60.大人日記(”真っ白”)
翌日、折檻部屋から開放されて昼食からの参加となったイヴリーチは食堂へ向かった。
元より閑静な空間が、自身の登場でさらに気の締まった空気になる。
痛々しい痣をつくる少女達から鋭い視線を向けられる中、イヴリーチは自分の席についた。すでに用意されている食器には調理当番からのほんの気持ちだろう、いつもより多めの虫が浮いている。
丸一日姿を見せなかった訳は周知のこととなっているらしく、食卓に座っているだけで全方位から絡み付く視線の鬱陶しさったらなかった。中にはアリムから送られるものもあったが、後ろめたさから彼の席を見れなかった。
「あんな酷い痣つくるなんてな。そこまでヤベェ女だとは思わなかったぜ」
「野蛮ジンだよ野蛮ジン。だから服からくっさい動物のフンのニオイがするんだよ。主食も虫だし」
「知ってる? 弟は一人じゃないんだって。もっと下に何人もキョウダイがいるの。父親は”タネウマ”だね」
「クスクス……今にここを追い出されるんだから、それまで折檻部屋に詰めとけばいいのにねぇ」
食事が始まってからも男子から女子から好き勝手話す声が聞こえる。
本来、食事中は私語厳禁。普段なら世話役が注意をするのだが、この日奉公人と共に食事を取っていたのは別の初老の男の使用人だった。彼ははしたないと制することなく黙々とぬるいスープを食べ進めるだけ。誰もなだめる者がいない食卓は、次第に囁きがざわつきに変わっていった。
各グループごとに盛り上がりだすと、調子に乗ったある男子がスープにひたしたパンの欠片をイヴリーチに向かって投げた。
ペチョッと白い頬に橙色の点模様が差すと、投げた男子とその両隣席の男子達は弾けたようにゲラゲラと声量を抑えることなく笑い出した。嘲笑はすぐに周囲に伝染し、目を伏せてだんまりを決め込むイヴリーチを見ると、一同はここぞとばかりに煽り散らした。
「ワハハッ! タネウマの子だ! 野蛮ジンだ! 山にかーえーれ! かーえーれ!」
「そうだ! かーえーれ! かーえーれ!」
「あっはは! かーえーれ! かーえーれ!」
”かーえーれ!! かーえーれ!!”
手拍子と共に一人、また一人と合唱団が増え、どこからともなくパンの欠片が飛んでくる。
イヴリーチは食事の手を止め、反発することなくただ受け止めた。
耐えればいい。耐えなければならない。弟へ被害が及ばないよう、理不尽を自分だけに留めなければ……。
だが、イヴリーチの想いとは裏腹に、我慢ならなくなったのはアリムであった。
アリムは姉をいたぶる手の付けようがない集団を相手取り、声を上げた。
「いい加減にしろよっ!! これ以上姉さんに酷いことするなら俺が相手になってやる!!」
テーブルに握り拳を叩き付けて立ち上がったアリムに対し、それまでイヴリーチを責め立てていた全員がギョロッと目玉をかっ開いて注目を向ける。面白い玩具が一つ増えたと思っているのだろう。音頭を取った、あの最初にパンを投げた意地悪な男子がアリムに食い付いた。
「なんだ、大人しいと思ってたけどやっぱりオメーも野蛮ジンかよ? タネウマキョーダイは家畜小屋に帰れ!」
「あぁ帰ってやるさ! くだらないイジメを楽しむ連中がいる場所なんて、こっちから願い下げだ! でも最後にお返しだけはさせてもらう!」
アリムは叫び終わる前に自席から抜け出し、機敏な動きで意地悪な男子の背後に移動すると、椅子から引きずり下ろして石の床に組み伏せた。
年齢の割に背が高く、イヴリーチに倣い幼少期から畑仕事を手伝ってきたアリムの肉体は、年上相手でも引けを取らなかった。
抵抗される前に顔面を数発殴り付けて戦意を消失させ、二人を引き剥がそうとする他の男子の手が背後から伸びてきたらその手を掴み、自分の方に引っ張って体勢を崩させると、新たな標的とみなし目や鼻などの急所に加減なしに肘を突き入れる。
野獣の如く暴れ回るアリムにいつ標的にされるか分からないイジメの加担者達は皆距離を取ったが、騒然とする場でイヴリーチだけは感涙にむせんでいた。
やはり最後に頼れるのは家族だと確信した。
