第5話

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 現在、この場所にいる人間は、以下の通りである。

 かよ子さん――苗字不明、本名なのかすら不明。年齢不詳。町外れの群青林にある「おもいいろ」という店を営んでいる女性。父の知り合いで、小さな頃から何度となく会ってきている見知った顔だ。

 たるる――在許紫和。見飽きた顔だ。

 僕――神子柴璃央。これと言ってコメントはない。僕という僕だ。

 まあ、それはいいとして。

「え? 誰かのおつかいでもなく、アポイントを取り忘れていた訳でもなく、ふらっと寄ったわけでもなく――知らない洋館ばかりが立ち並ぶ一本道に迷い込んでしまって、あまつさえその行き止まりがここだったと? ふうん? あらあらまあまあ――それはそれは。緊張したことでしょう――ううん、少しだけ胸が踊ってしまって疲れた、かしらね? こんな上がり口で立ち話もなんだからお上がりなさいな。靴はそこで脱いで下さるかしら? ああ、鍵はしめなくて大丈夫よ。飛び入りのお客様なんて滅多にいらっしゃらないもの――うふふ」

 僕達がしどろもどろになりながらも身振り手振りでなんとかことのあらましを説明すると、かよ子さんは目を見開いた後、一度だけ訝しげに表情を崩したけれど、すぐに笑顔で家の中へ招き入れてくれた。

 「春といえども、夜は肌寒いものでしょう」と言われてはて――と僕は首を傾げた。今までの道すがら、寒いと感じたことがなかったのだ。たるるも「今日は暖かかったから寒くなかったよ!」と元気に答えているし、僕の感覚がおかしかったというわけでもないだろう。

 妙に――生暖かったと、思う。

 暑くも寒くもなく、かと言ってどんよりと停滞していたということもなく、快適でもなく不快でもなく――まるで気温という概念が無かったかのように。

「あらそうなの、今日の夜は凍て返るってテレビで言っていたのだけれど、間違いだったのね。やあねえ――科学的な天気予報はこれだから宛てにならないのよ」

そう言ってまた、かよ子さんは笑みを深めた。嫌になるわよね、と言われても、不識で不調法な現代人の僕は科学的な天気予報以外の天気予報と〝断言するもの〟を知らないのだけれど。歴史的には色々とあったのは勿論知っているし――そのくらいの教養はあるつもりだけれど、〝この現代社会においてまかり通っているもの〟を論うことは僕には出来そうにない。

 それにしても。いったいこのかよ子さん(苗字不明)という人は、どこまで笑顔を深めて意味を込めることができるのだろうか。「嫌ねえ」と不快そうに不満そうな台詞を紡いでいるのに、その顔には、嫌味ひとつ――皮肉ひとつ汲み取れない笑顔が張り付いている。

 謎だ――謎すぎる。

 この数時間の中で実は一番謎めいていて解明出来そうにないものは、かよ子さんの笑顔の深層かもしれないな、なんて思えるのは、いつも通りを彷彿とさせる――つい先刻までの〝いつもと違う事〟を忘れさせてくれるような――そんな人に会えて、強ばっていた肩の力が抜けたからだろう。

 まあ、そんなことは今はどうでもいい――

 僕が――僕達が今勘案すべきことは、女性の笑顔の深さでは、ない。

 ちょっとリラックスついでに冗談めいてみただけだって。

 いつまでもぼやっと突っ立っている訳にもいかず、僕は靴を脱いで下駄箱側に揃えた。家主に背を向けないように注意を払いながら立ち上がると、後ろからかぽかぽと乱雑に靴を脱ぎ捨てる音がした。振り向くと、早く上がりたそうなたるるが、お気に入りのピンクのスリッポンを足だけで器用に脱ごうとしているところだった。「たるる」と、少し声を潜めて諌める意味を込めて名前を呼ぶ。顔を上げた彼女はぴたりと動きを止めて、僕と家主の刺すような視線と自分の靴を順に見遣って、えへへ、と苦笑いを映した。僕とかよ子さんの言わんとすることを酌んだらしく、いそいそと自分の靴を持って僕のものの横にきっちりと並べた。

 ――ふふ。かよ子さんの口を薄く開けた笑い声に肩を揺らす。口元に手を添えて小さく微笑む様は、いま横にいる在許紫和と同じ女なのかと疑いたくなるほど上品だ(むしろ女として疑わしきはたるるの方······)。自ら誂えたという赤い着物は、大きすぎない白の紫陽花がおっとりとした色味を添えているおかげで、派手さを欠いている。淡い水縹色の襦袢に合わせた同色の帯に皺や乱れは一切ない。正しい着方と、相応しい仕草が身に付いているのだろう。烏羽色の細く長い髪の毛はいつものように編み込まれて後ろできっちりと留められている。

 変わらないな――。

 一刻ぶりに見るいつも通りの何かに、僕はひどく安心した。

 案内されるがままに、廊下を歩く。しゃんと伸びた後ろ姿に、僕達も襟を正した。外観を裏切らない、こぢんまりとした大きさの内装が続く。天井が黒く見えないほど高い割には、廊下はギリギリ2人が並んで歩ける程度の幅しかなく、門前のぼんぼりと同じ模様の襖も、我が家の和室よりも鴨居が低い。なんだか自分が大きくなったような気分になる。不思議の国のアリスはこんな気分だったのだろうか。

