里も、それに過去の私も彼氏って言っているけど、今の私にはそれが信じられないの。なにも、私にはその磯村っていう人の記憶がない……」

 そう言い泣き崩れたのが分かった。この様子は只事ではない、緊迫感が伝わった。

「記憶がないって、そんな。記憶喪失ってこと? でも私は誰だが分かるんだよね?」

「うん」

「真里、あなたの名前は吉川真里で今、大学に通っていることは?」

「うん、それも分かる」

 真里の頭の中から磯村だけが消えた。そんな事はあるのだろうか。こっちまで混乱してきた。

 せっかくこうして記録、思い出として残したのに。西田はあの日、自分が撮った写真にライターで火が点けられて瞬く間に燃え広がり黒い屑になってしまった映像が頭に浮んでしまった。西田は呆然とする。涙を流している真里にどういう言葉をかけていいのか分からない。なぜだか悔しさが込み上げてきた。写真を撮るという行為にどれだけ意味があるのか、この事態に直面して分からなくなってきたのだ。


 この事実を磯村に知らせないわけにはいかなかった。たとえ悲劇だとしても。真里はそれを伝えられる精神状態ではない。ここはまだ幾分か冷静でいられる西田が買って出た。それが今、自分ができる数少ない手助けだと思っている。磯村の携帯番号、メールアドレスを教えてもらい先ずはメールで西田の携帯の番号を記載して、電話が出られる時に返事をくださいと送る。

 記憶喪失。そんなの漫画や映画でしか見たことがない。西田は軽く調べてみた。医学的には記憶障害、健忘といったりするらしい。はっきりと原因は解明されていない。強いストレスや頭を強く打った、何かしらの形で脳にダメージが与えられると起こるなど極めて曖昧にしか書かれていない。

 真里はある特定の人物のみの記憶が失われている。そんな症例は過去、存在するのかと探してみてもそんな珍しい例が実在してたとしても簡単に見つかるはずなどなかった。

 心的外傷ストレス障害。通称、PTSD。これらの症状がある人にはある特定の記憶、この場合はトラウマなど思い出したくない記憶を回避して日常を取り戻すという事をするらしいが真里にこれは当てはまらない。むしろ忘れてはならない記憶だ。

 自分が何者かを認識できて、少なくとも西田の事も分かる。それなのに磯村の記憶だけが失われたというのはもはや人間の摩訶不思議さということで片付けるしか今はないのか。世の中にはまだまだ原因不明で驚くべき症状の病がたくさんあるのだから、そう言い聞かせるしかなかった。

 思いの外、早く返事が返ってきた。今だったら大丈夫ですけど、どうしたのですか? という内容。おそらく向こうも何か緊急性が高い事は予感しているだろうが、誰がこんな事を予想できるか。心臓の鼓動が速まる。決死の覚悟だった。

「はいもしもし、磯村ですけど。どうしたんですか急に連絡を寄こして」

「あっ、どうも、西田です。実はですね……落ち着いて聞いてください、多分無理でしょうけど」

「はい、ど、どうしたのですか?」

「真里がですね、記憶喪失になりました」

「えっ、記憶喪失? 事故にでも遭ったのですか!」

「それは大丈夫です。真里はどこも怪我していないはずです」

「そうですか、それは良かった。でも、なぜ分かったのですか?」

「それは、どう頑張っても分かりやすく説明できる自信がないので結論だけ言いますと、その記憶喪失といってもかなり特殊な症状で……磯村さんの記憶だけないって言うんです」

「えっ、俺の記憶だけないって……本当に言っています?」

「私も信じられなくて何度も確認しました。でも本人の様子をみたら遂には泣き出してしまって。とても嘘を言っているようには思えないんです」

「……僕と真里は今日、会ったんですよ。その時は普通に、僕の事は覚えていましたよ。一体、何があったんですか?」

「そうなんですね。それは分かりません。夕方6時過ぎに電話かかってきて、急に7月のあのデートの日に撮った写真を見て言ったと思うのですが、この男の人、誰? って聞いてきて」