愛は返ってくるのだ。昔眠る前に母が話してくれたお気に入りのおとぎ話と同じように、献身は必ず良き結果をもたらす。
暴走するアリムと、彼を止めようと囲む男子……悲鳴を上げながら遠巻きに避難する女子に、自席に座ったまま静かに見守るイヴリーチ……。
イジメを先導していた女子達が初老の使用人に止めてくれと泣きついたその時、食堂の出入り口の扉がギギッと軋むように音を立てて開いた。
「あっ……ご主人様……」
誰が言ったか分からない小さな呟きは、頭に血がのぼったアリムの耳にも不思議と明瞭に届いた。
入室してきたのはトベインだった。それも隣に、顔中を腫らし、口の端から血を流している世話役を連れて……。
「この騒がしさは誰のせいだ」
震える世話役を扉付近に置き、トベインは足早に静止している男子達に近付いた。
トベインがやって来る方から円がはけると、屋敷の主人は中心で数人の男子を床に這わせた、尚も目の奥を燃え上がらせているアリムにパーンッ! と小気味よい音のする張り手を食らわせた。
「頭を冷やせ。そいつを離してやれ」
トベインに指摘され、アリムは今にも殴り掛かろうと相手の胸ぐらを掴んでいた手を、ためらいながらも言われるがままに離した。
姉弟は心の底から”終わった”と思った。この地獄のような奉公生活が終わるということは、せっかくの支援も打ち切られてしまうということ。また家族全員が餓死から逃れる方法を考え直さねばならぬのかと後悔しても、後の祭りだった。
しかし、当のトベインは二人に然程怒りを募らせてはいなかった。
彼の内面を知る他の子供達は、不気味なほど落ち着き払っている主に逆に恐怖を覚えていた。
「俺は常々言っている。ここは俺の屋敷だと。なのに最近は……お前達は気が大きくなって、ここを遊び場だと思ってるみたいだな。これは誰のせいなんだ? お前達に分からせることができなかった俺のせいか? 指導不足の世話役のせいか? それとも、調子に乗ってしまったお前達奉公人のせいか?」
誰に言うでもなく天を仰いで溜息を吐くトベインに、子供達は顔を伏せた。
トベインは最初の取っ組み合いで敗北し寝そべっていた意地悪な男子の腕を無理矢理引っ張り上げ、体を起こさせた。すでに濃く大きな痣があちこちに浮き上がり始めていた男子は、人間というより動物の鳴き声に似た悲鳴を発した。
トベインは不安に染まる子供達の顔を一つ一つ見渡しながら、芝居掛かった口調で話し出した。
「実は少し前から奉公人の間で対立が起こっていると報告を受けてな、個人的に調べていたんだ。さっきも扉が少しだけ開いていたのに誰も気付かなかったか? 隙間からお前達のやってることを覗き見ていたんだが……あれは酷いな。作物は神の恵みだ。今年は特に干ばつと寒波で収穫がなかったというのに、皆の努力の結晶をゴミのように扱う冒涜者がこの荘園に存在していたなんて……俺は本当に悲しい。お前達はそういう生き方を肯定しているんだな? 他人を辱めるために神からの贈り物を無下にするなど、俺には到底理解できない行為だ。いや実に残念だ」
そう言うと、トベインは特定の子供達の頬を順にぶっていった。
ぶたれたのはイヴリーチをイジメていた女子の主犯五人と、彼女達と並んでよく暴言を吐きに突っ掛かってきた男子三人。あのパンを投げてきた男子が率いるグループだ。
叩かれなかったのはイヴリーチとアリムと、イジメに乗っかりはしたが直接仕掛けるような真似はしなかった傍観者達。
この仕分けが何を示しているのか、叩かれた側にとって良くない結果であるのは皆分かりきっていた。
トベインはにこやかに笑うと、イジメに関わった少年少女に冷酷に告げた。
「今叩いた者はこの場でクビだ、俺以外の人間が屋敷でデカい顔をするなど許さん。作業着は返却、自前の服に着替え次第屋敷から出ていけ。お前達の家への支援も打ち切りだ。問題を起こした罰として、今まで与えた分を次回からの年貢に上乗せして回収してやる。せいぜい己が過ちを親に謝り倒すんだな」
