白い世界

百々面歌留多

白い世界

 これは小さな物語。どこの誰にも影響のない、とても個人的な話であって、他人様においそれとお話しすることではないのでございますが、今宵は気分がいい。


 一月と一週間、大半を床で伏しておりました。何か名前のある病ではないのです。何となく調子が悪い。頭痛は元々でしたがね、起きている間はずっと響くのでございます。左の側面から頂点にかけて、万力で締め付けるが如く、といったところでしょうか。


 慣れているから、良いのです。あなたさまが心配することではございません。手前の事情ですから、お顔をお上げくだされ、良い顔が台無しですよ。


 はて。


 お話しすると申しましたが、どこから話せば良いのか、検討もつきませぬ。人生五〇年、長いようで短いですねえ。若い頃などついこの間のよう。


 頭痛はありましたが天気の悪い日だけでしたし、私、意外と活発な娘だったのですよ。お転婆だのじゃじゃ馬だの散々親兄弟から飽きられたものです。


 きっとあの人たちは今のわたしがこんなになってかわいそうだとは思いますまい。きっとザマアミロだの指差して笑うことでしょう。


 一つ、思い出したことがございます。あれは八つの頃、ミミズも干からびるほどの強い夏の日差しで私くたびれていたんですよ。家の縁側で氷の入ったお茶を飲んでいました。たしか麦茶だったと記憶しておりますわ。


 近くでは羽のある扇風機が首を振っておりまして、私とそれから猫をあおぐのです。三毛猫のメスで名は、たしかタマです。


 覚えてないのかって、すみません。堪忍してください。今までに何匹の猫を飼ったと思っておるのですか。一匹ずつの名は覚えていますけれど、その子がいつ、何番目に飼ったのか正確には記憶していないのです。


 タマは縁側で横になり、無防備な腹を私に見せつけておりました。風にあおられるたびに耳元の毛が揺れておりました。もううんざりだって顔で睨め付けてきたのです。当時の私は猫にも対抗心を燃やすだけの元気がございまして、よく睨めっこをしたものです。


 で、私が負けるのがセットでしたけど。平和で怠惰な日常を貪っておりました。でもしょうがないのです、夏休みでしたから。


 夏休みは七月の下旬から八月の終わりまで一ヶ月強にも及ぶ長い期間の休みでございました。最初のうちは自由な時間を満喫するのですが、一週間もすぎると焦ったくなってくるのです。やりたいことをやり過ぎるのも体にとっては毒なのですから。


 自由研究のために図書館で借りた本を枕代わりにして、梁に吊るした金魚の風鈴が鈴の音色を響かせると、静かに風がやってきました。


 どこか行きたいなあ、なんて思い描いたのですが。うちは両親共々忙しく、旅行に行く暇はございませんでした。友達が故郷だの外国だので素敵な思い出を作っている間にも私はタマの憎たらしい目を見返すしかありませんでした。


 そう。


 だから。


 ちょっとでもお出かけ気分を味わいたくて、本を借りてきたのです。観光地の情報をまとめた旅行雑誌と当時流行していたファンタジー小説。半分くらい読んでから飽きてしまいました。


 いくら読んでも頭の中の想像だけで止まってしまったから。場面は思い描けるのにそこにある音や匂い、質感などを呼び起こすことはできませんでした。 きっと子どもだったからでしょう。


 圧倒的に経験が足りなかったから、私にはリアルを生み出すことができなかった。朧げな虚像には細部が宿らず、無意味に膨張してゆくだけ。そうして膨らみすぎた想像はある一定のところまでいくと、破裂するのです。萎んだものは元には戻せません。


 想像力のない子どもだったのです、私は。目に見えない積み木を重ねることは好きでしたが、上手に組み合わせるのが苦手だった。


 実力もないくせに理想ばかり追い求めて、あの頃から私は何も変わりありませんでしたね。


 ただあの時だけは違っていたのです。私、次第にうとうとしてきまして、目蓋を下ろしたのです。真っ暗闇がございました。


 ああ、眠るんだなって直感したのです。そのコンマ数秒後には意識が消失するはずでございました。


 ですが、ありえないことが起こったのです。自分は眠っていると理解しているのに、起きているように振る舞えたのです。目を開けた時、周りの景色はすっかり様変わりしておりました。


 真っ白な空間が三六〇度、どこまでも続いていたのです。あまりに殺風景なせいか、錯覚のように思えました。奥行きが全く感じられないのに、手を伸ばしても虚空を掴むだけ。歩いても、走っても、永遠にぶつからない。あるといえば二本の足で立っている感覚でございました。



 ただ地面を触れようとすると、すっぽ抜けるのです。だから試しに落ちてみようと思いまして。普通ならやりませんけれど、明らかに夢だとわかっておりましたから。


 足の爪先に目掛けて手をめいいっぱいに伸ばして、プールの飛び込みの要領で落ちてみるのです。そうしたら、一瞬ふわっとした感覚の後、尻餅をついておりました。


 何が何だかわからず何度か試しているうちに、私奇妙な仮説を思いついたのです。もしかして落ちた瞬間に地面の位置が逆になっているのではないか、と。おかしな話でございますが、それ以外の理由は思いつきませんでした。


 次にここはどこなのか、と思索するようになりました。夢の中ではありましたが、もっと明確な答えを知りたかったのです。地名ではなく座標で現在位置を把握したかったのです。


 難しい話はわかりませんでしたから、私、さらに突拍子もない仮説を立てました。あの瞬間、私がいたのはひょっとしたら宇宙の中心だったのではないか、とね。


 じゃあ今度はどうして宇宙の中心にいたのかと考えを巡らせるのです。ですがちっとも思いつきませんでした。夏休みの猛暑の中、縁側で猫とごろ寝をして、扇風機を浴びていたのはたしかです けれど。