「そんな……まさか、ちょっと無理やりやったのがいけなかったのかな」

「えっ、なんですか?」

「いや。有り得ないと思いたいですがこの際、正直に言いますけど今日、真里と家でセックスしました。それでショックを受けて……なんて想像してしまったのですけど」

 そこには少し笑いも含ませていた。

「……その、初めてやったのですか?」

「いや、高校時代から何度か軽くはやっていましたけど、今日はまぁ、そうですね、初めてのところまで、つまり最後までいきまして……痛がっていたりしてちょっと心配はしながらだったのですが」

 あまり他人には言いたくない話でも、この場合は流石にそんな気まずい空気にはならず人として当然する行為と西田は受け止めた。

「でも、それは信じられません。だってあんな仲の良いところをみせられたら、当然やっているんだろうなとは誰でも思いますよ」

「そう言っていただけると嬉しいですけど、今のところ原因はそれくらいしか思いつきませんし。本当は嫌々やっていたという……それとも家に帰るまでの間に何かあったのですかね?」

「それしかないですよ、頭でも打ったのですかね?」

「そうだとして、なんで僕だけの記憶だけが」

 その問いに西田は何も答えられない。磯村もなんとか冷静さを保とうと必死になっているのが伝わってくるが声が上ずっていた。鼻声にもなっているような気がして、もしかして泣くのを我慢しているのかもしれない。

「あの、真里に直接会って話がしたいです。もしかしたらそれで僕の事、思い出すかもしれないし」

「そうですね。もしかしたら今の真里すごいショックを受けているので直ぐには無理かもしれませんが、一度会った方がいいと私も思います」

「きっと誰だが分からない人から電話が来て出るはと思えないので、西田さんが仲介役になってもらっていいですか?」

「わかりました。ではまた進展があったらご連絡します」

 知らされた内容はとんでもない事なのにあっさりとやり取りを済ませてしまった。これでいいのかと思ってしまったがこれが現実だ。

 大丈夫、真里は俺の事を思いだしてくれるはずだ。そう信じたかった。なぜだ、なぜこんな事に。神の悪戯としか思えなかった。俺達二人の幸せそうな様子をみた神が嫉妬して、真里から俺の記憶を消したと。

 誰かの陰謀、何の根拠もなかったが磯村はそう確信してしまう。それに打ち勝てるのか、自信はない。ただ、二人の強い絆を頼りに再び真里を元に戻すと誓った。

 一体誰と戦っている? こんな事を大真面目に考えている自分に苦笑いした。正気でいられるはずなかった。今はその狭間を行き来している。

 大丈夫だ、きっと。もう一度そう言い聞かせた。そう祈るしか今はなかった。


 本当になんでこんな幸せそうなの――真里は過去の自分を見てそう何度も問いかけた。できるものなら過去へいきこの写真に写っている自分に会って聞きたかった。こんな満足そうな顔しているのならやはり今、すごい幸せとでも答えるのだろう。

 でも今の私は全然、違う。置いてけぼりをくらって後から凄い楽しかったと自慢話をされている気分だ。

「あぁーもうっ」

 苛立ちに変わってきた。高校に進学したら彼氏が欲しいとは思っていた。おそらく同じ高校出身であるからその彼氏が磯村ということになる。だが真里に彼を選んだという記憶がない。向こうから告白してきたのか、まさか自分からかもしれない。これでどう納得すればいいのか。

 確かにかっこいいなとは思う。今、彼と初めて会ったならきっとそう感想を抱いた。しかし。

「そうだ私、最初は一馬を好きになったんだ」

 入学して間もなく、この高校では初めて恋心を抱いた人を思い出した。サッカーが上手くて女子からモテモテであった橘一馬。だがその橘は早々に別の好きな人がいると知り勝算はなさそうだと諦めた経緯がある。その後は……。

