遥かに遠い存在であった。
鴨兵衛は突撃を止めた。
目の前には追っていた敬之助、苦し紛れの攻撃の果てに、逃げようとしての転倒、おネギの仕掛けがあったとはいえ、無様に顔を打って気を失っていた。
これ以上の追撃は無意味、後は役所にでもつき出せば相応のバツが下るだろう。
形相が緩み、かと思えば鴨兵衛、今更痛みに気が付いたか、顔をくしゃくしゃにしかめると、鞘を持ったまま、腕に足に胸に、刺さった破片を抜き去り地面へ捨てた。
その姿、事情を知るリンでさえ鬼に見えた。
ましてや、事情を知らぬ人々には、大逆の悪鬼にしか見えなかった。
……目立つものしか見ないは敬之助の弁だが、実際に目立つものは確かに目を引いた。
この場において目立つ物は焼けてる宿に叩き出された火消し、そしてそれをやったと思われる巨漢であった。
ならば恐怖を感じるは当然のこと、誰も彼もが距離を置き、その一挙手一投足をつぶさに見張りながら、ただただ視線を送り続けた。
それは深い意味があるわけでも、狙いがあるわけでもなく、ただ恐怖と緊張により、そうするしかない眼差しとも言えた。
積極的に争うことも、逃げ出すことも無いが、意思を示すに十分な非難の視線、そこには恨みつらみとも、慈悲や哀れみとも違う意味が含まれていた。
悪人は、これに気も止めず、むしろ気持ちいいとさえのたまうが、しかし鴨兵衛は悪人ではなかった。
ジリリ、視線の力に押し返され、一歩引く。
そして違う方へと向き直っても同じ視線、グルリ囲まれ逃げ場がなく、それでも逃れようときょろきょろとする姿は、正に追い詰められたネズミであった。
そこへ騒ぎが近づいてくる。
伝え聞こえる声から、誰かが役人を呼んだとわかる。恐らく本物の火消したちも集まるだろう。
視線に射止められる静寂の空気が壊される前、壊したのは鴨兵衛であった。
「あ、逃げた」
誰かの一言を背に、鴨兵衛は逃げ出した。
その走り姿は敬之助に迫るときと打って変わって、まるでいたずらが見つかり怒られる前の子供のようであった。
その姿に周囲は変わらず視線を向けるだけ、追いかけようとしたのはリン一人だけであった。
しかし、それさえも遮られる。
「八吉様は、治療が終わりました」
おネギ、わざと立ちふさがるように前に出て、これまでとは別人のような声色で、語る。
「お腹の傷は縫えました。大きな血管も無事でしたし、破片も全て取り出しました。少なくとも出血で死ぬことはないでしょう。ただ感染が怖いので、強い酒を振りかけ、清潔にしてあげてください。それでも後は本人の体力次第です。この数日が山場でしょう」
冷たく、淡々とした声は、まるで幽霊のもののように、リンには聞こえた。
それを発するのは果たして幼女か、疑いを持ち始めたリンへ、おネギは静かに微笑みかける。
「あたしたちのことはお気になさらず。何かしら壊して大騒ぎ起して、逃げるように立ち去るのがこの旅の常、あたしも鴨兵衛様も、なれていますから。それに……」
ゾクリ。
夏の日差しを浴びながら、リンは背筋にどうしようもなく冷たいものを感じていた。
「……鴨兵衛様にはあたしがいますから」
魔性であった。
さして修羅場も潜っていないリンでさえもはっきりとわかる、常人ならざる眼差し、それを浮かべて薄く笑うおネギの姿は、恐ろしくも美しく、そしてそれはリンが住まう世界とは、遥かに遠い存在であった。
「あ、あな、あ、あ」
舌が回らぬリン、問いたいことはあっても、それを問うてはいけないと心が理解していた。
それでも声を絞り出そうとしているのはただ、ただただおネギに、二人に『自分らは敵ではない』と伝えたいからであった。
それを汲んだのか、おネギはまた幼女らしい微笑みを浮かべると、周囲の謙遜に溶け込み、姿を消した。
…………米丸が迎えに来るまでの間、リンはその場から動けなかった。
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