【番外編】 side ナナイ

 どうでも良かった。


 伝統ある家柄も、莫大な借金も、養子縁組という名の身売りも。生きてても意味なんて無いと思っていたし、死んでも構わないと思っていた。だから。


「いい子だからおとなしくしてるんだよ。すぐにくしてあげるからね」


 ……遠縁に当たるという養父が、ベッドの上で俺を縛り上げても、別に抵抗するつもりなんてなかった。ただ早く終わればいいと、それだけをぼんやりと考えていた。親父がにやけ顔でシャツを脱ぐ。汚らしい手が俺のあごを掬う。と、その時。


「動くんじゃねぇ! 抵抗すると命はねぇぜ!」


 突然部屋に飛び込んだ、一人の若く大柄な男。

 髪はまぶしい太陽の色、瞳は明るい空の色。

 逞しい肩、腕、胸板。

 その海賊の登場で、俺の人生は一変した。いや、変化なんてものじゃない、俺は――「海賊ナナイ」は、この日、生まれたんだ。



 生まれたての俺は、この船で沢山の「はじめて」を経験した。

 たっぷり働いた後の食事の美味さ、へとへとになって潜り込む寝床の心地良さ、手に入れた宝の重さ、仲間の背中の心強さ。笑うこと、怒ること、そして泣くこと。

 そんな俺をあいつは、楽しそうな顔で見ていた。それがいつの頃からか、その視線に熱っぽいものを感じるようになり、慈しむような柔らかさを感じるようになり……それなのに。



◆◆◆



「マイクの鈍感」

「マイクノ ドンカン! マイクノ ドンカン!」


 俺の愚痴につきあって、リリが高い声を上げる。俺はもうひとつため息つくと、手すりの上で腕を組み、あごを乗せ遠く水平線を眺めた。


 今日は、宿が混んでいた――と、オーグは言っていた。それが本当なのかどうかは知らない、けれど今晩俺とマイクは、オーグの言うところ「仕方なく」同室で休む事になったのだ。……それなのに。


 何もしない。

 触れても来ない。

 そればかりか目も合わせない。


 あの馬鹿、俺が欲しければ早くそう言えよ! じれったい奴だな!


「マイクの意気地なし」

「マイクノ イクジナシ! マイクノ イクジナシ!」

「リリに妙な台詞覚えさせてンのはやっぱお前だったか」


 その言葉に振り返ればオーグが、肩にコートをひっかけて、甲板に上がって来るところだった。俺はぷいと顔を正面に戻すと、リリの白い羽根を撫でた。オーグの低い笑い声が近づいてきて、そうして俺の隣で止まった。


「んだよ、折角お膳立てしてやったのに、なに船に戻ってんだよ。今夜こそマイクと同じベッドで過ごすもんだと思ったのによ」

「知るかよ、あんな意気地なし」


 そう答えるとオーグはさも可笑しそうにくっくっと笑い、くるりと海に背を向けた。後ろ手に両肘を手すりに乗せ、そのままどっかりもたれかかる。それから長い前髪を揺らして顔を上げ、満天の星空を仰ぎ見た。そんなオーグを見てリリが、モラの口真似でしゃべりだした。


「オーガスト スキ! ダイスキ!」


 俺はまたもため息をつくと、ちらり、横目でオーグを見た。


「いいよな、オーグは。こんな風にモラにいつでも口説かれててさ」


 と、オーグは星を見たまま、ぽつり、事も無げに言った。


「アイツはお前よりよっぽど海賊っぽいからな」


 ……何の、話だ?


 俺は海賊だ、海賊として生きてきてもう七年にもなる。それが、ついこの間入ったばかりのモラにどうして負けるって言うんだ!?


「なんだよそれ、俺が海賊らしくないって言うのか!?」

「根っこがな。おいナナイ、お前マンボウがどれくらい卵産むか知ってるか?」


 突然飛んだ話題に、俺はぱちりと瞬きをした。マンボウの、卵?


「知るかよ、そんなの……」

「三億。メス一匹の体内に約三億個だ」


 そんなに!? 


 思わず目を見開いた俺に、オーグは構わず話し続けた。


「けど、その三億の中で成魚になるのはどんだけだ? 一匹か? 二匹か?」

「…………」


 波の音が緩やかにリズムを刻む。夜の風が、けれど温かい。


「アイツはな……モラはな、そんな中を生きてきたんだ。明日があるとは限らない。今日を、今を精一杯生きる。だから、あんな風になんでも思った事は口に出すし、やりたい事は先延ばししない」


 潮風が頬を撫でる。髪が揺れて耳元をくすぐる。


「そこが、お前さんとの違いだ。明日に甘えたりしてねぇ」


 ……何も、言えなかった。ただ胸の前ぎゅっと拳を握り締め、唇を噛んで俯くしかできなかった。


 『明日こそ』。そんな言葉を繰り返すようになったのはいつからだろう。

 明日こそマイクが言うだろう、明日こそマイクが動くだろう。俺はいつだって『明日こそ』『マイクが』。……自分は安全な場所に立ったままで。

 結局俺は、何も変わっていなかったのか? 格好ばかりそれらしくなっても、生き様はあの頃とちっとも……。


"――生きてることに執着がないのと、命を投げ打つ覚悟を持っているのとを一緒にすんな!"


マイクの声が、いまなお鮮やかに蘇る。


 ……いや、違う。俺は変わった。俺は「ナナイ」になったんだ。生きることに執着している、だからこそ命を張れる。だって、俺は……。


 オーグはふわぁと大あくびをすると、くしゃり、前髪をかきあげた。


「さて、と。で、どうする? お前が宿に戻らねぇなら、今夜の当直は代わってもらいたいんだが?」


 はっと顔を上げると、オーグのエメラルドグリーンの眼と目が合った。


「俺は……」


 ひりつく喉から声を絞り出す。俺、俺は……。


「……俺は、海賊だ」


 俺がそう答えると、オーグはニッと唇の端で笑った。





 明け方近くまで続く酒場の喧騒。たむろする荒くれ者の集団を裂くようにして、俺はまっすぐ歩いて行った。ずかずかと大股でテーブルの間を突っ切って、二階の宿屋へと階段を上る。

 ノックもなく激しく浴室のドアを開けると、着替え途中だったらしきマイクが、シャツに腕を通しかけたまま呆気にとられて俺を見つめた。


 俺は、海賊だ。


「ナナイ? どうした、どこ行ってたんだよ」


 ノースフィールド号のナナイだ。


「なかなか戻って来ねぇから、ひょっとして船で寝るつもりなのかと思ったぜ」


 だから。


「何だよ、切羽詰ったツラして。何……んっ」


 欲しいものは、奪う。


 唇を離すとマイクは、自分の唇に指を当て、阿呆みたいにぽかんと俺を見下ろした。馬鹿野郎、見るな。きっと今、俺、顔が赤い。


 俺はぷいと踵を返すと、肩をいからせてすたすたと、今入って来たばかりのドアに向かって歩いていった。


「マイクの意気地なし」


 その言葉にマイクが我に返り、バンダナも巻かないまま、どたどたと俺の後を追う。


「ってナナイ、リリに変な事吹き込んだのお前だったのか!」

「マイクの鈍感」

「やっぱりお前かぁっ!」


 むかついているはずなのに顔が緩んで仕方がなくて、俺は振り向く事などできずに、ついて来るマイクを意識しながら、真っ直ぐ廊下を歩き続けた。……俺達、二人の部屋に向かって。

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