第二章「枯れた夢」1-1
「なんで私がいた空間は時の揺り篭というのですか?」
「あの空間はね、時の流れ、過去も未来も何もない、だから歳を重ねることもない。例えるなら生まれる前の赤ちゃんなの。その赤ちゃんがまだ眠っている空間ということで、時が揺り篭の中で眠っている状態、だから時の揺り篭ってところかな。生まれる前の赤ちゃんだったら胎児って言葉が適切なんだけど、そこは語感や響きがこっちの方が良いってだけで、正直この名前にあまり深い意味はないかな」
「そうなんですね。私も時の胎児より、こっちの方が好きかも」
「そして、その赤ちゃんが生まれて産声、泣き声を上げた時、宇宙空間が誕生して、私達が今、住んでいる星ができて、生命の芽が出たの。こう言うとこの星、宇宙も生きているんだと思えてより親近感湧くでしょう?」
「なるほど、そういうことなんだ!」
あの場になぜ吉田が居たのかようやく理解できた真里。倒れている磯村を目の前にして駆け寄って声をかける吉田。あの時はよく覚えてないがその声に無視したのは間違いない。それもあの状況であれば致し方ない、そう思いながらも言葉としては発する事はなくても謝罪したい気持ちを抱く。
真里は吉田と同じ大学に進学していた。学内でばったり会ってしまった時に目の錯覚かと思った。まさかいるわけがない、もの凄く似た誰かだと。
残念ながらあの吉田であった。真里の人生において吉田とどこかで巡り会うのは運命なのか、そう思うとこれほど嫌な運命はなかった。バイト先だけではなく、大学も一緒となったらますます言い寄ってくる、これはバイト先をここでは変える必要がありそうだ。
5月。真里は大学にあるサークル、写真部が女性モデルを募集していることを学内の展示物に紛れて貼ってあったチラシを見た時に知る。そのモデルに志願しようと部室を訪れた時にその吉田が居た。
部員は61名。高校時代、同等の人数を抱えていた部活は野球部のみだったので、写真部というどちらかと言えばマイナーなジャンルにもそこまでの人数が所属していることに説明を聞いて驚いた真里。さすが大学は在籍している学生の人数が違う。
説明をしてくれている男性、吉田も、真里をまじまじと見つめとんでもない美女が来たという表情をしていた。吉田がいる時点で退散したかったが自らここへ訪れておいて逃げるようにささっと出るのは申し訳なかった。しっかりと話を聞いた上で、どこか適切なタイミングがあるはずだと窺っていたが。
「君のような人がモデルやりたいって言うなら、ミスコンも獲れるんじゃないの?」
自分のやりたいことができると思ってここへ来た。真里は頻繁にスマホを使い自分の写真を撮っている。それをツイッターに上げると上々の反応が返ってくる。
今度は誰かにカメラを持ってもらい、自由なポーズで撮ってほしかった。それがここへ来た理由だ。モデルをやりたかった、それを吉田がいるだけで諦めるのは早計かもしれない。そう今の言葉を聞いて思い留まる。
「あの確認ですけど、モデルって、その、水着とか露出度の高い服を着ることを要求しないですよね」
恥ずかしがりながらも心配事を正直に吐露する。向かい合っている男性は笑いながら、そんなことはしないと断言した。
「こういう服を着てほしいっていうイメージはあるかもしれないけど、あいつはそんな写真を撮りたくて募集したわけじゃないと思うよ。あっ、モデル募集を呼びかけたのは西田麻里っていう女性だし」
「あっ、女性の方なんですね」
それを聞いて安心した真里。その
磯村は4月から真里から教えてくれたコンビニで働き始めた。真里の言う通りここは良い労働環境をしっかりと整えていた。有給が取れると店側から説明してくれた、定時に帰れる、残業した場合は当然、残業代も出る。しっかりと労働者に与えられているはずの権利を当たり前のように守ってくれている職場は従業員の顔も明るい。探せばこんな場所もあるんだと思った。
レジ業務は初めてやる磯村は悪戦苦闘したが2日目からは慣れたものになっていた。
磯村とほぼ同じタイミングでもう一人の女性アルバイトが入っていた。新人アルバイトは最初の出勤ではレジを慣れるまでやらされるので長いこと肩を並べてレジを打つ。
