【番外編】 side オーガスト

「故郷?」


 その質問に俺は思わずハッサンの顔を見てしまった。と、ハッサンの奴も困ったように苦笑して、俺の顔を見ていやがった。


 俺の生まれは小さな港町。そこで俺とハッサンは幼少期を過ごした。けれど、あれは――そう、俺が10の時。オヤジの船が帰った時には村は襲撃されていて、女も子供も年寄りも無く、全てが焼き尽くされていた。ただ一人、幼いジャヌアリーを残して。


「オーグ?」


 ミルに呼ばれてはっと我に返ると、俺は何事も無かったようにニッと笑って、ワインの瓶を手繰り寄せた。


「俺達にゃ故郷なんて呼べるモンはねぇのさ。今のお前よりもっとちっせぇ頃からこの船に乗り込んでるんだからな。そうだな、言ってみりゃこのノースフィールド号が俺達の故郷だ。なぁ? ハッサン」


 視線で振るとハッサンも頷いて、「そうですね」と微笑んだ。ミルは口を開けてきょとんと俺達の顔を見ていたが、その隣、モラはもっと大きな口を開けて俺の顔を見つめていた。


「オーグ オーグ。それじゃあ オーグは いつも ふるさとに いるの?」

「まぁ、そういうこった」


 そう言うとモラはぱあっと嬉しげにほっぺたを赤くした。


「それじゃあ ここが オーグのくに なんだ! ここが オーガストが そだった ばしょ。ここが オーガストが かえる ばしょ」


 歌うように囁いてモラは、見慣れた筈の船内を、ゆっくり、もう一度見回した。そんな風にされるとなんとなく俺まで照れくさい。誤魔化すようにワインをあおると、モラにつんと袖を引かれた。


「あのね オーグ ぼく オーガストに ぼくの ふるさとを みてほしい」


 モラの故郷?


「って、海ン中じゃねぇのか?」

「うん! だからね ふねにいると いつも ふるさとの うえ なんだよ。とっても きらきら ゆらゆら してるんだ。オーグにも いちど みせてあげたい。ねぇ オーグ いっしょに いこう」


 そんな風に目を輝かせて誘われてしまっては、無下に断ることも出来ない。


「ああ、いいぜ」


 頷くとモラはふにゃりと笑って、頬をますます赤くした。



◆◆◆



 午後になると俺とモラは、ボートを降ろして沖まで出た。太陽は真上で照っていて、反射した光が波のまにまに千千に輝く。俺はオールを握る手を止めると、向かいに座るモラに尋ねた。


「どうだ、この辺でいいか?」

「うん! じゃあ いこう オーグ」


 言うなりモラは俺の手を取り、一気に海へと飛び込んだ。


「ちょっ、待、モ……」


 ざぶん、と大きな水音と共に、俺の叫びはあぶくとなった。


 モラに手を引かれたまま、深く、深く沈みこむ。銀の泡が目の前を流れて過ぎる。そうしてようやくふわりと動きが止まった頃、顔を上げるとそこには。


「…………」


 とりどりの色をした、ゆらり揺らめく珊瑚の森。

 蒼い水中に振りそそぐ太陽の光が、輝く帯を作って踊る。

 淡いピンクや黄色に色づき、波にそよぐイソギンチャクの花。その間をくぐる鮮やかな熱帯魚。小さな魚の群れが銀の鱗を反射させながら泳いで過ぎる。見上げれば水面が万華鏡のようなモザイクをかたどる。

 モラが俺を振り返り、いつもより少し大人びた顔で笑った。


 ――ああ、そうだ。ここがお前の世界だ。


 と、モラに気がついた魚たちがモラの周りに集まり、次いでさあっと俺を囲むと、ひらひらさらさら旋回した。中には俺の頬をちゅっとついばむ奴もいる。成る程。お披露目という訳か。

 俺は右腕を腰の前に水平に揃えると腰を屈めて頭を下げ、地上流ながらに挨拶をした。


 モラはひらり身を躍らせると、しなやかに青の中を渡っていった。揺らぐ手足はまるで華やかな尾びれでもついたかのように優雅で、船の上でとろとろもたもたしている普段のモラとは大違いだ。


 お前の故郷、お前の国。ここで生きていく筈だったモラ。


 と、息苦しさを感じ、俺は足で水を蹴ると、海上目指して浮上した。そろそろ息継ぎが必要だ。

 それに気付いたモラも慌てて俺の後を追う。モラは俺よりずっと深く潜っていたはずなのにあっという間に俺を追い越し、俺の手を引き、力強く水面へと引き上げた。


「ぷはッ!」

「オーグ オーグ だいじょうぶ?」

「ああ、まぁな」


 俺も海の男、泳ぎには自信がある。息だってその辺の漁師よりはずっと長く続くつもりだ。しかし、モラは桁違いだ。奴はあれだけの潜水にも関わらず息一つ乱さずに、きょとんと俺を見つめていた。


「やっぱり魚だな、モラ。泳ぎに関してはお前に敵わない」

「ぼくは もう にんげんだよ」


 モラは俺の目を見て、きっぱりと言い切った。


「ぼくは もう おさかなじゃ ないんだ。オーグ ぼくのいばしょは うみのなかじゃなくて オーグのとなりだって いってくれたでしょ? ぼくは オーグのくにで いきてくよ。オーグの ふるさとで いきていく」


 例えば、俺にできるだろうか。


 ここに魔法の薬があったとして、「魚になれます」と言われたとして、モラの為に、海の中で生きていくことを選べるだろうか。


「ノースフィールドごうが ぼくの かえるばしょだよ」

「――そうだな。俺達の帰る場所だ」


 けれどモラ、お前の強さは海のそれだ。穏やかでしなやかで、けれど驚くほど逞しい。だからこそ俺は、お前に焦がれる。お前という海に惹かれてやまない。


「もう一度潜るか? モラ。お前の世界を、もう少し俺に見せてくれ」


 そう言うとモラはふわり笑って、強く頷いて手を握った。

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