第21話 院長の思慮遠望
「後悔じゃないの。そうじゃなくて、もっと早くこうなればよかったと思ったの」
尚美は一馬を抱き、椅子に座ると、その時のことを説明した。
「こんな手があったことに、何故気がつかなかったのかしらって思ったの」
* *
尚美は両親、祖父母に妊娠を打ち明けた。
「たった四晩で出来るものなんだって、感動してしまった」
「そこじゃないでしょう。もう少しで佐藤先生に他人の子を育てさせるとこだったのよ」
そう言って呆れる両親に、
「私だって愛人と子供が付いてる人と結婚させられるところだったわ」
そう言い返して、間抜けな調査員を信じて、佐藤医師との結婚を急がせた祖父を睨みつけた。
すると、尚美に負い目を作った祖父が、
「いや、まあ、そんなことにはなるまいが、院長として言えばだ。尚美が男の子を産めば、尚美の相手が医師でないことは、それほど重要ではなくなる」と言った。
尚美はパンと手を叩く。
「そうだわ。パパもママもまだ若いのだから、私の代を飛ばして、病院は私の子供に継がせれば良いのよ。だったら卒業前に妊娠して、さっさと冬馬と結婚してしまえばよかった。でも、今からでも遅くない。私、冬馬の所に行きます」
あのときそう言った。
尚美が、出奔を思い止どまったのは祖父の次の言葉だった。
「待ちなさい。それよりも、もっと良い考えがある。獣医師という事なら尚美と結婚させて、以前から構想している動物病院を任せるという手がある」
祖母と両親が拍手して祖父の考えに賛同した。
そして祖父は慈愛のこもった目で尚美を見て、
「だから結婚は三年だけ待ちなさい」と優しく言ったのだ。
「相手が決まっているのなら慌てることは無い。男は他人の家の飯を食って血肉を付ける修行期間が必要だ。その間に我々は動物病院を立ち上げて、冬馬君の居場所を作っておこう」と言った。
「それで私はあなたを待つことに決めました」
「そうか。そうだったんだ」
「本当は昨日の晩、私と両親の三人で隣の部屋であなたの話を聞いてたの。もう嬉しくて嬉しくて、何度も飛び出して行こうかと思ったわ。でも親たちが、私に対する貴方の気持ちがどうなっているかを知りたいと言うものだから我慢してた」
「……隣にいたんだ」
「それに、逢うのは病院で紹介した後って言われてたし、私には親たちにあなたを自慢したい気持ちもあったし」
「いや……自慢って……ふつうなら、娘を妊娠させてどこかに行ってしまった、とんでもない悪者なんだぞ」
「いいえ。それよりもそんな訳があるとは言え、理由も知らせずこんなに長い間待たせた私達の方にこそ非が有るわ。だから本当に御免なさい。そして待っててくれてありがとう。そんな訳で無事男の子を産みました。名前は勝手ながらあなたの馬と父から一字貰い一馬としました」
冬馬は頷き、「いいと思う」と言った。
「家族の人は俺の事をいつから知ったんだろう……」
「おじいちゃんは、あなたが私のマンションに泊まったことを調査の人から聞いて、駆け落ちするかもしれないって、すごい危機感を持ったみたい。それで試験場まで迎えに来た」
「まったく。自分の孫を『素敵な彼女』とか、よく言うよな。すっかり瞞されて喋りすぎたわ」
「でも後で、すっごくあなたのことを褒めていたわ。私のことを良く理解してくれているし誠実だって。だから、あなたが修行を終えるのを、舞台を整えて待っていたということで、どうか許してね。いまは冬馬が獣医でいてくれて、本当によかったと皆が思っているの」
尚美が冬馬に一馬を抱かせた。
涼子が、
「さっき、院長先生から冬馬先生が一馬君のパパだってことを聞かされたとき、もう本当にビックリして、嬉しくて仕方がなくて、黙ってろって言われたからどんな顔したら良いのかわかりませんでした」
純子が「それであんなに嬉しそうだったんだ」と笑った。
「そうなの。私ね、入院してたときから一馬君を抱かせて貰ってて、そのとき尚美先生から『パパ』の話を一緒にいっぱい聞いてたんだよねー。剣道の面を被ってオートバイに乗ったとか、笑った笑った」
涼子が一馬の手を握り、上下に軽く振って言う。
「涼子さん。その話しをしたことは冬馬には内緒」
尚美が指を唇に当てて「しッ」と言って笑った声を、洗面所の冬馬にそよ風が届けた。
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