二人をちゃんとできているか、分からないことがあったらサポートする立場にいたベテランの女性パート従業員は次回からは基本、一人でやってもらうと告げ3回のレジ研修を終えた。
「磯村さんはもう慣れましたか?」
「う~ん、基本は覚えたって感じかな」
「これから同じ時期に入ってきたということで、同期としてよろしくお願いしますね」
「同期って聞くと同じ歳って勘違いするけど、伊藤さんいくつ?」
「私は今年から高校生でまだ15歳です」
「あっ、背高くて大人っぽいけどまだ全然若いんだね。俺は今年、高校卒業してもう19歳になったんだ」
「あっ、そうなんですね。でもまだ今年から高校生ですって言っても疑われませんよ」
「それは喜んでいいのか」
先にロッカーから荷物を取り出し、お疲れ様でしたと言い店を出る伊藤。壁に貼られてあるシフト表を見る磯村。
「伊藤さんって、名前はなんて言うんだ……これは、なんて読めば、あお、分からないな。今度、聞いてみよう」
ちょうど良い雨であった。昨今の、特に夏へ向かう時期の雨の降り具合は異常とも言えた。傘もあまり役に立たないような雨では求めているものは撮れない。かつての梅雨を思わせるしとしと降る雨、こんな日を待っていた。
真里は指定された小道具、黄色い傘を持ち公園で様々なポーズをしていた。
「今度はしゃがんで、ちょっと軽く空を見てくれるかな」
西田麻里が楽しそうにそう要求した。所属する写真部は風景を撮るのがメインでなかなか人を撮ることはない。部員の中から選ぶにしても、これを人様に見せるとなったら誰もが首を横に振る。あまり表に出るのは好きではない、そんな人しかいなかったのでだったらもう学内のどこかにいる外見に自信がある人が来ることを願って募集するしかないと言い出したのが西田であった。
予想以上の人材が来た西田は心が弾む心境で、こんなチャンスはもう来ないと言わんばかりに写真を撮り続けた。
「よし、こんなものかな。お疲れ様でした」
気が済むまで写真を撮った西田は最後に撮った一枚を確認した。
「私にも見せてよ」
ここまで百枚近くは撮ったかもしれない写真を順に見ていくがあるひとつのことが不満があった。
「これ、本当はもっと大きいんだよね?」
「うん、パソコンとか大きい画面で表示させたらもっと綺麗にみえると思うよ。やっぱりこの小さな画面からだと物足りないよね」
「そうなの、せっかく高そうなカメラで撮っているのにと思って」
「ねぇ、この写真いくつか私のホームページに載せていい? どうせ真里、もうツイッターで自撮り写真上げているんでしょう?」
「うん、いいよ。私のツイッターにも上げたいから私にもよく撮れたやつくれない?」
「わかった。私のホームページ、そこそこアクセスされているから、きっともっとフォロワー増えると思うよ。リンクとして貼っておくね」
「そうなんだ、やった!」
互いの利害関係も一致していた。真里のツイッターでのフォロワー数は千人弱と、真里がフォローしている100人弱の比率から見ても一般人の中ではもちろん多い部類に入るがそこから伸び悩んでいた。他の似たような事をしている人をみればセクシーな衣装を着て、水着、下着姿同然の格好を惜しげもなく披露してフォロワーを獲得していたが、さすがにそこまではと踏み止まる思考は持っている真里。それに万が一、磯村にバレたら敬遠されるかもしれない。いや、されるだろう、磯村、個人だけに送った場合でも注意されるくらいなのだから日本、それどころか世界中から見られるネット上にそんなものを上げてしまったら関係の亀裂は避けられない。
「今日はありがとうね。今まで人を対象に撮ったことがなかったから楽しかった、でもそれと同時に、まだまだ改善しなきゃいけないことや、どうすればいいのかまだ分からないことも見えてきたから、またお願いしてもいいかな?」
「うん、いいよ。むしろ今度は私の方からお願いしたいんだけど、次は私の彼氏と一緒にというのはどうかな?」
彼氏、やっぱりいるよね、そんな一言を心の中で咄嗟に呟いた。しかしカップルを撮る、それはそれで面白そうであった。
「それ、いいかもね、面白そう。そんな事ができるなら是非」
「多分、断るなんてことはないと思うからじゃあ、それで決まりだね」
「真里の彼氏さんか、どんな人か楽しみ」
