第6話  春

「お花見をしようよ」

 雪江がそう言ったのは、染井吉野が盛りを過ぎて、八重の桜が咲き誇ろうとする頃だった。


「だって、私達、この季節になるといつも指を咥えて見てたんだもの」

 6年になってようやく時間が自由になった。だが暇になったわけではない。

 本来これからは10月から始まる卒業試験に向けて下準備をするための時間になる。

 ただ、他の学科のゼミ生や5年のときのように、論文の提出も、課題研究も無いので時間の調整はできるというだけだ。


 それは獣医科も同じだが、冬馬だけは自主研究論文を提出する申請をしているので、皆とは若干リズムが異なるが、それも差し当たっての問題とはならない。

 

「やらなければそれで終わりだ。行動が無いところにはなにも産まれない」 


 安幸はすでに雪江と二人でそんな話しをしていたのだろう。「だから、やろうぜ」と言った。


 猛男が、「賛成だ。院に進むカスミを除いて俺達、ここでの最後の春だしな」と、霞子と目を合わせた後で冬馬に同意を求めた。


 猛男は卒業後、家の動物病院を継いで働き、霞子は四年間の博士課程に進む。

安幸は福井に帰り、地元の動物園で働くことが決まっているし、尚美も地元で研修医をすると言っていた。

冬馬は国試のあと、阪神地区の動物総合病院に就職するつもりでいる。

 そこで老人のペットロスの問題に取り組み、現在取りかかっている論文を完成させた後、経営を学び、父が残してくれた遺産で、動物病院を開業する予定だ。


 大学を出て社会に関われば、自分の時間は極端に制限される。

 六年になった今、やがて仕事という生活の枠組みに組み込まれる直前の、今が仲間と自由を謳歌できる貴重な時なのだ。


 人影の無い掲示板の裏を通るときに、霞子が素早く猛男に「今晩二人で食事をしない?」と打診した。

 霞子が「二人で」と言ったので、猛男も霞子だけに聞こえるように「OK」と言う。

 二人は同じJRの都川線で、霞子がビジネスセンター駅、猛男が二駅先の三子石駅にワンルームマンションを借りている。


 なので二人で食事をするときには霞子の住居があるビジネスセンター駅で下りて店は霞子が選ぶ。

 食事の後は猛男が霞子のマンションの前までを送っていくのが通例になっていた。


 ビールのグラスと酎ハイのグラスを軽く合わせて、「お疲れ」と同時に言って乾杯した。

 猛男はそれきり静かにビールを手酌で注いで黙っている。

 霞子が誘ったのだから話したくなるまで待つ。それが女性と初めて付き合う猛男なりの気遣いだった。

 

「今日、タケちゃんさ、花見の相談したとき、俺たち最後の春だって言ったじゃない」

「ああ」

「考えたら去年は私達知り合ってなくて、ホントにこれが最初で最後なんだって思ったの。そしたら私達ってやること全部が最初で最後なんだって気がついて、すごく申し訳ないことをしたなって思った」

「申し訳ない? て、なにが」


「私達って、初めて会ったあの頃結構忙しくてね,のんびり恋愛する時間なんてなかったの。だからユキが変に焦って、恋愛できないなら、せめて合コンして男の人とデートする雰囲気を味わいたいっていいだしたの」


「うん。まあ、そんな感じだったな」

「それで、疑似恋愛するならあなたたちにしようって言ったのは私なの。理由は獣医と医師は道が違うから、将来まとわりつかれないから安心だし、それにストーカーにもなりようがないだろうと思って」


「うん。それは確かだ。俺達は誰もストーカーになったりしない」

「そこじゃなくて、あなた達に無駄な時間を使わせることになったとしたら申し訳ないと思った。ご免ね。好きにならないことを前提にあなた達を選んだのは私なの。


「俺は無駄とは思わないが、カスミはどうよ」

「私的には、観察なんて感じはもうすぐになくなってて、最初からあなたが良くなってた。しばらくしたらあなたが好きになって。今ではあなたでなければだめになってる……勝手だよね。このままタケで良いかもって感じなんだけど、やっぱりさ、卒業したら恋愛とか結婚を前提とした出会いってものがあるだろうから、それはお互いに経験してみるべきなんだよね?」


「お前……院出たらどうするつもり?」

「正直決めてない。四年先のことなんか。父親は自分と同じ所に勤めてほしいのかな。認知症の研究続けたい気持ちもあるけど」

「お前馬鹿だろう」

 珍しく猛男が辛辣な言葉を投げた。

「えーっ」

 答えようが無くて、霞子がケラケラと笑う。

 

