幕が開かれた。
ヌポォ。
卑猥な音は鴨兵衛の喉から、袖をまくったおネギがその白くて小さな手を突っ込み掴んで引っ張り上げた音であった。
ゼバァ。
舞台前の席、目立つ場所、予想外に人目を引いた救出劇、取り戻した呼吸に、心配げに見ていた周囲より拍手が起こる。
これに顔を赤らめながら深呼吸する鴨兵衛、涎て汚れた手を清めに向かうおネギを見送りながら手酌で盃に水を観たし、飲み干す。
ップウ。
一息、落ち着き取り戻す、ように見えて戻ったのは呼吸だけ、その心中は穏やかとは程遠かった。
…………総角遊郭の変、それはあの夜の直後につながる話、何時か話さなければと思いながらも逃れ続けた過去、鴨兵衛が最も恐れる事柄であった。
それが今、このような場所で、新年早々、目の前で、演じられようとしている。
逃げ出したいのが本音であった。
なんかも、料理とか芝居とかうっぽいといてすぐにでも立ち去りたい気持ち、いっそのこと喉に詰まらせたまま運び出されればよかった。
しかし、逃げ出したところでいつかは、またどこかで同じように追いつかれる。
思い返せばあれはかなり派手に壊した。その分、多くの人に見られてたのはわかっていた。ならばいずれどこかで人の口に上がったのを耳にすることもあるだろう。
それが、鴨兵衛の預かり知らぬどこか遠くで、よりもまだ、この芝居小屋でならまだ頼れそうな人がいる。
いやしかし、だからといって、けれども、そうはいっても、グルグルめぐる考え、不安、恐怖、今すぐにでも逃げ出したい気持ち、けれどその勇気すらわかない鴨兵衛、ただダラダラと脂汗垂らしながら、引き抜かれて椀に戻った涎餅を、今度は大人しくハジリハジリと食すのみであった。
「鴨兵衛さまぁ」
そこへ戻ってきたおネギ、あきれたような声を上げるとそのままトトト、元の席に収まる。
その様子、今のところ格段の変化は見られない。
けれどまだ芝居はまだ、肝心な話も始まってない。すべてはそこから、との鴨兵衛、その視線に気が付いてないのか気が付いて無視してるのか、おネギは残る椀を手に取り、ほぐしてた餅を箸で摘まみだすやガブリとかぶりつき、よく噛んで食べ始めた。
それでようやく鴨兵衛、これが自分のためではなく、あのように喉に詰まらせぬようにとの世話、できすぎた心遣いであったと気が付いたのであった。
……おネギ、やはりしっかりしている。
年齢以上に、必要以上に、できすぎるほどにしっかりしていて、心配事などすぐには思い浮かばなかった。
だったら、と思うと同時に、だからこそ、との思い、巡る間にカツリ、箸が椀の底を突いた。
いつの間にやら雑煮は消えていた。
……食べた覚えは、ある。後味もある。だが味は覚えてない。
せっかくの御馳走、無心に食べつくした後のむなしさに、何とも言えない思となった。
キン!
そこに打ち鳴らされるは拍子木の甲高い音、これに観客席の騒めきがなお一層強まるや立ってたものはあちらこちらへと慌てて移動、各々の席へとついて行く。
「始まるようですね」
キン! キン! キン!
そう言うおネギ、いつの間にか空となった椀と箸を置いて、代わりにみかんの一つに手を伸ばすと膝の上に、目線は舞台に向けたまま、器用に剥き始める。
キンキンキンキンキンキン!
そうこうしている間に拍子木打ち鳴らす間隔が短く早く、急かすようになっていく。
キン!!
そしてひと際大きく打ち鳴らせると、それを合図に静寂となった。
縦縞模様の向こう、掴んで走っているのか勢いよく幕が開かれた。
舞台、一人立つは二枚目の男、青い着物に着替え、腰には偽物であろうが大小刀を帯びての登場であった。
その姿に、鴨兵衛今更ながら思い出し、察する。
思えば額の刀傷、伝え聞いた稲妻教士郎の風貌と同じもの、ならばやはり教士郎なのだろう。
大きな頭、悪役のよう、間近で見た時にはあまり良い印象ではなかったが、しかしこうして舞台に上がり、役になりきれば、そこは本業、様になっていた。
カラン。
鳴は三味線、これに教士郎、動く。
「
細かな違いはあれども毎度始まりはこのような常套句、発する声はよく響き、ピシッと決めた見栄の姿は確かに、絵になる姿をしていた。
これに鴨兵衛、ゾクゾクとくる。
体の火照り、高揚、無意識に興奮しているらしい自分を見て、正直あまり期待してなかった鴨兵衛であったがしかし、この始まりは上々、これならば続きも悪くはないだろう。
これで鴨兵衛、開き直る。
鴨兵衛、とりあえず今は、芝居を楽しむこととした。
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