 まさか彼氏を作るのは諦めたのか、そんなはずはない。3年間、一人のまま終えるわけがなかった。ならその次にこの磯村を選んだということになるのか。

 もう一つ気になることを見つけた。写真ばかりを見ていたが、ここまできたら動画の一つや二つもあってもおかしくないんじゃないかと。

 動画が保存されているフォルダを開くと友達とふざけ合っている様子や卒業式の日に教室で撮った記念映像……そして。

 目に入った瞬間、嫌な予感がした。真里がミニスカートを履いているにも関わらず大股で両足を開いてはしたないポーズをしていると分かるサムネイルがあった。周りは後ろの白い壁しか映っていないが見慣れた壁、自室だろうと分かる。その動画を再生してみると。

『じゃあ、やるね』

 その一言から始まり右手の指で女性のあの部分を刺激始めた……そうと理解してしまったらもうその続きを見る事ができなかった。

「なにこれっ」

 たまらずスマホを投げ出してしまった。なぜこんな動画を撮ったのか? そういえば記憶では誰かに頼まれて撮ったような気がしなくもない。だがその誰かがどうしても思い出せない。一番肝心な事を覚えてないことに腹が立った。

 投げ出したスマホからは音声が微かに聞こえてくる。殆どがノイズ、マンション周辺の物音だったがたまにハァという息遣いも聞こえてくる。急いで真里は停止ボタンを押してなるべく映っている画を見ないように閉じた。

 次から次へと何かがやってくる、そのタイミングで西田から電話がきた。きっと磯村に話したことを報告したという話に違いない。

「もしもし」

「あっ、たった今、磯村さんに話をしたよ」

「あ、ありがとう。どうだった?」

 電話で助かったと思う。今の顔を見られたら普通ではないと心配される。なんとか声だけでも平然を装う。

「どうだったって、そりゃあものすごいショック受けてたよ。それでいつでもいいから会いたいって。もしかしたら直接会えば思い出すかもしれないし、一度会ってみたら?」

「会うか。うん、一度そうしてもいいのかもね。ただちょっと今すぐには無理かな。心の準備が」

「それは全然、向こうも待つと思うから良いと思う。じゃあ会う決心がついたら教えて」

「うん。ねぇ、本当に私、何か騙されていないよね?」

「当たり前じゃない。誰が何の目的でそんな事するの?」

「どうしても私と付き合いたくてやったとかは?」

 西田はこの言葉にどう返していいのか分からない。しかめっ面になり返す言葉を探す。

「ごめん、変な事言って。じゃあ、会ってここまでの事を話してもらう。それで思い出せればいいけど、思い出せなかったら……どうしようか」

「どうするって……諦めずに何か思い出す方法を探そうよ」

「方法ってなに? 無くした記憶を取り戻すってもうそれって専門的な域だよね」

「でも、別れるなんて事は……」

「私はそれも選択肢に入ってるよ。だっていきなり初めて会った人に僕と君は付き合っているんだよって言われても、頭のおかしい人としか思わないでしょ?」

「頭がおかしいってそんなひどい言い方……」

「そうだよね。今の私の気持ちなんて分からないよね。そっちは付き合っているっていうのが当たり前の事実なんだから。また連絡するね」

 通話を終える。どうすればいいのか頭を抱える西田。磯村と真里は付き合っている、そう納得させるのは今までの二人を見ればとても簡単に思えてならなかったが、今の一連の会話で一筋縄ではいきそうにないと思い知る。

 確かに想像できない。彼氏の記憶だけが消えてしまった、そして周りからはその記憶がない彼氏と付き合っているのがもはや常識として捉えられていたらどう思うのか、戸惑うのか。何でこんな事になってしまったのか、今はそうとしか言えない。

 睡眠薬でも飲まされて眠っている間に犯された、そんな気分かもしれない。だが『記録』では本人も同意のもとであった。ある意味、人間の記憶よりも正確な記録の存在が行き場のない怒りを生む。

