第2話   エリカ

 「若、女が気が付いたようです」


 オルレアーノで仕入れた物資を村の倉に移していると、ロランが報告する。


 「そうか。気が付いたか」


 行き掛かりとは言え、助かったのは何よりだ。

 汗を拭いつつ母屋に向かう。

 エリックの家は二階建ての母屋に離れが一つ、その周りに倉と厩に家畜小屋が付随した、この地方での典型的な農家の造りだった。

 行き倒れの女は、母屋の客間で母、アリシアが見ていた。


 「母上。女が気が付いたそうで」


 勢いよく扉を開くと、寝台の上の女が飛び跳ねた。

 泣いていたのか鼻の頭が真っ赤だ。


 「エリック。静かに開けて頂戴。この子がびっくりしたでしょう」

 「ごめん。それで」

 「それがねぇ」


 アリシアが困った顔をする。


 「言葉が通じないのよ」


 意外な返事が返ってきた。


 「言葉が通じない。おい。俺の言っていることが解るか」


 エリックは女に向かって言うと、しばらくして聞いたこともない音の塊が飛んできた。


 「ねぇ。何を言っているか解らないでしょう」


 二人が困っていると、先ほどとは違う響きの言葉を話し出す。

 半分歌っているみたいだ。

 ふざけてやっているのかと顔をうかがうが、女は半分泣きながら文字通り必死に話している。

 しかし、まったく意味が解らない。聞き覚えのある音すらなかった。


 「困ったわね。どこから来たのかしら」


 エリックは女の顔をまじまじと観察する。

 茶色の髪を短く切りそろえ、肌はやや黄色がかっている。抱きかかえた時にも思ったが、女にしては背が高い。歯並びはよく、顔立ちも整っている。泣きはらして充血していてもわかる黒い瞳。

 このあたりの人間には見ない特徴だ。


 「どこかの国の貴族の娘かもしれない」


 エリックは自分の思い付きを口にする。


 「そうね。身体つきも立派だし、肌もきれい。着ている服も変わっているけど、仕立てがいいものだわ」


 アリシアは手にしていた器を女に手渡す。


 「お水よ。飲める」


 飲んでみろと仕草で伝える。

 女はしばし器を覗きこんだ後、意を決したように水を飲んだ。

 その姿に少しほっとした。


 「大丈夫そうね。お腹が減っているでしょ。何か持ってくるわね」


 アリシアが出て行くと、エリックはベッドの傍の椅子に腰かけた。


 「言葉が通じないとは思ってなかったな」


 ここより遥か北に暮らす北方民も言葉が通じないが、彼らとは見た目が全く異なる。海を越えた南の国の人間なのかの知れない。

 考え込むエリックを、女は不安そうに見ている。


 「そうだな。名前ぐらいわかるだろう。名前だ。名前」


 エリックの言葉に女は首を振るだけだった。


 「そうだな。通じない言葉で話しても無駄だった」


 エリックは自分を指さし。


 「エリック。エリック」


 言葉は分からなくても、仕草で俺が何が言いたいのか理解できるかもしれない。


 「エリーク」


 女がエリックの真似をして見せ、エリックは笑顔で頷いた。

 いいぞ。通じたようだ。


 「そうだ。エリック、エリックだ」

 「エリック」


 今度は女がはっきりと口にした。

 エリックは大きく頷き、女を指さした。これでこの女の名前ぐらいは分かるだろう。

 女は自分を指さし。


 「エリカ。エリカ」


 と言った。エリックはがっかりする。


 「違う。俺がエリックだ。お前の名前を聞いているんだが」


 どうやら意図が通じなかったらしい。

 エリックの様子を見ていた女が首を振り、今度はゆっくりと発音する。


 「エリカ。クボヅカ。エリカ」

 「エリカ」


 エリックが指さすと女が激しく何度も頷いた。

 どうやら女の名前はエリカというらしい。

 紛らわしいな。

 エリックは心の中で毒づいた。


 「しかし。エリカか。北方の蛮族の名前みたいだな」


 だが、どう見ても北方民とは人種が違う。北方民の肌は白く金髪のものが多い。


 「おまたせ。食事よ」


 母が盆にパンとスープを乗せて入ってきた。


 「お昼の残り物だけどまだ温かいわ」

 「この女。エリカというらしいよ」

 「あら。名前がわかったの。良かったわね」


 エリカの前に盆を置いてやると頭を縦に振り、何故か両掌を合わせると、おずおずと食べだした。

 食べ物を食べる力があるのなら、大丈夫だな。


 「さて。これからどうしましょうかね」


 母が頬に手を当てて思案する。


 「身元が分かれば何とでもできるんだが、言葉が通じないのなら、どうしようもないよ」

 「そうね。でも、放っておくのも可哀そうだわ」

 「では、母上の女中にでもするか」

 「あら、いいの」

 「一人辞めたばかりだからいいよ」

 「では、そうしましょう。良かったね。エリカ」


 どこから来たのかわからない女エリカは、エリックの家で働くこととなった。



 エリックが代官をしているニースの村は、オルレアーノの街から南西に、二日の距離にある小さな漁村だ。

 村人は沿岸で漁をしたり、小川の周辺に農地を切り開いて生活をしている。

 土地は痩せており、収穫は多くはなかった。

 エリックの父、ブレグ・シンクレアはこの村出身だった。

 若き日のブレグは軍団兵に志願し、センプローズ将軍の指揮下で各地を転戦した。

 不利になっても決して引かず奮戦し、軍団の背骨と呼ばれる百人隊長に取り立てられた。百人隊長になってからもその勇猛さに陰りはなく、将軍からも信頼されていた。そして、二十年の兵役を終えた時、将軍の計らいで生まれ故郷ニースの代官として取り立てられたのだ。