トベインの言葉を受け、解職を申し渡された子供達は頬の痛みを忘れるくらいに、裁きの結果に口々に喚き散らした。
「ごじゅじんじゃま”……っ、お”え”らあ、被害じゃでぅ!!」
「ぞうでぅっ……!! お”、お”べ達のぜぃじゃあい”まぜんっ!! お”べ達は、ごいづらにだのまぇで……!!」
「ハァ!? ち、違いますご主人様っ!! アタシらの方こそおどされてっ……い、いじめてきたのは、あの新入りの方からなんですぅ!! アタシ達のことブスだブスだって言ってくるから反撃しただけで……っ」
「ご主人さまっ、この女の言っていることは嘘ですっ!! 己の行いについては謝りますっ、わたしは罪を認めて悔いますからっ、どうか我が家への支援だけは……!!」
「ちょっ、ふざけんなっ!! アタシだけ悪者にすんなよ!! ……あ、ちがっ……あ、アタシ……ちがっ……!!」
愚かな行いのせいで
トベインは形だけでも
「また俺の手を煩わせるような揉め事を起こした者は望み通り屋敷から追放してやる。それが嫌なら慎ましく、真面目に働け」
皆が黙って頷くと、トベインはやっと面倒事が終わったと鼻を鳴らして部屋を出ていった。
トベインが去ってから、食堂は重々しい空気に包まれていた。
そこへ、終始部屋の端で傍観に徹していた初老の使用人が手をパンッ、パンッと二回叩き、追放組は帰り支度をしに退出するよう、奉公を継続する者に対しては手を付けたままの食事を片付けてしまうよう促した。諦めようが諦め切れなかろうが、全員が言う通りにするしかなかった。
残った奉公人の多くはトベインの抑圧的な強引さに嫌気が差していたが、イヴリーチだけは彼に畏敬の念を抱いていた。
ようやく現れた、公正な大人……この時のトベインは本当に、イヴリーチにとって輝きを放った存在だったのだ。
その晩の食事の席は実に静かなものだった。
昼間の騒動で消えた八人分の空席のお陰で食卓はかなり広々として見えた。誰も一言も喋らず、それぞれの手元の食器が擦れる音しかしない。
そう、これでいいのだ。スープに虫が混入していないなんて、いつぶりだろう。
イヴリーチは久々の安寧を噛み締めながら、ふと視線を感じてそちらを見た。消えた者の分の席を詰めて座っていたので気付かなかったが、送り主はちょうど対面に移動してきたアリムだった。
アリムは笑っていた。どこかぎこちない笑みではあったが、それは殴り合いの最中やトベインに頭を冷やせと叩かれた際の傷のせいで顔が引きつっているからだと思った。
イヴリーチは隠された感情を読むのが下手だった。”もう大丈夫だよ”、という意味を込め、愛する弟へ微笑みを返した。
「旦那様がお呼びだ。寝支度の前に仕事部屋に向かいなさい」
夕食後、後片付けを終え寝室に向かおうとするイヴリーチを、昼間の初老の使用人が引き止めた。
思えば屋敷にやって来た初めての日、父に食糧袋を手渡していたのもこの使用人だった気がする。何の感情も映らない黒ずんだ瞳に、イヴリーチはそこはかとない恐怖を感じた。とはいえ、主人に呼ばれたとあれば行く他ない。
イヴリーチは言伝通り、作業着のままトベインの仕事部屋へ訪れた。入口前には壁掛けの燭台の下、駐留中のくたびれた兵士が立っている。あくびを隠そうともせず堂々と披露する兵士にトベインから呼び出しを受けた旨を伝えると、”どうぞー”、と気の抜けた返事をもらった。
コンコンと控えめにノックしてから入室すると、トベインはすぐ正面にある年季の入った大きな机に帳面を広げ、書き込みを行っていた。
とりあえず扉を閉めて指示を待っていると、仕事机の前にある一人掛けの椅子に座れと促されるので、そこに腰を下ろす。居心地悪そうに自身の指先をいじるイヴリーチを一瞥すると、トベインは帳面を閉じて立ち上がり、側面の壁に沿って設置してある低めの棚から何かを持ってきた。
「木苺のジュースだ。好きか?」
「え……いえ、飲水以外はスープしか……じゅーす? っていうのは、飲んだことないです……」
「じゃあ飲んでみろ。うまいぞ」
そう言ってイヴリーチに手渡したのは、赤い液体の入った木のコップだった。