 その記録に写っている自分も別人に思えてなれなかった。この瞬間の想いを知らずただ淡々と並べられている記録。一番愛している人にしか見せたくない姿、それがいつの間にか晒されていた。そのショックにこれしかないとあの言葉が浮かぶ。

「別れるしかないよ、もう」そう膝を抱えて呟いた。


 こんなにも近くにいるのか。磯村の地元が真里が通う大学の最寄り駅と知ってこれは、いつばったり会うかも分からない。

 一週間後、西田も付き添い磯村と会うことになる。駅と隣接する喫茶店で待ち合わせることにした。先に到着した二人、西田が磯村に着いたと連絡する。既に磯村はどこか近くで待機している、二人が中に入り席を確保したら来てもらうことにした。そうすることで真里にはしっかりと心の準備をしてもらう。

「すぐ来るって」

「わかった」

 仕事や勉強のために居座っている人、友達と楽しく会話している学生や中高年の女性。そんな様子を見ると羨ましくもあり、煩わしくもあった。こっちは人生の中でも一番といっていい重大な事件に直面している。そんな事も知らず普段の、日常を過ごしている人々とのギャップに同じ空間にいてもまるで住んでいる世界が違うように思う。

「あっ、きた」

 西田がそう言うと手を振る。あの人が磯村か。7月に撮った写真ではちょっと個性的な服を着ていたが今日はいたって特に目をひくこともない普通の格好だ。半袖のポロシャツに、ジーパン。

 無言で座る磯村。早々にお冷を持ってきた店員に紅茶を一つと言う。そこから自分からは何を最初に言葉を発していいか分からないような様子で、二人の出方をうかがう。

「ほら、磯村さんだよ。何か思い出さない?」

 西田がこの沈黙を破ってくれた。

「ううん。悪いけど特になにも」

「そっか」

 それに対しては磯村が答えた。ついこの間までは会えば寄り添い、見つめ合っていた彼女。それが今は赤の他人というレベルまで落ちてしまいその動揺は隠そうと思っても隠しきれない。それがこの一言でも察することができた。

「あの、私達ってどうやって付き合い始めたのですか?」

 真里がこう質問するが敬語で話しかけてきたという事実にさらに傷口が抉られる。それでもなんとか堪えて誠実に答えることに努めた。

「真里、君から僕に告白して付き合うことになった。それが高校1年の7月」

「私からですか、そうですか。なにが、その磯村さんのどこが好きで告白したとか言ってました?」

「うーん、なんだろうな。もしかしたら、夏休み前だったし、その前に彼氏が欲しくて最初は付き合うことになったのかもしれない。でも、前からかっこいいと思っていたとは言っていたよ」

 それを聞いてとにかく彼氏が欲しくて選んだとしか聞こえない。必ずしも磯村である必要はなかったと。そんな印象では不味いと思ったのか磯村は。

「最初は、そんな感じのスタートだったけど、1年、2年と経っていくうちにお互いの良さも分かり始めて今はこの人じゃなきゃ駄目だと言えるくらいになったと思う。俺もそう思っているし、記憶をなくす前の真里も同じ気持ちだったはず」

「それは私もそう思ったよ。初めて二人でいるところを見た時、なんてお似合いのカップルなんだろうって」

 西田もフォローをいれる。

「それはあの写真を見ればそうなんだろうなっていうのは分かります。ただ、私にはその記憶がないのです。つまり今の私は3年前に逆戻りをしたどころか、磯村さんと会う前の私と言っていいと思います。しかも私が最初に好きになったのって磯村さんではないのですよね、なぜだかこの記憶はあるのは不思議です」