一足先に着いていた磯村は制服の上着を着て、時間になったらいつでも働けるような状態で待機していた。あと10分で出勤時間の17時、そのタイミングで伊藤も事務所へ挨拶をしながら入ってきた。磯村は伊藤が背負っている黒いカバーで覆われているギターに目がいく。厚さからしてエレキギター、学校帰りだろうし部活で弾いているのか。磯村も音楽を趣味の一つにしているので気が合いそうだと思ったが、その話をすると長くなりそうなのでここではその事について触れなかった。
23時を回り今日の仕事を終えた磯村は深夜に働く人とレジを交代してささっと裏へ入る。この瞬間の解放感は何度味わっても気分が良いと思いながら。事務所へ入ろうとすると何やら騒がしかった。先に仕事を終えていた女子高校生3人が談笑をしていた。その一人に伊藤もいて早くも年が近い子と仲良くなっていたようである。終われば早く帰りたいと思っている磯村にはこの光景はいまいち理解できなかった。こういう人達は学校でも放課後、ずっと学校内に残って話しているのだろう。
「お疲れ様です」
磯村がそう言いながらタイムカードを押してその輪の中を横切り制服を脱ぐ。
「磯村さんが退勤って事はもう11時か、そろそろ私達も帰るか」
会話の中心にいた女子高校生がそう言うと一斉に立ち上がり、これは一緒に店を出ることになる雰囲気でそこまで溶け込めていない磯村はやや気まずいと思っていた。
店を出ると早々に電車で帰る人、西口のバス停から帰る人、そして東口から帰る人で別れることになる。この中で唯一、磯村と伊藤だけが帰る方向が同じであった。適当に別れの挨拶をしてそれぞれの帰路へ歩く、どこまでかは分からないが一緒に帰るのに無言は気まずい、これは少しは会話した方が良いと磯村は判断した。
「伊藤さんは家どこなの?」
「私はここから近いです、歩いて10分くらいですかね」
「それはいいね、俺はバスで帰るからじゃあ直ぐお別れだね」
「こんな時間でもまだバスあるのですか?」
「うん、俺が帰る方面は走っている本数多いんだ。そういえば伊藤さんって下の名前なんて読むの? ちょっと難しい漢字だよね」
「あれで、あおいって読みます」
「あおい、なるほど。確かに碧いとは読むからそんな感じの名前だとは思ったけど。あっ、じぁあ俺はバス停に行くから階段下りるけど」
「私はこのまま真っ直ぐなので、お疲れ様でした」
「うん、お疲れ様」
ここまでの印象で他の子と比べたらなんだか芯がしっかりしていると思った。それが外見にも表れているのか、やはり今年から高校生のわりには大人っぽく見える。真里の方が年下と言われても疑われないだろう。全く違うタイプの女性。背も真里よりも全然高い。実際に会ってみてあんな人とも付き合ってみたいと、浮気とかそんな気はもちろんないが、そう思うだけだったら何の問題もない。だがこんな気持ちが抑えきれず手を出してしまう人もいるのだろう、褒められたことではないがなぜ男が浮気をするのか少し分かった気がした。男性はある程度、外見が良くて気が合いそうなら直ぐにその欲望が沸き出てしまうのだ。
学生の身分から解放された磯村は時間を持て余していた。バイトがないこの丸1日をどう過ごすか。課題もテストの事も気にかけなくて良い、この初めて経験する境遇、いざこんな経験をすると学校というのはいい暇つぶしであったとふと思う。変な話だがなにもやる事がないから学校へいく、そこで友達と会って話をする。授業をまともに受けていなくても、ちょくちょく休む時はあっても、とりあえず卒業できるまでは来ていたあいつも、こんなことを思って来ていたのだろうか。
購入するも手つかずだったゲームソフトを朝から途中、昼ごはんを食べて休憩しながら夕方16時までやった。今までならここまで進めるのに3、4日はかかったと思う、それを1日足らずで辿り着く。これは思ったより早くクリアできそうであった、テレビゲームもそこまで長い間、その暇を潰してはくれなさそうだと思いながら外に出る。
一人で行くのは初めてである。高梨から教えてもらった楽器練習スタジオを夕方17時から2時間、予約した。高梨と御茶ノ水へ行き買ったドラムスティック、それを買ってからたまにドラムを叩く真似をしていた。これも今、暇だからできる事、たまには生の楽器に触れて叩きたいという欲求を満たすのだ。