見たこともない鮮やかな色の飲み物をやや訝しげに眺めている間に、トベインの方は自席に戻って自身の分をゴクゴクと飲み干していた。その様子に怪しい飲み物ではないのだと安心すると、少しだけ、ほんの一口分を小さな口に含んでみると、味わったことのない甘酸っぱい風味が口内に広がった。
初めて味わう酸っぱさというものに思わずブルッと震えると、トベインは面白そうに”ハハッ”と穏やかな顔付きで笑った。
それはイジメっ子達の断罪で見せた怒気を
トベインは自分のコップにジュースを継ぎ足しながら、単に渦中の人物であったイヴリーチに直接話を聞きたかっただけだと、呼び出した理由を語った。
それを受け、イヴリーチはグリーが急によそよそしくなった日からさかのぼって自身の身に訪れた悲劇を説明した。一通り伝え終わると、トベインは先程とは打って変わって、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「これは世話役を問いただして得た話なんだが、あの消えたガキ共の主犯……いつも中心を歩いてる、如何にも根性の悪そうな女のリーダー格だな。あいつは背伸びが好きでな。警護のために外から雇ってる兵士が何人かいるだろう? その中の一番の若手に気があるのは屋敷中の大人の知るところだったんだが……ま、それはいいか。ある日その兵士がお前の容姿を仲間内で褒めていたのを立ち聞きしたらしい。それで嫉妬して、周囲を囃し立ててお前を陥れたと……どうだ? 実に子供らしく短絡的でくだらない動機だろう?」
トベインから与えられた情報に、イヴリーチはふつふつと怒りが沸いた。
だから、グリーは突然に冷たくなったのだ。彼女の嫌がることをしてしまったのではなく、あの女が仲良くするなと裏で釘を差していた。本当にくだらない、背伸びした恋愛ごっこのせいで自分は多くの屈辱を受けたのだ。孤独と痛みに耐え、大切な弟を巻き込み、大勢の前で辱められ……。
トベインがこちら側に立っていなかったら、追い出されていたのは自分達姉弟だ。支援を求める理由はどの家も同じだろうに、あの女は人の家庭が飢え死にで崩壊するかもしれないと理解した上でイジメをけしかけてきたのだと思うと、知らず知らずのうちにジュースの入ったコップを握る手に力が入っていた。
激情に呑まれていたイヴリーチは、トベインが自身の背後に回っていることに気が付かなかった。
唐突に感じた両肩に乗せられたねっとりとした重みと、布越しに伝わる人肌の生温かさ……イヴリーチはヒッと喉を鳴らし、勢いよく後ろを振り向いた。
「あ、の……?」
「もっと酷い罰を与えてやろうか? お前が望むなら、奴らの命を奪ってやってもいい」
「えっ……?」
ゆっくりだった。
ゆっくりとトベインの顔が近付いて来るので、咄嗟にコップを握ったまま手を振り上げ、拒絶してしまった。パシャッと音が鳴ると同時にまだ残っていたジュースが全てトベインに飛び掛かってしまったが、謝れるほどの余裕がイヴリーチにはない。
「なっ、なにするんですかっ!?」
「……それはこっちの台詞だ。何を拒否している? 俺に家族を救ってもらった恩があるだろう? 今日だって弟共々孤立していたところを助けてやった。この俺が何の意味もなく、たかが奉公のガキ二人の味方をすると思うか?」
トベインは顔にしたたるジュースをさして気にも留めず、凍るように冷めた声色で囁きながらイヴリーチのあどけなさが残る小さな顎に指を添えた。
「ずっと目を付けてたんだ。オヤジが死んで仕事を引き継ぎ、初めて
続けざまに繰り出される言葉の羅列は、混乱のせいでほとんど頭に入ってこなかった。
二、三年前の井戸端会議で仕入れた情報だが、確かトベインの年齢は当時で三十前後と言われていたはずだ。荘園の主だった父親が病死し、若くして役目を継いだものの一向に嫁を取ろうとしないので変わり者だと大人達が嘲笑していたのを覚えている。二十半ばを超えて独り身なのは恥ずべきことで、それなりに地位のある者なら尚更だとも……。
それが今……もしかしなくとも、求愛を受けた……?