「そうだね。それは俺も知っている。だから俺も最初はなんで? って感じだった」

「あの、私達ってどこまでいったのですか? やっぱりキスくらいはしましたよね?」

「キスは、うん、付き合っているんだから当然かな。それより先はまぁ、君の脱いだ姿は見た事あると言っておくよ」

「ですよね。だって普段から普通は他人に見られて恥ずかしいと思う格好や下着姿同然の写真を何枚も送りつけているんですし、これでやってない方がおかしいって思いました」

「それは殆どは僕から頼んだわけではないとは言っておく。むしろ注意したいくらいには思ってた」

「はい、それを促すメールが一通もないので分かっています」

 磯村は耐えられなかった。真里は自分の事をさん付けで呼んでいる。彼女は真里の姿をした中身は別人のように思えてきて、あのなんとかなる、大丈夫だという想いはあまりにも楽観的だと打ち砕かれた。

「残念だけど、無理かもしれないな」

「えっ?」

「もうここまで築き上げてきた俺達の関係は崩れた。ここからまた再スタートしようとは申し訳ないけど思えない。それだけ俺達はここまで濃い関係を続けてきたんだよ。失ったものは大きすぎるかもしれない」

「そうですか。私も同じ気持ちです。その築き上げてきた関係が空白のまま、やっていくなんて、とても無理だと思います」

「そうか。じゃあ、別れようか」

「……はい」

 磯村は勢いよく立ち上がる。

「あっ、安心して。君が送ってきたその恥ずかしい写真の数々は削除する。なんなら君が今、操作して消しても構わない」

 磯村はスマホを操作して写真フォルダを開き真里に手渡した。

「正直、もしかしたら別れる時がくるかもしれないって考えていないのかなって思っていたよ。だから次、誰かと付き合うとしたら安易にこんな写真送ったら駄目だと思うよ」

「はい、気をつけます」

 これらの写真の笑顔、全てが今、目の前にいる男に向けられたものなのかと思うと胸が痛くなった。本当に好きだったんだなって。それを1枚、1枚選択してから削除を選択する。

「消し終わりました」

 磯村にスマホを返す真里。それが最後のやり取りだった。

「ちょっと本当にそれでいいんですか? 真里も」

「西田さん、周りにたくさん人いるからあまり騒ぐのはやめよう。あとこれ俺の分。お釣りはいい」

 千円札をテーブルに置き磯村は店から去っていく。その後ろ姿を無言で見送る真里。その表情は何とか上手く別れられたとホッとした気持ちがうかがえる。

「真里、私は磯村さん追っかける。私もお金置くから払っておいて」

 店内で一人になる真里。西田の態度を見るとなんだか自分が悪いという雰囲気が不快だった。こんな事があって新しい彼氏なんて作ろうと思えるのか。

「もう、無理かもしれないな」

 俯きゆっくりと息を吐く。何でこんな事になったのか、それしか言えない。


「磯村さん! 本当に別れていいのですか?」

 呼び止められて立ち止まる磯村。その後ろ姿はよく見たら震えていた。

「だって、見ましたよね? 僕のことさん付けで呼んで、敬語だし、怯えているように話すし、そんな人を彼女と思うのは無理ですよ。それでもかわいいから今すぐにでも抱きしめたいのに、それもできない」

 磯村は泣いていた。涙は頬に落ちていなくても目が潤んでいるのは分かる。

「記憶が戻ったら連絡します」

「この際、もう戻らなくていいですよ。戻った時に別の男と付き合っていたってなったらそれこそかわいそうです」

「磯村さん、また写真撮らせてくださいね。知っているとは思いますけど磯村さんが写っている写真をあげたら皆、かっこいいって言ってくれて、今度は磯村さんだけが写っている写真も撮ってほしいって声があるくらいなんですから」

「……直ぐには無理でしょうけど、落ち着いたら」

 このまま関係を切らせたくないという西田の精一杯の気遣いを最後に二人は別れた。今度はいつ会うことになるのか全く見通せなかったが、いつかまた連絡を取るつもりでいた。

 階段を上り駅前の広場へやって来た。空を見上げれば今にも雨が降りそうな空模様。そういえば夜から雨が降るのを思い出した。傘は持っていない。降る前に帰るかと思っても体は全身に鎧を身に着けているように重かった。たまらずふらつきながらベンチに座る。