 丁度、この家のサイズに当て嵌めた襖二部屋分を通り過ぎたところで、かよ子さんが静かに足を止めた。そのまま、慣れた手つきで引手に手を添える。留袖の袂を左手で押えながら拳二つ分程引くと、流れるように親骨に手を移して、中ほどまで大きく開いた。そのまま袂に当てていた片方も添えて、僕達が身をよじらなくても入れそうなくらい大きく開いた。お香なのか、ふわりとまろやか匂いが鼻腔を掠める。日も暮れてしばらく経ったから、いささか薄暗さがあったものの、部屋の中はごくごく普通の八畳間だった。

 かよ子さんが、穏やかに振り返る。

「どうぞ、お荷物は好きなところに置いていただいて構わないわ」

「あ、はい。ありがとうございます······」

「えへへ、ありがとう!」

いえいえ――と、朗らかな笑顔を浮かべたまま、僕達が部屋に入るのを襖の横に身をずらして待っていて、礼儀だと言わんばかりに当たり前に佇む姿に申し訳なさに背中を押されたような気がした。「ほら早く入ろうよ」とたるるの手を引いて六畳間の端に立つ。

 どこに置くのが正しいのか分からない荷物を持ってまごついている間にも、かよ子さんは襖を閉めてまとめてあった座布団を並べてくれていた。

 ――好きな所に置いて構わないって言ってるじゃないの。

 ――何が正しいだとか、どうするべきだとか、そういう背筋が張り詰めるようなことは、子供が気にすることじゃないし、知らないからと言って縮こまることではないのよ。

 きょとん、とするたるると口を引き結んだ僕を見て、そうでしょう?と座布団から手を離して首を傾げた。白い頬に細い髪の毛が滑るのが、どこかしどけなくて、美しい。

 何もかも見透かした台詞に曖昧に言葉を濁す。

 出来なければならない時までに出来るようになれていればいいのよ――と。

 これが、ろうたけた大人というものなのだろうか。僕達もいつか、こんな風になれるのだろうか――ううん、どうだろうな、今は想像が出来ない。

「くすくす、どうぞお当てなさいな」

「あてるう?」

「膝にあてる、お座りくださいという意味よ」

「そうなんだ! 時代を感じる言葉ね!」

 ぴたり――と、ぴしり――と。

 空気が凍るってこういうことか――。

 なんて感心するのと、僕がたるるの後頭部を平手打ちするのと、かよ子さんが口を開くのはほぼ同時だった。

「――ああ? んだと糞餓鬼」

「馬鹿! たるる! ほんと馬鹿!」

「いったーい! 叩くことないじゃん! 私が何したって言うのよ!」

「したんじゃないよ言ったんだよ!」

そこは「物知りですね」でいいじゃないか。どうしてこいつは、そこでわざわざ失礼な言葉を選んでしまうのだろう。。

 確かに――言葉の意味としてたるるの使った語彙は間違いではない。大和言葉とは、つまるところ現代人の最先端である学生からすれば授業で習う〝古語〟でしかない。古めかしい――語句。昔の言葉。それを美しい、身につけたいと思うかどうかは、人それぞれなのだ。

 とはいえ、女性に対して――自分よりも〝確実に〟年上の女性に対して「時代を感じる」は非礼にも不行儀にも程がある。

 恣意的な彼女は、未だぎゃんぎゃんと叩かれた事への抗議をのべつまくなし喚き散らしている。男が女の子に手を挙げるとは云々。

 僕はそんなことには馬耳東風を決め込み、おそるおそる黙ってしまったかよ子さんを見やる。ぎこちなさすぎて、首の奥で本当にギギギギ、と音がした。さっきこの人は「ああ? んだと糞餓鬼」って言ったぞ。確かに僕は聞いたぞ。というかかよ子さんの後ろに般若が見えるのは気のせいだろうか。ものの喩えであって召喚したわけではないだとかそういう重箱の隅をつつくようなことが言いたいのではなく。

 威圧感が半端じゃないのだ。

 彼女は――

 ――彼女は、笑顔だった。

 ――そう、いやに完璧な笑顔だったのだ――顔は。

 ひいっと竦み上がるのを抑えて、僕はへこへことたるるの分まで頭を下げた。せっかく得た安全地帯からの追放だけは阻止せねばなるまい。

「すいませんすいませんすいませんすいません」

「あら? あらあら? どうして言った本人でもないリオ君が謝るのかしら? それとも何? 今しがたたるちゃんが言ったことに対して思い当たる節が――共感し得る節があって、後ろめたいと思っていたりするのかしら?」

「ないですないですないです神にかけてないです断言します」

「あらそう。それならいいのよ、人の家に前触れもなく訪ねてきて家主に暴言を吐くだなんて、そんなことしないわよね? それともまた振り出しに戻って石畳を見つけるところから仕切り直しかしら」

「しませんです! はい! 二重の意味で!」

びしっと背筋を伸ばす。ひとりしき黙りを決め込んだ後、かよ子さんはからからと声を上げて「冗談よ、私もそこまで阿漕な奴ではないわよ」と悪戯っ子のようにはにかんだ。

「さて――と。お平にしてて頂戴。今お茶を用意するわ」

「重ね重ねありがとうございます。あ、お手伝い出来ることがあれば――」

「いいのよ気にしないで、私も今日は暇をしていたところだったの。お手伝いと言うならそうねえ、暇潰しに――あなた達が今まさに体験している状況を臨場感たっぷりにお話する――でいいわ」

そう言って、きっちりかっちり敷居につま先ひとつ触れずに歩くかよ子さんは、細くて小ぢんまりとした廊下へと消えていった。

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