イヴリーチはさっき飲んでいたジュースの味をすっかり忘れ、とにかく思い付いた疑問をぶつけて考える時間を稼いだ。
「な、んで……アリムまで……」
「似てるだろ。お前達二人。俺はなぁ……見てみろ、このワシ鼻。俺はこの醜く出っ張った鼻が大嫌いなんだ。昔ノコギリを使って自力で削ぎ落としてしまおうとしたぐらいに……ハハッ! 馬鹿な話だがな。本当に嫌いだったんだ。だから反動なのか、顔の整った人間が好きなんだよ。お前は自分の顔をしっかり見たことがあるか? 大きい目に小さい鼻に……周りのガキ共が出来の悪い芋みたいに見えるぞ! ハハッ! ……まぁとにかく、俺は美人が好きで……勤勉な者が好きってことだ。何たって労働は神への奉仕だからな。あの弟はお前が男になったみたいな顔をしているだろう? いずれ剣技を学ばせて護衛にしようと思って一緒に連れてきた。お前ら姉弟を侍らせて暮らすんだ……なぁ、最高にいい夢だろう?」
そう言って、顎をくすぐる指が唇やら喉やらに伸びる。
正直言うと、トベインのことは好意的に見ていた。認めたくないが、あの忌み嫌ったイジメっ子の女と同じ、”背伸びした恋愛”だ。年頃の女子は一度くらいは、一回り年上の男性に憧れを抱いてしまうものなのだ。
トベインは農奴のように一日中体を動かしているわけでもないのに、元からの筋肉質な体型を維持していた。それでいて周囲を従わせる権力を持ち、皆が怯える彼が図らずも自分に手を貸してくれた時には疑いようもない優越感を抱いていた。
ときめいてしまっていたのだ。
子供に、大人に幻滅していた中で現れた”守ってくれる人”……おとぎ話の騎士みたいな人だと思った。
が、それも数分前の話。
いざこうして独りよがりな愛を見せつけられると、ときめくどころか心が離れてゆく。
ずっと前から目を付けていた? 顔が似ているから弟も一緒に連れて来た? ……本当に気持ち悪い男だ!
嬉々として最高な夢……を語るトベインに、イヴリーチは肌を
褒められるのは良いことなはずだが、一度拒否反応が出た相手からだと不快でしかない。最早隠すつもりのない下心が全面に出すぎていて受け止め切れない。やんわりと断るしかない。
昂ぶる彼を落ち着かせようと、イヴリーチは探るように言葉を選んだ。
「あの、べつに……みにくくないです……」
「ハハァ! そりゃどうも! 美人に言われても嫌味でしかないがな。醜くないって言うなら尚更結婚できるな。できるよな? できるとも、するしかない」
「……でも……だめです……」
「……なんだって?」
またどんどんと近付いてきた笑顔が目前でピタリと止まる。
二人を隔てていたコップを引き剥がされていたイヴリーチは、間近で当てられる特有の威圧感に”失敗した”と思った。
だが、今更時を戻せるわけもなく、このまま続きを唱えるしかなかった。
「ご主人様には本当に感謝してます……色々と、助けてもらって……でも……私まだ子供ですから……結婚なんて歳じゃないですから……身分も違うし、ご主人様とは――」
言い切る前にイヴリーチの体はふわりと宙に浮き、次の瞬間、背中から硬い何かへ叩き付けられた。
「い”っ……!?」
「初日の言葉を忘れたのか? ”俺の言うことに逆うな、反抗するな”、だ。お前は俺に見初められた時から俺と結ばれる運命にあったんだ。お前の意思は重要じゃない」
