第三章 絵本と神隠し 後編①
「なんで…………」
数秒ほど固まっていた航夜が、我に返ったように顔を上げた。
「おい、門の鍵は」
「ちゃんとかけてきたよ。大丈夫」
信じられないものを見る目を自分に向ける幼馴染に、少女はぎこちなく笑う。
「何も大丈夫じゃない。まさかお前また塀をよじ登ったのか」
図星を突かれ、さつきは気まずそうに顔を逸らす。
航夜はぐしゃぐしゃと髪をかきむしると、自分を落ち着けるように深く長く息を吐き出した。
「……帰れって言っただろ」
感情を押し殺した低い声に、さつきは腹の底がひやりと冷えた。
同時に、彼女が薄々抱いていた勘は確信に変わる。
周囲に鬱蒼と生い茂る背の高い木々、その合間にぽつぽつと、等間隔で灯されたオレンジ色の光。
どろりと濃く、まるで意思を持って上から迫ってくるような重い闇。星も月もない真っ暗な空。
目の前に広がる異様な風景には既視感があった。さつきが見慣れた辻堂家の敷地内のそれとは、明らかに異なる。
おそらく9年前と同じように、自分は今、「向こう側」にいるのだ――――
動揺を押し殺し、少女は負けじと幼馴染の少年を見返した。
「やだ。私も淳くん探す。一人で探すより二人で探した方がいいじゃん」
「駄目だ」
「なんで? こっちの世界は危険なんでしょ。迷い込んだら戻れなくなっちゃうかもしれない場所に、航夜が一人でいる方が危ないじゃん」
内心びくびくしつつも、航夜が口を利いてくれたことに、彼女は少しだけホッとする。
「そういう問題じゃない。いいから、現世に戻っ――――」
焦れたように反論しかけ、少年は何かを思い出したように、ハッと背後を振り返った。とたんに色白な顔から更に血の気が引いてゆく。
唇をきつく噛むと、航夜は幼馴染みに抱えられた黒猫の首根っこを片手で掴んだ。そうして取り上げたくろすけを堂の中に放る投げ、すかさず扉をぴしゃりと閉じ切ってしまう。
「……航夜?」
そうして空いたさつきの右手に、航夜は自分が持っていた灯籠を差し出した。
「気休めでしかないけど、一応持ってろ」
間近で見た幼馴染がひどく強張った顔をしていることに、少女は今更のように気付き、口の中に溜まった唾を飲み下す。
汗でぬかるむ手のひらをTシャツの裾でぬぐい、持ち手を受け取った。
竹の枠に和紙が張られた中には赤い蝋燭が灯されており、灯籠を持つ右手がほんのりと温かい。
「絶対に離れるなよ。この先、何がいても絶対に絶対に目を合わるな。何を言われても喋りかけたたり、ホイホイついて行ったりするな。猫の姿形をしているものの中身が、本物の猫とは限らないんだ」
念を押して背を向けると、航夜は足早に歩き出す。
さつきはあわてて幼馴染の後を追いかけ、石畳の階段を降りる。
くろすけはお堂に閉じ込めたままで大丈夫だろうか。にわかに後ろ髪を引かれ、ちらりと振り返る。
石灯籠の頼りない灯りに照らされ、六角形の黒いお堂は暗闇の中で静かに佇んでいた。
少女の脳裏にふと疑問が浮かぶ。
あの石灯籠は航夜が来る前から灯りがついていた。では一体、誰があのオレンジ色の灯りを灯したのか――――そこまで考え、ぞくりと肌が粟立つ。
さつきはあまり深く考えないよう、あわてて航夜に距離を詰めた。
石橋を渡ると、森の奥へと細い
両側に握りこぶし大の石が並べられた狭い道を、航夜は特に迷うそぶりも見せず黙々と歩き出す。
「淳くーん!!」
すると、さつきが大声で従弟の名を呼んだ。航夜はギョッとして振り返る。
「ばっ、大声出すな!」
「え、駄目なの?」
声を抑えながらも、きょとんとするさつきにあわてて詰め寄る。
「いつもいる世界とは違うんだ。何が寄ってくるか分からない。頼むから、目立たないよう行動してくれ」
「ご、ごめん」
さつきが気圧されたように謝ると、航夜は気まずそうに顔をしかめた。
「いや……まあ人を探すっていうと、普通はそうなるよな。ごめん、最初に言っておけばよかった。子供の足だからこの
航夜が踵を返し、二人は再び森の奥に向かって歩き出す。
さつきは灯籠の頼りない光を便りに、従弟の姿を探した。
小径の外側にも目を配りながら、さつきは木々の合間に等間隔で置かれてた
白い和紙に鬼灯が描かれた灯籠。それらはおそらく、自分が今持っているものと同じものだ。
生ぬるい風が吹き抜け、木々の枝葉や少女の長い髪を揺らす。
あ……あぁ………お………
不意に何かが聞こえたような気がして、さつきは立ち止まった。
「ん?」
「どうした」
航夜が怪訝そうに振り返る。
「何か聞こえない?」
視界のきかない暗い森の奥に、少女はこわごわと目を凝らした。
自分たちが今来た方向、くろすけが閉じ込められているお堂とは逆方向から、かすかに物音が聞こえてくる。
……あーお…………あーあぁあーお……
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