君を忘るまじ
天川 七
一話目、ふたりぼっち
その細い鳴き声が
「みゃー……みゃー……」
どこかこもった高い鳴き声は子猫のようにも思える。一度は無視しようとした由宇だったが、あまりにも必死な鳴き声が耳について足を止めざるをえなかった。ため息を一つこぼし、重い気分で路地裏へ足先を変える。
夕暮れの路地裏は高いビルに挟まれて薄暗い。影が濃く伸びたコンクリートの地面には、ゴミ袋が点々と落ちている。
「……どこ?」
由宇は耳を澄ませて、狭い路地裏を注意深く進む。すると答えるように、か細い鳴き声が再び聞こえた。
それは路地の突き当りに置かれたゴミバケツの中からしているようだった。由宇は上に重しのように乗せられていたゴミ袋を下して、そっと上蓋を持ち上げた。
むわりと広がる生臭さの中、緑の丸い目が二つ覗く。小猫だ。まだ生まれて間もないのだろう。由宇の手にすっぽり乗せられるほど小さく、軽い。バケツの底で必死にもがいたのか、全身が薄汚れていた。
「みぃー」
潤んでつぶらな瞳が助けを求めている。由宇は両手で子猫を抱き上げて、制服が汚れるのも構わず咄嗟に胸へと抱き寄せていた。
誰かに悪戯で捨てられたのかもしれないが、あまりにも酷い仕打ちだ。秋になって、この頃は夜も冷える。誰にも見つけられなかったら暖も取れず、一晩も持たなかっただろう。
由宇は小刻みに震える温かな命をハンカチで包んで、路地を足早に出る。
「大丈夫だよ。家に帰ったらお風呂に入れてあげる」
拾ったからには責任を持たなくてはならない。優しく話しかけて、ハンカチ越しに子猫の背中を撫でながら、少しでも早く着くように家路を急いだ。
これが、由宇と子猫のこつぶとの出会いだった。
何故こつぶを拾ったのかと人に聞かれたら、由宇は可哀そうだったからと答える。実際に母にもそう説明して、飼うための許可をもらった。だけど本当は違う。本当は……自分が寂しかったのだ。
由宇には父親がいない。幼い頃に病気で亡くなったらしく、物心がつく頃にはいないものだった。それでも仏壇に飾られる父親のことが知りたくて、幼い頃は母に尋ねたこともあった。そうすると、母は決まって優しい人だったのよと、嬉しそうにけれど、どこか悲しみのある表情で話してくれた。
写真でしか見たことのない父が大好きだったのは、そんな母の影響があったのだろう。会って話してみたいと今でも思う。
けれど、成長するにつれて、由宇はしだいに父のことを口にするのを止めた。おぼろげにわかったからだ。母が今でも父の死を悲しんでいることを。それにシングルマザーとして頑張って働く母に対する遠慮もあった。
中学生になると由宇は仕事で忙しい母に代わって家事を請け負うようになった。疲れて帰ってくる母の為に、せめて美味しいご飯を用意してあげたかったのだ。けれど休日など、自分だけの食事が必要の時はついインスタントラーメンに頼りがちで、食べたくない時は抜きがちだった。
しかし、こつぶを拾って二週間。由宇の生活は大きく変化していた。こつぶと一緒に食事をするようになったので、一人の時でも料理をちゃんとするようになったのである。
こつぶには由宇が頼る相手なのだ。もし、こつぶが病気で身動きできなくなれば、一番最初に助けてあげられるのは由宇だ。だから、今までと同じ生活ではいけないと思ったのだ。
今日も授業を終えた由宇は寄り道もせずに一直線に帰宅する。アパートのエスカレーターが開くのももどかしく、気が急ぐまま自宅に急いだ。
「ただいま」
「みぃー」
声をかけながら開くと、こつぶが鳴きながら足元にすり寄ってくる。ゴムボールのように弾む身体に合わせて、首輪についた鈴も楽しそうに鳴り響く。毛玉のようにふわふわした毛がくすぐったい。小さな身体を蹴らないように抱き上げて、由宇はリビングに向かう。
