エピメディウムの聖少女

ゆずねこ。

神殺しと少女

青年はふと目を覚ます。

そこは何処かの部屋の寝台の上だった。

遠くから波の音がする。

彼は少しの間ぼんやりと天井を見上げ、それから身体を起こした。

どれだけ眠っていたのだろうか、身体の節々が僅かに痛む。

青年はまだ夢の中にいるような何とも言いがたい倦怠感を感じていた。

ベッド横の窓に目を向ける。

この場所はどうやら少し高い場所にあるらしい。

眼下には街と砂浜を挟んで向こうに青くきらきらと日光を反射する海が広がっていた。

さて、ここは一体どこなのだろう、青年は緩慢な動作で首を傾げる。

眠りにつく前の行動を思い出そうとして、そこでようやく気がついた。

……殆どの記憶が失われているのだ。

自分の名前すらわからない。

しかし一つわかっていることがある。

それは自分のこの身体が本来他人の物だということだった。

どうして自分が今、他人の体で息をしているのかまでは、やはり思い出せない。

掌を持ち上げて何度か閉じては開いてを繰り返す。

こんなに自分の思った通りに動くのに、けれどこの身体は自分の生来のものではないという確信があった。

がちゃり。

部屋のドアが開いた。


「起きてたんだね」


静かな少女の声が僅かに聞こえていた波の音を掻き消す。

青年は声の主を見る。

記憶がないことにも、自分の身体に起きている異変にも、一切感情は揺れなかったのに。

懐かしいような、焦がれるような、不思議な感覚が胸の内に沸いた。


「あのね、」

「きみは誰?」


少女が何事かを口にしようとして、それよりも先に青年が口を開いた。

彼の言葉を聞くと少女は戸惑うような素振りを見せて、それからベッドに近づく。


「私のこと、覚えてない?」


空と海を混ぜたような透き通った青い瞳が、じっと青年を見つめた。

青年は少しの間の後頷く。

沈黙が部屋を包んだ。

遠く波の音を聞きながら、目の前の少女が今にも泣き出しそうになるのを青年は見ていた。

自分と彼女の関係すらわからないのに、ごめんね、なんて謝りたい気持ちがふつふつと心の中を占める。

彼がそれを実行に移す前に、少女はハグをするように青年の身体に腕を回した。


「ごめんね」


謝罪の言葉を口にしたのは青年ではなく少女だった。

彼女の謝罪のわけは、記憶のない青年にはわからない。

ただ彼女の華奢な身体が何かに耐えるように震えていたので、青年はそっと腕を回してその背を撫でてやる。

何故だか落ち着かない気持ちになって、青年は黙りこくっていた。


どのくらいそうしていただろうか。

ありがとう、と口にして少女が離れる。

なんとなく残念だなあと思いながら青年は彼女の背に回していた手を膝上に置いた。


「私はルクレツィア。あなたの……ヴァニタスの幼馴染み。」


そう言って少女はまた少し笑った。

その笑いは何処か疲れているように見える。

彼女の言う自分の幼馴染み、という言葉には、若干の違和感を覚える。

だがその真偽を確かめる術を青年は持ち合わせていない。

少女が自分を指して言った人名についてはしっくり来た。

だからこそ、その違和感に疑問を感じる。

違和感というよりは……


「……何というか、残念だ」

「?何が?」

「……わからないけど」


青年の言葉に少女は首を傾げていたが、青年が自分の不可思議な状態を尋ねたことでそれをやめる。


「それで……」


少女は目を泳がせた。

何と言えば良いのか、と頭を悩ませているらしい。


「……どこまで、覚えてるの?」

「殆ど覚えていない」

「そっかあ……」


少女は口を閉じる。また何かで悩んでいるようだった。

青年もまたその言葉を待つ間思考をめぐらせる。

彼女はもしかして、何か隠そうとしているのではないだろうか。

彼女がそれを選べば、自分には確認する術もないが……。


「あのね。ヴィーは……あなたは、神様を殺してその体を奪ったの。」


ぱちり。

青年は瞬きをする。

神というのは本来殺せない存在なのではなかろうか。


「あの時のあなたには、その体の神様でない神から、少し力をわけられていたから。そのおかげ。」


少女は青年が口にしなかったその疑問に返答した。

常識から考えても思い浮かぶ疑問なのか、それとも青年の言いたいことがわかったのかは定かではない。

この場所の常識すら、青年は思い出せないのだから。


疑問に答えた時点で少女はまた口を閉じる。

この件についてあまり話したくはないようだった。

中々言葉を口にしない。


「……言いたくないなら言わなくていい。」


思っていたより自分の声が冷たく感じ、青年は思わず口を閉じる。

少女がそれに気がついたかは定かではないが、困ったような笑いを浮かべていた。


「……ねえ。」


ふわりと花の匂いが鼻先を掠める。

少女は寝台に手を突いて、青年に顔を寄せた。

まるで内緒話をするように小さく静かな声で彼女は口を動かす。


「私達にはね、帰る場所がないの。

神様を二人も殺してしまったから。」


少女は綺麗に笑った。

それを見た青年は不思議そうな顔をしていた。

窓の外を見る。

人は一人もいなかった。

街の建物も一部崩壊しているのだが、常識すら欠如している青年にはそれがおかしいのだということがわからない。


「だからね」


青年、ヴァニタスはルクレツィアに向き直る。

彼女はまだ笑顔を浮かべていた。


「一緒に旅をしよう?

そうしたら、きっと直に記憶も戻るから」


囁く少女は彼に隠し事をしている。

だが、彼がそれらを知るのは今ではない。




 (エピメディウムの聖少女 プロローグ 終)

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