「(こんな事ってあるか? ようやく真里という人生で一番大切にしていきたい存在を見つけたのに、記憶がなくなったので別れますって)」

 持っていたスマホを横に置き両手で顔を覆う磯村。それは流れてきた涙を隠すためでもある。もう人目など気にしている余裕はなくなっていた。憚らず声も、嗚咽のように上げる。このくらいだったら周囲の雑音で掻き消されるだろう。

「もしかして、磯村さんですか?」

 誰からか声をかけられた。女性の声だ。まさか真里? と思ったがそんなわけなかった。覆っていた両手で涙を拭き顔を上げた。

「あっ、やっぱり磯村さんだ」

 そう言いながら学校の制服を着た伊藤碧がそこまで近づくかと思うくらい接近してきた。座りながら上半身を屈めているため視線を少し落とすと伊藤の太ももが目の前にくる。スカートの丈は短めだった。そのスカートの裾が磯村の顔に触れるか触れないかという所まで近かったがそんな事は気にしている様子もなく伊藤は太陽のように眩しい笑顔を向ける。

「ここでなにをしているのですか?」

「いや、ちょっと、まだ暑いし、ここで休んでいただけ」

 こんな姿は見られたくないと立ち上がるが、打ちのめされた磯村の足はおぼつかない。

「あっ、大丈夫ですか?」

 伊藤は磯村の左腕を掴んだ。磯村が体勢を立て直した時、二人の顔が極端に近くなる。それに伊藤は下を向きながらも笑みを浮かべた。

「伊藤さん、いつも笑顔が素敵だね。その笑顔がいいから伊藤さん目当てで来るお客さんもいるくらいだよ」

「えっ、そうなんですか?」

「と言いながら、気づいているでしょう?」

 否定はせずにその笑顔は絶やさなかった。伊藤から離れようとした時に呼び止められる。

「あっ、このスマホ磯村さんのじゃないんですか?」

「えっ、あっそうだね、ごめん」

 真里に渡されてからポケットに入れることもなく、スマホの事なんてどうでもよくなっていた。動きが鈍い磯村よりも伊藤が取った方が早かった。

「はい、どうぞ。画面は割れていないんですね。私のは買って一ヶ月も経たず落として割ってしまいました」

「そうなんだ。ありがとう、悪いね」

 差し出した左手に伊藤はわざわざ両手で包み込むように渡した。伊藤はそわそわしているのが分かった。なぜだか彼女だったら受け止めてくれるような気がした。

「えっ?」

 磯村は伊藤の側頭部に頬を付けて、その流れで全身を委ねて抱きしめた。実際に立っているのもやっとの状態だったのがその行動に拍車をかけた。磯村は今、伊藤によって支えられている。

 伊藤はさすがに気が動転したが拒否することはしない。そのまま気が済むまでその状態でいてくれた。いつの間にか伊藤は癒すように磯村を包み込んだ。



 

 木曜日、雨の大通りから帰ると 気のせいか君が優しく話すのが聞こえた

 灯りを点け、テレビとラジオもつけた それでも君の影から逃れられない

 一体どうしてしまったんだろう おかしな奴だと誰かが言う

 僕が知っている日常はどこかへ行ってしまった


 でも昨日の事にはもうくよくよしない

 普通の世界というものがあるのだから 何とかそれを見つけだすんだ

 そしてその普通の世界に辿り着こうとする中で 生き延びる術を身に付けるのだろう(デュラン・デュラン『Ordinary World』日本語訳より)






「目覚めた?」

「う~ん」

 男は瞼を開き天井を見た、真っ白である。

「ここは?」

 見下ろす形で女が視界に入ってくる。

「ここはね、信じられないと思うけど分かりやすく言えばタイムマシンの中なの」


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