パチリ。

 ……将棋の始まりは戦乱の世、戦の作戦会議、どこにどの軍を置くかを地図上に示すために札を置いたのが最初と言われている。


 それが戦術眼を磨くために仮想の戦場を作り出し、動かして学ぶようになる。だがこれを一人でやってると敵側が都合の良い動きになるからと敵側味方側に分かれて戦うようになり、それがいつの間にか勝ち負けを競うもとなっていった。


 札は駒となり、それぞれ厳格な規定で動かし方が決められ、初期の位置とか勝敗の決し方などが定められ、今の形の将棋となった。


 それがどのような形で広がったかは定かではないが、今では老若男女、位の高いも低いも関係なしに多くのものが楽しむ遊技として知れ渡っていた。


 そんな将棋ではあるが所詮は遊技、武芸ではなく、せいぜいが暇つぶし、茶屋なり寺院なり銭湯なり遊郭なり、人の集まる場所で話す話題がないから黙ってパチパチするもので、真剣に取り組むものでも、ましてや道場を開くほどのものではない、と鴨兵衛は思っていた。


 それがここでは違っていた。


 全員が寡黙、口を真横に絞り、瞬き忘れた眼差しで盤を睨み合っている。


 それがズラリ、剣術道場としては普通の広さの板間に二人一組で盤を挟み、交互に駒を動かしあっていた。


 見たところ男ばかり、年寄りが多いようだが、中には若人も、子供も混じっていて、服装から武家から農民まで位に関係なく混ざっているようであった。


 しかし張り詰めている空気は紛れもない道場、剣術を学ぶために全力で取り組み、競い合ったあの時と全く同じであった。


 その中へ灰色の男が入って行っても、挨拶どころかチラリと見るものさえいない。


 無視されるのが当然なのかそのまま一番奥へ、空いてた盤にドカリと男、立膝で座り、反対側を手で指し示す。


 ここまで来てしまっては、座るしかなかった。


 小さく覚悟を決めて鴨兵衛、左の腰に帯びていた黒鞘を引き抜く。


 そこに刀は無く、ただの鞘だけ、即ち鴨兵衛は刀無しであった。


 …………そのこと、気にするものは一人としてここにはいなかった。


「先手で? 後手で?」


「……先手で」


 手慣れた手さばきで駒を並べる男に、正座で座した鴨兵衛もぎこちない動きで並べていく。


「では、よろしくお願いします」


「あ、あぁ、よろしく、お願いします」


 互いに礼、そして待つ男に、先手と言ったのを思い出し、鴨兵衛パチリと始めた。


 パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、打って、指して、力入れすぎて途中駒を二つ握りつぶしながら、八十八手を持って鴨兵衛の詰み、負けとなった。


「……なぁんも考えなしに打ってたでしょ?」


 男にズバリ言われる。


「囲いも動かし方知ってるからマネしただけ、こっち動いてるのにてんで違う場所守ってるんじゃあ勝てるわけがない。全体的にそう、考えるにしてもせいぜい三手が、五手、それも一か所見てたら他が見えてない。ここなんてほら」


 感想戦、というやつだろうか、負けた試合の反省点を洗い出すのは剣術の道場でも見られることであったがしかし、これはそんなことを話せるような内容ではなかった。


 素人以下のボロ負け、それを振り返って反復、やられる鴨兵衛は泣きそうであった。


 元より将棋など動かし方しか知らない身、顔見知りの中でもさして強くない腕前、そもそもそうでなくても道場など破る気もなかった。それがこんな、痛みこそないもののネチネチと正論で嬲られるのは、心に良くなかった。


 顔を真っ赤に、あと一言でもあったら涙がこぼれるまで追いつめられ、もうこうなったらその前に逃げ出そうと中腰になりかかってる鴨兵衛より男、興味をなくしたように視線を変えた。


「……で?」


 代わりに向けた先にいたのは連れの幼女であった。


 鴨兵衛の醜態、気にすることもなくヘタリと女の子座りで前かがみ、食い入るように盤面をのぞき込んでいた。


「先手で? 後手で?」


「先手を」


 応えてから、改めて鴨兵衛を見つめて許可を求める。


 これにこっそりと涙をぬぐっていた鴨兵衛、将棋以上に考える力を失っていて、ただの反射で席を譲った。


「では、よろしくお願いします」


「お願いしたします」


 互いに礼、そしてパチリパチリと打ち始める。


 初めは鴨兵衛と似たような動き、けれどすぐに見たことない陣形へと変化していく。


 パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、目まぐるしく駒が動く。


 初めは真ん中で指しあってたかと思えばいきなり端に飛んだり、あるいは同じところを行ったり来たり無駄にしか思えない動きを繰り返したり、駒の役割も、先ほどまでは守りだったはずの位置が攻めの最前線に変わり、かと思えば潮が引くように逃げていく。


 パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、パチリ。


 もはや鴨兵衛には勝っているのか負けているのかわからぬ盤面、気が付けば見学人が増えていた。


 道場内で他に指してた連中、取り囲み、ヒソヒソ越えで難しいことを言っている。


 その間もパチリ。パチリ。パチリ。パチリ。駒が進んで複雑になって、もはや鴨兵衛の目にはないが何やらわからぬ複雑さ、けれども決着はあっけなくついた。


「あの、二歩、とは何ですか?」


「禁じ手だ。この一番多いやつの前後にもう一枚置いたらいけないんだよ」


 初歩の初歩、駒の動かし方の次当たらりに教わる将棋の規則、おネギは知らなかった。


 つまり、それは、そんなことも知らなかったのにここまで打てたと言うことでもあった。


 途方もない才覚、頭が良いとか切れるとか、そういった段階を易々と飛び越えた先、おネギには天より与えられたとしか思えない将棋の才能があったのであった。


「そう、だったんですね」


 周囲の驚愕など無視しておネギはショボンと萎む。


「お嬢ちゃん、お名前は?」


「おネギ、です」


「おネギ、将棋の経験は?」


「いえ、これが初めてです、でした」


 やはり、という声を聞き流し、男は続ける。


「どうだ、将棋、楽しいか?」


「はい。とっても」


 おネギの声は弾む声、子供らしい、楽しい声であった。


 これに男、頷く。


「だったらもうちょっと指してけ」


「それは」


 食い気味に応えかけておネギ、一瞬の躊躇、そして目線を送る先は鴨兵衛であった。


 ここまできてなお許可を求める姿に鴨兵衛、いい感じに自分の敗北がウヤムヤになってると気づいて、頷いて返せばおネギは満面の笑み、弾むような手の動きでジャラリと並べた駒を崩して初期へと戻していく。


「だがその前に基本からだな。駒の動かし方、今みたいな禁じ手、その他細かなところを押さえてからじゃないとな」


「はい、お願いします」


「それと、自己紹介しておくか」


 最後の駒を置き、自陣を揃え終えてから男はおネギを見据える。


「俺は伊藤采看いとうさいかん、この『百宝道場ひゃくほうどうじょう』の道場主、でいいのか? まぁ持ち主だ」


 男、采看は小さく笑って見せた。


 こちらもまた、子供のようであった。

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