第三章 絵本と神隠し 後編②

 生ぬるい風に乗って聞こえてくる音に、さつきは耳を澄ませた。


  ……あぉ…………あーあぁあーおぉ……


「なんだろ、動物の鳴き声みたいな……」


 航夜が眉間に皺を寄せると同時に、さつきは気付く。

 猫の鳴き声によく似たその音が、まるで自分たちへ距離を詰めるかのように、少しずつ大きくなっていることに――――


「……聞こえないふりしてろ」

「え?」

「いいから!」

 

  ――――――――んぎゃああああ! おぎゃああ、あああああぁ!!


 航夜が鋭く叫ぶと同時に、二人のすぐ近くからは響いた。


「わあっ!?」


 火がついたように泣く赤子のような声に、さつきが飛び上がる。

 航夜はさつきの腕を掴むと、声がする方を振り返らず、足早にその場を離れた。


「航夜、この声ってまさか赤ちゃんの」

「振り返るな、わなだ。こっちが反応しなければ、そのうち鳴き止む」

「罠って……」


 航夜は答えず、さつきの手を引いてどんどん先へと進んでゆく。

 一分ほど経つと赤子の泣き声はピタリと止み、ようやく航夜は立ち止まった。


「こっち側の世界で赤ん坊の泣き声が聞こえたら、まず化け物の罠だ。無視しろ」


 呆然と目を見開くさつきから手を離し、低く抑えた声で呟く。


「……化け物?」

「生き物でも人間でもないやつらのことだ。赤ん坊の泣き声は、人間が一番反応する周波数が出る。猫はその原理を利用し、赤ん坊の泣き声を真似て鳴くことで人間を呼ぶ。同じ方法で、人をおびき寄せる化け物もいる」


 化け物。それは一般的に「幽霊」や「妖怪」と呼ばれるもののことだろうか。

 さつきはそう尋ねようとしたが、航夜の横顔に冷や汗がにじんでいるのに気付き、口をつぐむ。

 そうして黙り込んだまま小径をたどってゆくと、二人の行く手に巨大な杉の木が立ちはだかった。

 10メートルはゆうに超える巨木を、さつきはまじまじと見上げる。

 両側を石で区切られた小径は、巨木の手前で途絶えていた。

 航夜は特に動じることもなく、大木をぐるりと迂回する。足元は砂利と雑草、落ち葉でまばらに覆われたけもの道へと変わり、さつきはこれまで以上に慎重に歩を進めてゆく。

 すると前方から、二人のよく知る甲高い声が響いた。


「お姉ちゃん!」


 茂みをかき分け、小柄な少年が姿を現す。

 さつきは思わず身を乗り出した。


「じゅ……もがっ」


 同時に幼馴染に口元をふさがれ、目を白黒させる。

 しかし先ほど言われたことを思い出し、「ごめん」のと謝るかわりに両手を顔の前で合わせた。

 航夜は呆れた表情を隠そうともせず、さつきの口元からゆっくりと手を離す。そうして目の前に現れた少年に向き直ると、おもむろに問いかけた。


「君の名前は?」

「えっ? じゅんだよ、お兄ちゃん忘れちゃったの……?」


 あどけない声で答え、不思議そうに航夜を見上げる。

 淳がほんの数時間前に航夜に会っていることを考えれば、ごく自然な反応に見えた。少なくとも、さつきの目には。


「ここ、どこ? どうしてこんなに暗いの?」


 よく見ると、少年の目元はほんのりと赤く染まっていた。

 泣いた跡だろうか――――さつきはこっそりと少年に目をやった。

 右足にしか靴を履いておらず、小さな左足を包む水色の靴下は泥まみれになっている。

 さつきは右足の小さなスニーカーを注意深く観察した。黒字に蛍光グリーンのラインが入ったそれは、確かに見覚えがある。


「おうちに帰りたい。ママ、どこにいるの?」

「淳くん……」


 あどけない声を震わせ、淳がしゃくり上げる。

 さつきは妙にいたたまれなくなり、航夜にひっそりと耳打ちした。


「あのさ航夜。この子、本物の淳くんだと思うよ。だってあのスニーカー」


 否定も肯定もせず、航夜は幼馴染みの少女を一瞥する。


「淳くん、こっちに迷い込む前にスニーカーを片方落としちゃったの。あれと同じ靴だと思う。服装だって変わってないし……」

「そうだな。さっきうちに来た時に、あの子が履いていた靴と同じだ」


 航夜は小さく頷くと、目の前の少年へと視線を戻した。


「家に帰りたいか?」


 先ほどより幾分か穏やかな声で語りかける航夜に、少年は鼻をすすり、こくりと頷く。


「そうか。じゃあもうひとつだけ、確認させてほしい」

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