プロローグ 後半

 「ひゃああああああっ!?」

「さっ、叫ぶな馬鹿!」

 だが飛び上がるほど驚いたのも束の間、耳元で響いた囁き声にさつきは目を丸くした。

 おそるおそる、首だけで後ろを振り返る。

 そこにいたのは紺色の浴衣を身にまとった、さつきより少し背の高い少年だった。

「こ、こうちゃん?」

「お前、なんでこんな所にいるんだ」

 呆れたような、しかしどこか安堵をにじませた顔で少年……航夜こうやが尋ねる。

「なんでって、くろすけを連れ戻そうと思って」

 さつきがおずおずと答えると、航夜は顔をしかめた。

「あの化け猫……」

「ばけねこ?」

「バカ猫って言ったんだ」

 首をかしげるさつきに短く答え、ため息をつく。

「ねえ航ちゃん。ここ、どこ? それにさっき、柴田のおじちゃんとそっくりな人がいたよ」

 航夜の顔がわずかに強張った。

 生ぬるく湿った風が、生い茂る木々の枝葉をさらさらと鳴らす。

「気のせいだろ。みんなお前のこと探してたぞ。ほら、戻ろう」

 航夜ははぐらかすように言って、自分よりひとつ年下の少女に手を差し伸べた。

「え? でも、くろすけ」

「いい、ほっとけば勝手に戻って来る。勝手に出歩くのはいつものことだから」

 素っ気なく答える幼馴染みの右手を、さつきはおずおずと握った。

 自分のそれより少し大きな手のひらは熱く、ほんの少し汗ばんでいる。

 航夜の体温を感じた瞬間、さつきの両目にじわっと涙が浮かび上がった。

「泣くな、ちゃんと戻れるから」

「ありがとう、航ちゃん」

 しゃくりあげながら礼を言うさつきに、航夜はかすかに目を見開いた。

「帰れなかったら、どうしようかと思った」

 さつきは航夜の右手をぎゅっと握り返す。

 航夜は無言でふいっと顔をそらした。

 それきり二人は押し黙り、鬱蒼と暗い森の中を黙々と歩いた。

 航夜に手を引かれ、灯籠の明かりを頼りに森の中をしばらく道なりに進むと、前方に色とりどりの提灯の光がおぼろげに見えてくる。

 森の出口とおぼしき木々が開けた場所に、小さな赤い鳥居が立っていた。

 航夜は鳥居のすぐ手前で立ち止まると、今まで歩いてきた道を振り返った。

「航ちゃん?」

 さつきもつられて立ち止まり、航夜の視線を追って背後を振り返った。

 暗く鬱蒼と木々が生いしげる森の中で、ひときわ目立つものが視界に飛び込んでくる。

 暗闇に薄く浮かび上がる、白い三本の柱――それは遠目にもわかるほど大きく高く、木々を突き抜けてそびえていた。

「今回は、運良く間に合ったけど。あの白い鳥居を越えたら、戻れないんだ」

 航夜が囁くような声でつぶやく。

 しかし少年の呟きは、ひときわ強く吹いた風の音にかき消された。何と言ったのか聞き返そうとしたさつきは、自分が握っている航夜の手が小さく震えていることに気付く。

「どうしたの? 航ちゃん、寒いの?」

 さつきが声をかけると、航夜は小さく唇を噛む。

 踵を返すと、さつきの手を引いて、目の前の赤い小さな鳥居を足早にくぐった。

 すると次の瞬間、二人の目の前に、見覚えのある細い裏路地が忽然と現れる。

「へっ? なんで、いつの間に」

 あれほど鬱蒼と静まり返っていた周囲に、いつの間にか喧騒や街灯の光が戻っている。

 大通りから聞こえてくる太鼓や笛の音、人々の声を呆然と聞きながら、さつきは辺りを見回した。

 目を白黒させるさつきに、航夜は少し気まずそうに切り出す。

「怖がらせたくないから黙ってたけど、僕らはさっきまで、あの世とこの世の境目にいたんだ」 

「あの世?」

「父さんたちは〝常夜とこよ〟って呼んでる。死んだ人があの世に行くために通る道で、神々や物の怪たちが住む世界なんだって。生きている人間には基本的に、行こうと思ってもたどり着けない場所だけど、時々、神隠し……お前みたいに迷い込む人間がいるんだ」

 あの世とこの世の境目。

 先ほど見た「柴田のおじちゃん」や、森を覆い尽くす黒々とした闇を思い出し、さつきは体を竦ませた。

「まさか、わたしたち死んじゃったの?」

「死んでない、向こう側に迷い込んだだけ。戻って来られたんだから、気にしなくていい」

 航夜は慣れた様子で淡々と、諭すように言葉を返す。

 さつきは不思議な気分で、幼馴染の横顔を見上げた。

先ほどまで、さつきは混乱と不安で心細くて仕方がなかった。

 にも関わらず航夜は、自分とは対照的に落ち着き払っている。そんな幼馴染の姿が、八歳の少女の目にはひどく大人びて映った。

「なんだよ」

 それはさつきにとって、いつも不愛想で口数の少ない「何を考えているかよくわからない男の子」だった航夜を見る目が変わった瞬間だった。

「航ちゃんって、すごいねえ」

 航夜はぽかんと口を開けたが、思い出したように顔をしかめる。

「恥ずかしいことあまり大声でいうな、馬鹿」

 そっぽを向いた航夜の頬や耳がほんのり赤く染まっていることに気付き、さつきは妙に嬉しくなって、つないだままの左手をぶんぶんと上下に振り回す。

「わっ、なにするんだ!」

「えへへ。照れてる、照れてる」

 怯えていたかと思えば早くも笑っている少女に呆れたのか、航夜はしばらくの間、なすがままに右腕を振り回されていた。

 路地裏を抜けると、二人は大通りに出る。

 すると、ひゅるるると音を立てながら、火の玉が目の前に空にのぼってゆく。

 一拍置いて、雲一つ無い夜空に黄色い火花がパッと花開いた。

「あ、花火!」

 さつきが叫ぶと同時に、ドン、と爆発音が空気を震わせる。

 次々と花火が打ち上げられ、夏の夜空に色とりどりの花が咲き乱れた。

 綺麗だね、と声をかけようとしたさつきは、呆然と花火を眺める少年の表情に、言葉を飲み込む。

 かわりに目の前の石積みの塀によじ登る。

「危ないぞ、そんな所に登ったら」

「こっちの方がよく見えるもん。航ちゃんもおいでよ!」

 航夜は呆れ顔をしたが、無邪気に差し伸べられた小さな手を掴むと、それを頼りに塀を登る。

 二人は並んで座ると、しばらくの間、花火を眺めていた。


 ――――この時のさつきには、知るよしもなかった。

 その夜が航夜と行った、最初で最後の夏祭りになることを。

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