 それ以後シンクレア家は、一家をあげてセンプローズ一門に心服し、将軍もシンクレア家を信頼し一門の名前であるセンプローズを名乗ることを許した。

 従って、エリックの本名は、エリック・シンクレア・センプローズとなる。

 こうしてシンクレア家は将軍とパトローネとクリエンティスの関係になった。

 この関係は、簡単に言うと親分子分の仲である。

 親分に何かあれば子分は駆け付け協力する。子分は何か困りごとがあると親分に相談し、親分はできるだけ便宜を図るそんな関係だ。決して一方的な主従関係ではなかったので家臣とは言えない。 

 ブレグは十年近く代官を務め先年死去した。

 将軍はブレグの功績に報いるために、特別に息子のエリックを代官に任命した。平民の代官にしては異例に若かったがニースの村が貧しい漁村であったためか、特に異論はなかったらしい。それでも将軍の厚意には違いない。

 エリックは将軍に感謝と敬意を抱いている。そしてその娘には愛情を。


 代官としてのエリックの一日は、村の見回りから始まる。

 村人に声をかけながらゆっくりと馬で回る。人口五百人程度の小さな村だ。

 全員が顔見知りと言えた。

 それから剣と弓の稽古が始まる。素振りをしたり、的を射たりする。時には従者のロランや、その息子のエミールを相手に模擬戦闘を行った。

 従者のロランはニース出身の男で、父ブレグの下で共に戦った戦友だ。

 父もロランを特に信頼しており、亡くなる間際にもわからないことがあればロランに相談しろと言い。ロランがダメだと言えばそれは父の言葉と思えとまで言った。

 エリックも寡黙なこの初老の従者を信頼していた。

 昼になると馬にまたがり丘陵地を駆けまわり、目ぼしい獲物を見つけては弓を使って狩りをした。鍛錬と実益を兼ねて毎日のように行っていた。

 そして日が暮れ夕食が済むと、眠るまでの間に本を読むのであった。

 それは、ブレグが何処からか集めてきた本たちだ。

 ブレグの書斎は、今はエリックの部屋と化している。

 樫の木でできた大きな机の上に、羊皮紙でできた大きな黒表紙の本を広げる。

 この本は昔ブレグが村を流れる小川の上流に建っていた廃屋から見つけてきたものだった。

 廃屋はその昔、異端の疑いを掛けられ逃れてきた、魔導士の住みかともっぱらの噂であった。

 持ち帰った本は全編、教会で使用される神聖語で書かれており、エリックにはほとんど読むことができなかったが、ところどころに描かれた挿絵を見ながら、書かれている内容を想像するのは楽しかった。

 ブレグは異端の書物かもしれないと言い、決して教会に見つかってはならないとエリックに念を押していた。エリックも誰にも見せず、書斎から持ち出すこともなく、ただ眺めて楽しんでいたのだった。

 しばらく本を楽しむと明かりを消して眠る。明り取りの油をいつまでも灯せるほどの余裕は、ニースの村にはなかった。


 「エリック。ちょっといらっしゃい」


 エリカを拾って数日後。村の見回りを終えると、母が厩の陰で手招きをしている。


 「なんです」


 傍によると、辺りを窺った後に声を潜めた。


 「エリカのことなんだけどね」

 「エリカが何かしでかした? 」

 「逆なのよ」

 「逆」


 何もしでかしていないのであれば、結構なことではないだろうか。


 「あの子、何も出来ないの」

 「何もできない。どういう事」

 「そのままの意味よ。あの子。火の起こし方も知らないの。薪を割らせてみたけど鉈を持ったこともないようなのよ。辛うじて水汲みと掃除ぐらいはできるみたいだけど、それも手つきが危なっかしくて。見ていられないのよ」

 「それでどうやって生きてきたんだ」


 エリックから笑いが零れた。


 「そうなのよね。やっぱりお前が言ったように、貴族の娘様かもしれないわね。手とかびっくりするぐらい綺麗なのよ」

 「確かにそれなら納得できるか」


 貴族の子女なら火の起こし方は知らないだろうし、鉈なんて生まれてこの方持ったことが無いかもしれない。手も美しいだろう。

 しかし、そんな高貴な娘が山の中で一人で行き倒れになるだろうか。

 思案しながら自室の扉を開けると、部屋にエリカがいた。

 エリカは黒の女中服の上に白の前掛けをつけている。立ち姿はすらりと高く、エリックより少し低い程度だ。ニースの女たちに比べると頭一つ身長が高い。

 どうやら掃除をしているらしかったが、手にした叩きが止まっている。

 注意したいが言葉が通じない。

 エリックが入ってきたことに気づいたエリカは振り返ると走り寄ってきた。


 「なんだ」


 エリカは無言でエリックの手を引いて、樫の木の机の前に連れてきた。

 そこには片付け忘れていた魔導士の書が開いている。

 エリカは本に書かれた神聖文字を指さし。


 「ニホンゴ。ニホンゴ」


 と大きな声で言うのだった。

 何が言いたいんだ。この女は。



                 続く

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