第8話 雪江の太田家
「本当だ。片方の羽根を挙げてる」
雪江の声に尚美と霞子が画像を覗き込み「うそーッ」と声をハモらせた。
実際は挙げているのではなく、羽ばたこうとして広げた羽根を降ろす途中で右翼の収納が遅れただけの事で、個体の事情だ。
雷鳥を見つけた最初の滑走者が急停止した。それに驚いた雷鳥が飛び立とうと羽根を広げたが、普段から歩行移動の習性のために、瞬時に飛び立たなかった。だから時系列的には、雷鳥が驚き羽根を広げたのが先だったのだが、その晩、山小屋で一緒になった合宿の若者達は冬馬の写真を見て「雷鳥は横断時に手を上げる」と、都市伝説を作ってしまった。
なかなか本題に入れなかった霞子が、じれったそうに手を振り「その話しはもういいでしょ。それでね。今年は私達バリに行く予定だったのね」と言った。
「バリってバリ島?」安幸が訊き返し、雪江が、
「でも今年は色々あるからそれはやめたの。それで、皆で私の家に来てくれませんか。四日ぐらい時間作れないかしら」と、言った。
猛男が、
「それは摺り合わせなければと思っていた。今年は海のバイトも行かないし、一応国試対策もしておきたいし」
「国試対作どうするの?」
「俺達の作戦担当は冬馬だ。結構考えてるから、君らも参考にすると良いんじゃないかな」
霞子の苛立ちを他所に、また本筋から離れたが六年の夏にはどうしても試験が最大関心事になる。
「俺達はまず脳を作るところから始める。試験の解答の為では無く、実際に仕事をすることをイメージするんだ。医科も同じだと思うけど 一番出題数の多いのは内科学・外科学だ。獣医学ではこれを小動物と大動物に分けて出題されるから目の前に患畜を置いてそれの治療を頭でシミュレーションしていく。それを問題ごとにやれば出題内容が少しくらい変わっても応用が利く」
「成る程ねー。私達は三年の時から皆で国試問題を解いてきたんだけど。近頃考えさせるっていう問題が凄く増えてきたの。良い傾向だとは思うけどね」
「ちょっと、あんた達。さっきから本題の方の話しが全然進まないんですけどー」
霞子の声で安幸が、
「それで雪江ちゃんとこは、五人も行って大丈夫なのか」
「ユキんちはね」霞子がようやく自分のベースで説明する。
「日本海の漁村で昔からの網元なの。すっごく大きいお屋敷だから、あなた達が三人ぐらい来ても何ともないって」
「そう言えばK大のOBの何とかが、『噓だろう』っていうほど大きい船を、ユキのパパが持ってる話しをしてたよな。あれって漁船のことだろ」
「それをあいつら大型クルーザーと勘違いしたもんだから、有り得ないって思ったんだぜ」
「漁船にしてもビックリだけどな」
「あいつらが何故勘違いしたか俺にはわかる」
安幸が小声で言って笑う
全員の視線を受けて「雪江ちゃんってお父さんのことパパって言うよな」
雪江を除く全員が「アーッ」と納得の声を上げた。
三年の夏に尚美と霞子も行って船に乗せて貰ったという。
「近くに天橋立があって海水浴場もあるし。民宿をやるつもりで改装してるからホントに気を遣わなくても良いので」という言葉に、それじゃあと三人が腰を上げて駅で待ち合わせたのはそれから3日後の朝だ。
* *
宮津駅で列車を降りる。
駅を出ると黒いアルファードが寄ってきて、如何にも漁師のおっちゃんと言った風情の男が「ゆきえちゃん」と声をかけた。
雪江が「まあちゃん久しぶり」と返事をしたあと「父のお兄さんで伯父の政夫さんです」と言い、皆を紹介した。霞子も尚美も前回来たときには逢っていない。
「みんなは、まあちゃんって読んでるけど……どうしよ。じゃあ政夫さん?て呼ぼうか」
「そんな呼ばれ方するとゾクゾクする。小学生からキャバクラのねぇちゃんまで儂はまあちゃんなんで、やっぱりまあちゃんがええな」
雪江が「じゃあ、まあちゃんさんと言うことで」
そう言って五人を後ろに乗せ、自分は助手席に座った。
「まあちゃん、又、車替えたんだ」
「なにいうてんの。これ、お前の親父の車やから。雪江ちゃんが友達連れて帰ってくるって聞いて買うたのよ」
五人は顔を見合わせる。
「俺達のために!」