視界には天井と、自身を見下ろすトベインの姿。どうやら仕事机に押し付けられたようだった。背中と共に頭もぶつけたようで、不意の痛みに言葉が出ない。我慢できず泣きながらうーうー唸っていると、トベインは不愉快そうに顔をしかめて、机の上をまさぐって何かジャラジャラと音を立てる物を取り出した。
それは手枷に似た腕輪だった。
飾りっ気のない真っ黒な鉄の腕輪は今は半分に開き、少し出っ張った部位に鍵穴らしきものがチラリと見えた。
上手く回らない頭でも、今の危うい状況くらいは分かる。
イヴリーチは力の入らない体勢で必死に抵抗した。
「やっ!! やだぁっ!!」
「チッ…… 別に襲おうってんじゃないっ、
「やだってばぁ!! それなに!? まだ結婚なんてっ――」
「助けてやったろ!! 俺の言うことを聞け!! 俺の言うことを聞くんだっ!!」
トベインは己の行動を正当化させるために
冷たい鉄が細い手首に押し当てられる。いつの間に測ったのやら、腕輪の幅は手首にちょうどはまるように
あの穴に鍵を通すことを許せば、死ぬまでトベインのそばから離れられない……そんな気がしたイヴリーチは、とにかく体をよじった。幸いトベインは机に体を叩き付けた以降は殴ったり叩いたりなどの暴力を用いらなかったが、それでもどれだけ手足をバタつかせても解けない拘束に、イヴリーチは絶望の淵に立たされた。
その時、部屋の扉が勢いよく開いた。
激しい足音が二人に近付いてきたと思った頃にはすでに、トベインの頭には何かが振り下ろされていた。
「ガッ!?」
「やめろ変態っ!!」
強い衝撃を受けたトベインは覆い被さっていたイヴリーチから退き、後頭部を押さえて床に崩れうずくまった。
乱入してきたのはアリムだった。
アリムはトベインを打った火かき棒を手にしたまま、悲痛に手足をバタつかせる姉を起こそうとしたが、錯乱していたイヴリーチは伸びてきた救いの手を振り払い、机の上で暴れ続けた。
「いやあああ!! さわらないでぇっ!!」
「大丈夫、姉さん、もう大丈夫だ! 俺だよ! アリムだ!」
「いやっ!! やぁっ!! ゃっ……ぁ……りむ……?」
「そうだ! アリムだ! 姉さんっ、無事でよかった……っ」
ようやく自身の腕を掴んでいるのが助けに来たアリムだと分かると、イヴリーチは痛む体をゆっくりと起こし、窮地を救ってくれた弟へ飛び抱きついた。
安堵から大粒の涙が溢れ、堪えきれず幼子のようにえんえんと声を上げて泣いてしまう。アリムはしきりに、”もう大丈夫だよ”と言って、打った背中を優しく撫でてくれた。
「帰ろう……家に……」
アリムの言葉にイヴリーチは何度も強く頷いた。
どうせトベインを拒否した時点で終わっているのだ。さらに殴って傷付けてしまっては、ただでは済まない。この先ずっと荘園で爪弾きにされるのは確定だ。
冬を乗り越え切れるかも不安だが、こんな目にあったのなら家族も分かってくれるはずだ。家族なら……。
姉弟が互いを憂い合っていると、開いたままの扉の下に新たな人影が現れた。夜勤の警護担当である、あの部屋の前であくびをしていた兵士だ。
兵士はうずくまるトベインを見て焦りながら、腰に下がる二つの得物のうち、こん棒の方を掴んで中へ入ってきた。
「ったく、減給モンじゃねぇかこの……クソガキがぁッ!」
アリムは年の割に力が強いと言えど、それはあくまで子供の世界での話。大の大人、それも訓練を受けた兵士が相手となれば差は歴然……アリム自身も分かっていたことだ。