一人ということで一番小さい場所を取った。ちょうど1年前、同じくらいの時間帯で高梨と初めてこのスタジオを訪れた。その高梨は今、大学進学と同時に学生寮から通うということで千葉県へ引っ越した。なかなか会うことができなくなってしまったこと、なにより今ここに高梨がいないことが寂しく思えた。暇をつぶすにしてもいつも一人はやはりどこか満たされない。
不思議なものでその人と知り合った途端に街の中でばったり会うという事がよくある。部屋から出て受付ロビーに行き会員カードを引き取ろうとした時、思わず声を上げてしまった。
「あっ」
「えっ?」
その声に反応して
「伊藤さんだよね? 俺、磯村だけど」
「あぁ、磯村さんですか! いやだ全然、気づかなかった」
やや激しく動くためドラムを叩いている間だけ外していた眼鏡もかけてようやくいつも見る磯村へと戻った。
「眼鏡外すと誰だか分からなくなるってよく言われるから気にしないで。しかし伊藤さんもここを使っているとはね。前もバイト先にギター持ってきていたから楽器が趣味なのかなとは分かっていたけど」
「はい、そうなんです。学校の部活でも軽音部に入っていて。ちょうど駅前に練習できるスタジオがあるって教えてもらってからよく利用しています。磯村さんも何か楽器をやっているのですか?」
「伊藤さんほど熱心にはやっていないけど一応ドラムを」
「えっ、ドラムやっているのですか」
少し食いついてきた反応に、高梨のドラムをやっている人は少ないからどのバンドからも欲しがられるという言葉が浮んできた。しかし磯村は8ビートなど基本的な事がようやく出来始めた程度で誰かとセッションする程の腕はまだない。
「まだ今年に入ってちょっと本格的にやってみようかなと思ったところだから全然大したことはないよ」
「それでも、なんでドラムをやろうと思ったのですか?」
「好きなバンドのドラマーに憧れて、ちょっとかじってみようかなと思っていたところに高校時代のギターやっている友人に背中を押してくれたのがきっかけかな」
「へぇーそうなんですね」
伊藤は18時から1時間だけの予約で磯村とスタジオを出るタイミングが一緒であったのでまたあの時と同じ所まで帰ることになった。今度は少し長い。
「伊藤さんはどんな音楽聴くの?」
「最近よく聴くのは洋楽で、デュラン・デュランとか好きですね」
磯村もデュラン・デュランの名前はまさにドラムをやりたいと思わせたドラマーが最も影響を受けたバンドの一つに挙げていて知っていた。
「デュラン・デュランって、伊藤さん高校生だよね」
「そうですけど、最近はネットのおかげでそういう昔、流行った曲も手軽に聴けるようになりましたしけっこういますよ、ビートルズが好きな子とか」
「確かにね。でも洋楽か、俺はまだ聴いたことないな」
「なら是非聴いてみてください。日本で今、流行っている音楽なんかよりクオリティ高いですよ」
「うん、聴いてみようかな」
なんだか良い雰囲気で別れた。バイト先のみならず、僅かな時間でもこうしてプライベートでも共に過ごす、日に日に伊藤と仲が深まっていると思わざるを得ない。その気になればもしかしたらというのも頭を過ぎるが既に自分には真里がいる。そう言い聞かせてバスの中で真里のツイッターをチェックした。真里は少しずつ慣れて、楽しい大学生活を送っているようで何よりである。そろそろ会いたい気もした。それは向こうも同じ気持ちなのか、こんなメールが来た。なにやら写真部の人と友達になれたので今度、一緒に写真を撮ってもらわないかということだった。なるほど、最近一人では絶対に撮れないような構図の写真をツイッターに上げていたのはこれが理由であった。あまり写真を撮られるのが好きというわけではないがこれは悪い気はしない。時期は7月、まだ少し先の話であったがわざわざ付き合い始めた記念日とも言うべき日を選んでいた。正直、磯村は付き合った日はいつかと聞かれても7月とは答えられても日付けまでは曖昧で言われて思い出す。真里はしっかり覚えている。これからはもっと歩調を合わせようと誓う。磯村も真里と同じくらい好きでたまらないと認めつつあった。
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