「ワゴン車を買うのは民宿を始めるときから決まっとった。客の送迎用にな。
「これ……幾らぐらいするんですか」安幸が室内を見回しながら訊ねた。
「新車がまにあわんよって次郎が目えつけとった中古にした。それで妙ちゃんも納得したようなもんやけどな、それでも四百八十万とか言うとったな。まあここに居る間はあんたらの車と思って自由に使ってくれたらええ」
免許を持っている猛男と冬馬はお互いに指を指して「俺は無理」と言い合った。
「それでパパは今日は何してるの」
どうやら妙ちゃんというのが雪江の母親で、次郎というのが父親だと判ったが、雪江が漁師の父親をパパという違和感が面白かった。
「六日前から漁に出とる。栄進丸を出しよったから大物狙いやな」
「買えば良いのにねえ。最近マグロだって漁獲高が増えてるんでしょ」
「ありゃあ駄目だ」政夫が言下に否定する。
「漁獲量が増えとるのは巻き網漁のせいだ。巻き網漁のマグロはヤケたのが紛れこんどる」
「ヤケって何ですか」
「網に絡まれて
「お嬢さん達はマグロの泳ぐ早さを知っとるかな」
「時速100キロぐらいって聞いた事があります」
「そりゃあ噓だ。だい一、どうやって測った。54ノット(時速100キロ)も出せる船なんかそうあるもんじゃないし、水流も作れん。だが種類にもよるが時速70キロは加速度センサーで確認されている。普段の回遊速度は時速4~5キロぐらいだな」
「それでも早いですよね。凄い筋肉ですね」
「うん。目の付け方がいいな。あんたらも医者になるの?」
「僕らは獣医です」
「ああ、だから筋肉に目が行ったのか。じゃあ筋肉の能力を最大に引き出すためには何が要るかは知ってるね」
突然変わった政夫の口調に五人は唖然とする。
「あっ、まあちゃんは海洋大学出て、そこの講師をしてるから」
「じゃあ先生じゃん。最初に言ってよ」
「だってこんな話になるなんて思わなかったもん」
「ああ、いいよ。説明するわ」
政夫が講師の口調になって説明する。
「マグロの強い筋肉に必要なのは熱だ。 普通の魚と違ってマグロには体温調節機能がある、この熱によって筋肉活動が促進されてあんな速度がでる。熱は水流で冷やされる。
だが巻き網にかかったマグロは激しく暴れて上がりすぎた体温をエラで下げることができない。すると筋肉内の酵素が活性化する。で、筋肉中のタンパク質が変性してまったく旨みのないパサパサの肉になるというわけだ。それでなくともこの時期のマグロは脂が落ちてるからな。そこで次郎は一本釣りで揚げたばかりの黒マグロを血抜きしたあと、マイナス六十度の冷凍庫に入れて、今帰りよる最中ってワケだ。今夜は久しぶりに全員集合だぞ」
「あの家だよね」
尚美が小高い山の中腹に見える家を指で示す。
「『網元』というから漁村の海辺にある家かと思っていた」
「昔からのそっちの家は今、船の管理とか色々な道具を置くところになってるの」
「昔は網やったが今は船と言うわけだな。昔は無線だけが命の綱やったから、あんな山の上に建て直した。太田は三杯の漁船を持っとるが、一杯は船舶検査の関係で陸に上がっとる。一杯は鰹、一杯はマグロで二杯とも今は帰りよる頃やろ。
玄関前がロータリーになっていて着物姿の女性が二人待ち構えていた。
「ママ。只今」雪江が車から飛び降り、女性の一人に抱きつく。
女性は雪江を抱いたまま、「まあちゃん有り難うね」と政夫を労い、「よくいらっしゃいました」と五人に笑顔を見せた。
自分たちの部屋に通された安幸は「お嬢様だなー。圧倒される」と呟き、案内の女性にクスクスと笑われる。
「でも雪江ちゃん優しくていい娘でしょう。あれで、自分が網元の娘だって事、とても遠慮してはるんやわ」
「そうなんですね。えーと、あなたは……」
「あっ私はそんじょそこらに居る漁師で栄進丸の乗組員の娘です。名前はあかり。大学の二年で今アルバイトに戻ってきてます。来週から民宿オープンなんで」
「どうぞごゆっくりなさって下さい」と言ってお茶を取りに行った。
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