だからアリムが選んだのは、被害を最小限に抑える道だった。
「離れて!!」
「ぁっ!? アリ――」
アリムは兵士がこん棒を振り下ろす前にイヴリーチを横に突き飛ばした。
イヴリーチが尻もちをつく頃には、”ゴッ”、と重く鈍い音と共にアリムが体勢を崩していて、トベインの上へ倒れそうになるのを兵士から掴み上げられ、先程のイヴリーチと同じように仕事机へと背中から叩き付けられていた。
兵士は瞬く間に
イヴリーチはトベインが与えるどころでない暴力の波に一歩も動くことができなかった。怯えるとか、そんな程度の話ではない。虫を叩くのと同じだ。あんなにも面倒くさそうな顔で返り血を浴びるなんて、戦いに慣れた兵士はかくも残忍な生き物なのかと呆然と眺めるしかなかった。
一方で、うずくまっていたトベインは机の脚を支えになんとか起き上がると、手のひらと耳から伝わる奇妙な振動と音を不審に思いながら顔を上げた。
「ゔぅ……―― っ!? おいっ、やりすぎるなっ!! 死んでしまうだろっ!?」
「……へぇ、すんません。あのー、トベイン様大丈夫ですかぁ? 頭から血が出てますけど……いやぁね、廊下の先へ変な音が続いてたもんですから、人が来たらイカンと思いちょいと様子を見に行った隙にですねぇ……」
「いまはそんなこと聞いてないっ!! どけっ!!」
トベインはピタリと動きを止め締まりなく弁明する兵士をアリムから引き離すと、血の海に沈む帳面などには目もくれずグチャグチャの顔面に手を当てたり耳を寄せたりして安否を確かめた。
「クソッ、酷い顔だ……!! だから最初から俺の言うことを聞いておけばこんなことにはならなかったのにっ……お前もっ!! やりすぎだぞ!!」
「あぁーっと、トベイン様ぁ、興奮したら頭の血がですねぇ……」
「うるさいっ、俺のことはいい!! まだ息があるからジェムを呼んで手当を――」
トベインは不安定な机の上から平坦な床へ移動させようと、アリムの背中と膝裏に腕を差し込み体を抱き上げた。体が持ち上がった瞬間、半開きだった小さな口からゴボッと大量の赤黒い液体が噴き出される。
この時すでにイヴリーチは二度目の錯乱状態に至っていた。
「アリム……アリム……」
よくよく注視してみれば僅かに胸が上下していることに気付けただろうが、無残に陥没した頭部しか見ていなかったイヴリーチには分からなかった。
ふらふらと立ち上がるとイヴリーチは横たわるアリムへ近寄り、その肩に手を置くと……。
「アリム……アリムアリムっ、アリムアリムアリムアリムアリムっ、なんでぇっ!!?? おきてアリム!!!! おきておきておきてってばぁっ!!!! ねぇっ、おきてぇ!!!!」
「馬鹿揺らすなっ!! チッ……おい、この娘を押さえてろ!!」
「へぇーい」
イヴリーチはアリムの意識を呼び覚まそうと必死に肩を揺らしたが、それは重傷者に一番してはいけないことだ。トベインは兵士に命じて少女を羽交い締めにさせた。
これは誰のせいだ?
無駄に話に上がる己の容貌のせいか?
いいや、幼稚なイジメっ子達のせいだ。勝手に想いを暴発させたトベインのせいだ。人の心がない兵士のせいだ。
こいつらが不幸になればいいのに。こいつらが苦しめばいいのに。こいつらが死ねばいいのに……。
どうして皆、生きている?