 飛び跳ねたり、でんぐり返しをしたり、色々と試してみましたが、どうやら下が下になるようでした。普通にジャンプしただけでは何も起きませんが、バレーボールのレシーブみたいに前に飛び込んでみると、両の手を頭上に掲げたまま、いつの間にか立っていたのです。


 はじめはこの新鮮な感触を何度も味わっておりましたが、すぐに飽きてしまいました。抓っても夢から醒めず痛いだけ。


 砂漠のように広漠とした白い世界。とにかく歩いてみることにしたのです。何か見つかればよし、夢から醒めてもよし。ようは変化が欲しかったのです。だから彷徨った。何時間も、何日もかけてもちっとも疲れずに歩けましたけれど、この白い世界では黒い点一つも見つけることができませんでした。


 あの時はとても怖かったものです。永遠にここから抜け出せないのではないか、と内心ハラハラしておりました。


 あれは、そう。幼稚園でお友達と喧嘩をした後にむくれて押し入れに隠れたときと同じでございます。自分で入ったくせにあまりにも真っ暗でもう出られないんじゃないかと勘違いするのですね、自業自得のくせに。


 ですが私の心に呼応したのか、世界の方が動いたのです。突然女の子の声が後ろからしまして、振り返ってみれば、彼女が立っていたのです。


 今でもきちんと思い出せますよ、艶のある黒い髪ですらりと背の高い女の子でした。年は十五、六といったところでしょう。今の私からすれば年端に満たぬ子どもでございますが、彼女はとてもお姉さんに見えたのです。


 彼女は私の前に歩み寄ってきて、屈んで目線を合わせてくれました。「大丈夫?」ってにこやかに尋ねてきたのです。私は首を振りました。


 すると彼女は私の手を取って、「行こう」と呼びかけてきたのです。白い世界に打ちのめされた私に取っては藁だったのです、すがりたくなるほどに。


 手を繋いで歩いている間に、彼女は遠くを見ながら語るのです。ここはどこでもない場所で、たまに迷子が来るということ。自分は迷子を見つけたら、案内をすることにしていると。


 案内とは何か、私が問いかけると。


 彼女は頷くのです。「大切な使命だから」とはにかんで、私の手をよりいっそう強く握りしめたのです。


 ほのかに温かい彼女の手は最高の道しるべでございました。私は彼女に全てを委ねて、引き馬の如くついて行ったのです。


 それからも彼女は教えてくれます。白い世界には果てがないこと、前後左右上下には明確な区別がないこと。立っていられるのは体が記憶しているからだと。彼女は明らかに不思議なことを語っているのですが、私には騙っているようには思えませんでした。人間、嘘をつく時はもっとわざとらしく笑顔を作るはずなのに、彼女の笑顔には言い得てのない影が宿っておりました。


 途中で私は「どうしてお姉さんはここにいるの?」って聞いたのです。


 そうしたら彼女は立ち止まって、振り返り、「ここが素敵な場所だから」と、さも当然のように呟いたのです。


 しばらく歩いてからお姉さんは立ち止まり、目の前を指差しました。何の変哲もない白い地面を指し示して、「よく見て穴があるわ」というのです。


 私は思わず彼女の背中にしがみついて、後ろからそっと覗き込みました。白いはずの地面に目を凝らしてみると、わずかに波立っておりました。液状化した地面に「ボンドみたい」と呟くと、お姉さんはほんの少しだけ笑ってくれました。


 膝をつき、空いている方の手を伸ばして、徐に液状化した地面に手を突っ込むと、彼女は白い液体を掬ってみせました。ほんの少しだけ粘り気のある無味無臭の白い液体は、一滴も残さずに地面へと垂れました。


 お姉さん曰く、穴は他の場所とつながっているとか。今と違う場所に行くにはここを潜らなくちゃいけないと念を押してきました。決心をつけるまでに幾ばくかの時間が必要でしたが、最終的には私飛び込むことにしたのです。


 あのまま白い世界に居続けたら、いずれはあの虚な殺風景に耐えきれず、心の方が参ってしまうのではないかと。後ろむきな話なのですが。まあ、お姉さんが背中を押してくれなければ、いつまでも躊躇していたのかもしれません。


 飛び込む直前に私は彼女にお礼を言いました。「ありがとう、ここまで連れてきてくれて」と、頭をペコリと下げました。すると彼女は苦笑して、「どういたしまして」と言うのです。咳払いをして「もうこっちには来ちゃダメよ」って。


 やりとりと済ませた後、私は手から穴へと飛び込みました。穴に飛び込んでもなお、視界を支配するのは真っ白で、地に足のつかない感覚だけが落下の感触だったのです。重力加速度などまるでない、怠惰な落下は一分ほど続きました。

  

 気がついたら、私は家の縁側に戻っておりました。タマが不機嫌そうに私の顔を睨みつけていたのです。すでに夏空は傾き、黄昏時を迎えておりました。


 タマに餌をやらなくては、と立ち上がって、ふらふらと居間へと向かったのですが、途中で扇風機のコードに足を引っ掛けて、畳の上に転んでしまったのです。


 あの時のい草の香りははっきりと覚えております。膝と肘がとても痛かったことも。昔の私はあの程度でよく泣いたものだと情けなくなるのですが。


 ずっと後悔しているのです。もしあのままあの白い世界に居続けたならば、夢から醒めずにいたかもしれない。そうすればその後の人生を、頂点から転がり落ちていくだけの未来とは無縁でいられたはずだと。結果論かもしれませんが。この一ヶ月と一週間もの間、私は眠りに落ちるたびにあの白い世界に再び迷い込まないか密かに期待をしていたのです。


 あの何の変化もない白い世界の住民になってしまいたいと心から願うのです。

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