こつぶは由宇によく懐いた。動物病院では医者を嫌がり逃げ回って噛みついたというのに、由宇には引っ掻きもしない。恩人とでも思っているのか、毎日まるで忠犬のように玄関で待っているのだ。
由宇はカーペットにバックを投げだすとソファに身体を横たえて、両手でこつぶを持ち上げて顔を合わせる。
「こつぶ、今日もいい子にしてた?」
「みぃん」
「そう。今日ね、先生に呼び出されたの。もう少しクラスの皆と話しなさいだって。協調性がないってことだろうけど、会話が続かないんだよね。そもそも合わない。なんでトイレまで一緒に行きたがるの? あれこれも全部一緒じゃなきゃいけないなんておかしいよ」
鉛のように重い不満を吐き出すと、由宇は憂鬱な面持ちでこつぶをお腹の上に乗せる。ふみふみと肉球を押しあててくる温かな身体を撫でてやりながら、汚れた天井を見上げる。
「あたしにはあんたとお母さんだけでいいのにね」
現実がそれでは通らないと理解しながら、つい願望が口をつく。周囲に合わせて無理やり自分を変えるのはストレスになる。けれど、学校と言う集団生活を円滑に過ごすためには、本音を隠す必要があることを由宇は知っていた。
ふと冷えた空気を感じた。由宇はソファから身体を半分起こして、ベランダを確認する。見れば、二十センチくらい窓が開いていた。
「閉め忘れたのかな?」
母に口を酸っぱくして言われているから、防犯はしっかりしているつもりだったのに。由宇は今度こそ窓をしっかりと締め直した。
月曜日は嫌いだ。始業時間を知らせる鐘の音なんて最悪だ。あの甲高い音を耳にすると深海より深く気分が落ち込む。
ため息を吐きつつ由宇はしぶしぶ教科書を広げて、中学生らしく学業に励む。その字面だけなぞれば立派に見えるかもしれないが、実際は違う。数学の問題を解く振りをしながらノートの端にこつぶの絵を描く。
イラストは得意だから、なかなかよく描けていると思う。その絵は我ながらいい出来だった。消しゴムで証拠隠滅を図ろうとしていたら、隣から小さく「うわぁ……」という控えめに驚いたような声がした。
横目で見れば、ほとんど話をしたことのない男子生徒が目を丸くして食い入るように由宇の絵を見ていた。
「なに?」
「ごめん、勝手に見て。
突然褒められて由宇は戸惑うように目を反らす。無言で消しゴムを動かそうとしたら、また話しかけられた。
「消しちゃうのか?」
「…………こんなの、ただの落書きだし」
「すごく上手いのにもったいないなぁ」
「……なら、あげる」
由宇はじっと見られることが耐えられずに、ノートの端をちぎるとイラストを渡した。別に捨てられようが破かれようが構わないと思っていた。これで会話も途切れたとほっとしていたら、相手はわかっているのかいないのか、楽しそうにこそこそとなおも言葉を重ねてくる。
「ありがとな。大事にするから。オレは絵は壊滅的なんだ。自慢じゃないけど、なにを描いてるのかわかんないって、美術教師さえさじをなげたくらいなんだぞ。それから、理数は苦手で歴史と運動は得意だ。隣のよしみで困った時は助け合おうな」
由宇はまじまじと相手を眺めた。自分の欠点をわざわざ教えるなんてプライドがないのだろうか。それともそれが自分の欠点だと思っていないのか。どちらにしても、ほとんど他人に近いクラスメイトにそんなことを言うなんて変わってっている。
由宇はためらいがちに尋ねた。
「……あんたの名前は?」
「クラス替えしてもう二カ月だぞ? 隣の席なんだから、せめてオレの名前は覚えてくれ。
名前を知ったからと言って、深く関わるつもりはない。由宇はおざなりに頷きを返して、前を向いた。緋央は友達も多そうだから、わざわざ由宇に助けを求めたりはしないだろう。
違う世界に住む人間と擦れ違っただけ。風変りな隣人に対して、由宇はそんな認識しかしていなかった。
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