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!!」
イヴリーチは憤怒に吠えながら真上を向き床を蹴ると、ギョッとこちらを見下ろした兵士の喉元にかぶり付いた。
兵士は激痛により反射的に腕の中のイヴリーチを突き放したが、その拍子に歯に挟まれたままの皮膚がごっそり持っていかれ、ブチブチと繊維が引きちぎれる感覚に流石に飄々とした表情を苦痛に歪ませ、肉の見えた血のしたたる部分を押さえて怒りを露わにした。
「ン”ン”ン”〜〜ッ!? ……っにすんだ……ごの”、ガギぃ……っ!!」
「フーーーッ、フゥーーーーーッ!!!!」
「おいっ、やめろっ!! 両方とも落ち着けっ!!」
「落ちづけ”ぇ〜〜!? 元はと言え”ば、トベイン様がガキに手ぇ”出したせぃ”ですよぉ”!? ちぃ”せぇ女の一匹も手懐けら”んねぇとは情げね”ぇ……俺ががわりに躾てやぃ”ますよ”ぉ”っ!!」
噛み付かれ気が立っていた兵士は、肩で息するイヴリーチの頭部に大きな拳を振り下ろした。
他人が殴られた時に聞こえる”ゴッ”という音は、実際に食らうと何十倍も大きな轟音となって全身を巡る。血が沸騰して血管を流れているんじゃないかと思うほど、痛みは熱に化け全身を蝕んだ。
強打の勢いの余り、床に倒れ込んでしまったイヴリーチは行き場のない怒りに涙してしまった。
悔しかった。
大人と子供には……ましてや男と女には、絶対に埋まらない力の差がある。怒りだけでは埋まらない、どうしようもない差……。
イヴリーチは涙をこぼして……諦めるしかなかった。
兵士に怒号を上げながら、体を支えて起こそうと二の腕に触れてきたトベインの手をイヴリーチは振り払った。
そして、這うようにアリムへと近付いた。息も絶え絶えな弟のだらんと重く垂れた腕を取ると、自身の肩へ回し、ふらつきながらやっとの思いで立ち上がる。
おぼつかない足取りで一歩、また一歩と扉へ歩み出すと、背後のトベインが諭すように語り掛けてきた。
「やめろっ! 下手に動かしたら本当に死んでしまうぞ!」
「……」
「治療を、治療を受けるんだ……! 働かなくていい、家の援助も切らないと約束してやる……! 二人揃って面倒を見てやるから、落ち着くんだ! そんな状態で雪の中を歩いたら二人共……」
「……ぅ……ぇ……」
「もう……ほっといて……」
イヴリーチは同じ背丈の弟を引きずりながら退出した。
兵士は喉の傷を押さえながら忌々しそうに去りゆく二人を見つめ、部屋を出た先の廊下では医療箱を抱え固まっている初老の使用人の横を通り過ぎた。
小さな背中を見送ったトベインの心境を知る者はいない。己の過ちを回収することのできなかった愚か者の気持ちなど、誰も知ることができない。
……屋敷を出たイヴリーチは、アリムを担いでいた左の方向から駆け足で向かってくる人物に目をやった。
息を切らしてやって来たのは―― グリーだった。
すでに大泣きして顔をぐずつかせているグリーは、酷く狼狽えながらイヴリーチに訴え掛けてきた。
「ご、ごめんイヴッ……!! わ、わたしイジメられてるイヴを守れなくてっ……イヴを助けたらわたしもイジメられるって脅されて……こ、こわくて何もできなかったっ!! いつか謝ろうと思ってて、それでさっき……さっきご主人様の部屋に行くイヴを見てっ……近くに隠れて聞いてたんだけど、叫び声が聞こえてどうしよって……!! それでっ、こわくなって弟くんを呼んで、あのっ、兵士さんをおびき寄せたりして、色々やったんだけど……そ、そしっ、そしたらこっ……こんなことになってっ……わたしっ……わたしっ!!」
グリーの懸命な謝罪はイヴリーチの耳をすっぽ抜けていた。
家に帰らなければならないのに、どうして邪魔をするのだろう?
イヴリーチは無言でグリーの横を抜けた。
長い長い道のりだ。連日続く雪は今日だけは止んでくれたようだ。イヴリーチは自身の腰ほどに積もった雪の冷たさを物ともせず、無心に進んだ。
平時と同じ歩度でゆくことができないため集落までは倍の時間が掛かるが、ただ家に帰りたい一心で凍える悪路を突き進んだ。
家は外より温かいはずだ。
まだ小さい頃におぶってやった時はあんなにも軽かったのに、いつの間にか支えるのも大変なほど重くなっていたなんて。
こんな形で弟の成長を知るとは……こんなことになったのは、一体誰の……。
青紫に変色する唇を震わせながら、イヴリーチは頬を伝う涙が氷に変わっていくのを感じていた。
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