【番外編】 side ルビィ

 航海に出てしまえば、何ヵ月と陸には戻らない。家族に会えないその間、船旅に大切な人の肖像画を持って行くのはよくある話。とは言うものの。


「はい、ちょっと顔上げてね、そう……そのまま」


 Jからの依頼だと言って、若い芸術家があたしのスケッチを取りに来た時は、嬉しいより恥ずかしいより、とにかくびっくりしてしまった。まさかJが、あたしの絵を持っててくれるだなんて思いもしなかったんだもの! 


 どきどきしながら膝の上、スカートをぎゅっと握り締める。ちらりと画家さんの手元を見ると、荒い紙の上に黒炭で、いろんな角度のあたしが描かれていた。ざっくりとしたタッチではあるけれど、なんだか本人より何割か増しで美人に描かれているような気がして、頬がぽっと熱くなった。


 午後の柔らかな日差しが、窓ガラスを通してあたし達二人を包む。木炭が紙の上を移動するたび、しゅっ、しゅっ、という乾いた音が滑り落ちる。


「Jとは長い付き合いだけど、まさかあいつから女の子をモチーフにして欲しいだなんて頼まれるとは思わなかったなぁ。しかも、こんな可愛い子をさ」


 画家の彼ににっこりされて、あたしはますます赤くなった。


「でも、淋しいでしょ? あいつが海に出ちゃうと」

「ええ……」


 彼の言葉に頷きながら、あたしはふっと睫毛を伏せた。


 この屋敷にはお祖父さんもいるし、セントとかクレイとか人間の友達もできたけど、やっぱり――待っているのは、淋しい。

 ひとりぼっちは心細い。無事でいるのかしらと不安にもなる。


 一緒だったのに。


 魚だった頃には、あたしも一緒だったのに。


 船の先導をして、黒い珊瑚の島まで泳いで行って。

 なるべく船が通りやすい航路を選んだり、荒波に逆らったり、大きな嵐に出くわしたり。大変だったけど、確かにあの時はあたしも海賊の――みんなの仲間だった。

 そんなあたしにJは、美味しいパンをくれたり、いたわりの言葉をかけてくれたっけ。楽しかったなあ。こんな事ならあたし、ずっと魚のままでいれば良かったのかな。そうすれば、みんなとずっと一緒にいられたのに。


 ひとり、置いてきぼりにされたりしないで。


「よし、こんなモンかな!」


 明るい声にはっとして顔を上げると、画家さんが紙に息を吹きかけて、木炭の粉を飛ばしていた。


「もう終わったの?」

「今日のところはね。習作がある程度彫りあがったら、またモデルお願いすることになると思うけど」

「彫る?」


 って、何を?


 きょとんと目を丸くするあたしに、画家の彼は白パンを指先で丸めながら、からりと笑って答えた。


「あれ、言ってなかったっけ? 今回頼まれてるのは絵じゃなくて彫刻だよ」

「えええっ!?」


 じゃあこの人、画家さんじゃなくて彫刻家だったの!? そっか、それで……いろんな角度からスケッチをしていたんだ。


「でも、なんで彫刻なんて……」

「参ったな、アイツ、本当に君に何も伝えてないんだね。アイツらしいと言えばらしいけど」


 彫刻家の彼は柔らかな巻き毛をかきあげると、くすり、意味ありげに笑った。あたしが首を傾げると彼は、にんまりと目を細めて、それからこっそり教えてくれた。


「アイツ……Jがさ、いつか自分の船を持とうとしている事は聞いてるよね? 俺が今回依頼されたのはね、その船に取り付ける、船首像なんだよ」

「……っ!」



 連れて行って。

 遠い国へ、遠い海へ。風を切って、波を分けて、そう、いつでもあなたと一緒に。



「けど、よくわかんないのがさ、アイツの依頼では何故か君の腰から下、魚の尾にして欲しいって言うんだよね、人魚みたいに。なんでだろうね?」


 眉をひそめて首をひねる彼に、あたしは本当の事なんて言えなくて、にじんだ涙を拭いながら、ただただ笑い返していた。



◆◆◆



 最初は、ちょっと人間になってみるだけのつもりだった。

 もちろん、今だって魚に戻ろうと思えば戻ることは出来る。ただし戻ってしまえば、二度と人間になる事は出来ない。海を大好きな気持ちはこれっぽっちも薄れてないし、それどころかむしろ――ふるさとを恋しく思う気持ちは日に日に増していくばかり。


 それでも。


「ルビィ。もう帰りましょう?」


 メルセデスの声に、あたしは振り向きもせずぷるぷると首を横に振った。強風が長い髪を大きく煽る。灰色の雲がすごい速さで流れていく。沖は依然荒れていて、高く打ちあげられた波しぶきが、この灯台下の高台にまで届いている。あたしは唇を噛み締めて、手にした旗をぎゅっと握り締めた。


 予定では、今日、船が帰港するはずだった。なのに、突然の大時化おおしけで、いまだ到着していない。


「ルビィ? もう、夜も更けますわよ?」


 けれどあたしはやっぱり首を振り、風に煽られた髪を指で押さえた。


「もう少し、……月が、あの塔に昇るまで……」


 メルセデスが、小さくため息をついたのが聞こえた。彼女の高い靴音が遠ざかっていく。波は、変わらず荒れている。


 船は――みんなは無事なのかしら。

 考えただけで胸がぎゅうっと押し潰されそうになる。


 今のあたしは、陸で一人、みんなの無事を祈るだけ。こんな事なら魚のままでいれば良かったって、何度思ったかわからない。けれど。


「J……」


 人間になって初めて陸に上がったあたしの、その手を引いてくれた人。一糸纏わぬ姿のあたしに、自分のコートをかけてくれた。繋いだ手のぬくもり、交わされる言葉。胸にちいさくともった温度。


 見れば、いつの間にか風は止み、雲のない星空が、静かな海を照らしていた。港の様子を見に行こうかと振り返りかけたその時、ばさり、大きなコートがあたしの肩にかけられた。


「こんな所にいたのか。探したぞ」

「J!」


 まっすぐなまなざしに、コートに残る彼の温度に、顔が急激に熱くなる。目を見開いてJの顔を見上げていたら、彼は右手でそっとあたしの頬をくるんだ。


「こんなに冷えて。こんな遅くまで、…………」


 だんだんと、Jの顔が滲んでくる。


「……寂しい思いをさせたな」


 きゅうっと唇を引き結ぶ。じゃないと、涙がこぼれてしまいそうだった。


 寂しかった。

 寂しかった。寂しかった! でも!


 あたしは涙をこらえると、にこり、Jに微笑んだ。そうしてバッと、手にした旗を広げて見せた。Jが目を見開いて息を飲む。


「これは……」


 黒い布に施した、白と赤の大きな刺繍。骸骨に、鮮やかに咲く薔薇の花。あの船の――ロートレック号の海賊旗。


「ところどころ、あんまり上手じゃないとこもあるんだけど」


 あなたが乗る船は、これしかない。そうでしょう?

 あなたには沢山の仲間達がついている。きっとあなたを見守っている。 


 そして、あたしも。


 魚の頃みたいに、一緒に過ごすことは出来ないけれど。

 あなたと一緒に、生きて行きたい。


「いつか、Jの旅にこの旗も連れて行ってね」


 そう言って笑い掛けると、急に強くかき抱かれた。懐かしい、彼の匂いがする。


 強くなりたい。

 笑って、おかえりが言えるように。

 笑って、いってらっしゃいを言えるように。

 あなたの帰る場所が、あたしであるように。

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