「どうなるか判らないのに恋愛や結婚を前提とした出会いがあると思って、それを口開けて待ってるのか。白馬に乗った王子様なんかいないって、幾つになったら気がつくんだ」

「違うでしょう。私はタケちゃんがもっといろいろな経験をすればいいと思って…………」

 猛男が霞子の肩を掴んで引き寄せて口で口を塞いだ。

 二人にはもう何度目かのキスになる。

「四年待つ」と、猛男が言った。

「お前が卒業する四年の間に恋愛対象者が現れなければ俺の所にこい。臨床医でも研究医でもやらせてやる。俺は今更他の女と面倒くさい恋愛をする気はない」

「わかった。時々逢いに行くかも知れないけどいい?」

「勿論だ」

「有り難う。そう言ってくれて。これで何とか四年間頑張れそうだ」

 猛男が霞子の手を取って、愛おしそうに指を絡めた。

「タケ。一つお願い」

「いいぞ」

「ものを食べてるときのキスはやめて」

 

* 

 

「どうするんだ」猛男が安幸に訊き、安幸が皆の顔を見る。 

驚いたことに六人のうちの、だれ一人として桜の下での所謂花見らしいものをしたことがなかった

「じゃあ今回は私に任せてよ。東キャンパスの池のほとりで上等じゃない。私らだけでなく皆でやろうよ。大きなシートを敷いて。お弁当とか持ち寄ってさ。他の女子も誘って、お洒落もうんと楽しもう」そう言ったのは尚美だった。


 東キャンパスの池のほとりは染井吉野と八重桜が交互に植えられているので、桜の時期が長い。

 その間一般の人達のほか、学生協も屋台を出して賑わうのだが、ただしバーベキュウなどの火を使う道具は持ち込まない。ゴミは持ち帰って処理、過度の飲酒はしないのがルールだ。 

飲み物は自分で好きなものを持ち込みとしたので、未成年の飲酒を防ぐために『4、5、6年の有志』として、会費制で仕出しを頼むことになった。

 結局蓋を開けてみれば、参加者のほとんどがスキーの時のメンバーだ。

 今回も佐藤医院のOG、OBが参加してくれて、多額のカンパをしてくれたので、高級仕出し弁当が半額近くで全員に配られることになった。

 

 春爛漫の東キャンパスに、花と競うかのように現れた華やかな女子学生達は、舞う花びらも恥じらう美しさで男子学生を魅了した。

 医科の五年生男子が、黒田節を歌いながら剣舞を舞って、拍手喝采を浴びた。


 尚美は今回も佐藤ファミリーの中に混ざり、小学生の娘と、ふざけてもつれ合っている。

「まあ、気持ちは判るがナオのお陰でこの仕出し弁当があると思って我慢しろ」

「そうだよー。代わりに私達が慰めてあげるね」

 霞子と雪江がふざけてハグとは違う抱きつきかたをしたので、ナオにもそんなことされてないのにと喜ぶ冬馬に、大ブーイングが湧き上がった。

「罰ゲーム」

「なんかやれ」と言う声に、逆立ちして、凡そ十畳半のブルーシートを一回りした冬馬が拍手されると、腕に自信が有る者たちの逆立ち競争が始まった。


 女性達はアイドルグループの歌を振りを付けて歌い、一般の花見客の眼を釘付けにしたあとで、いつのまにか練習したのだろう。尚美が女性達を並ばせて木の枝をタクトにして、古い歌を合唱した。

春の日の 花と輝く

麗しき 姿の

いつしかに あせて移ろう

世の冬は 来るとも

我が心は 変わる日無く

御身をば 慕いて

愛はなお 緑いろ濃く

我が胸に 生くべし


若き日の頬は 清らに

わずらいの 影なく

御身いま あでに麗し

されど おもあせても

我が心は 変わる日なく

御身をば 慕いて

ひまわりの日をば 恋うごと

とこしえに 思わん


愛はなお みどり色濃く

我が胸に 生くべし

*注……


 足を止めて聞き惚れていた人達が共に拍手する。

 猛男が「初めて聞いた」と、言うと安幸が「だからだったのか……」と、雪江達に何日か会えなかった理由を知り、頷く。

 戻ってきた三人を改めて拍手で迎え、冬馬が「良い歌詞だな。俺は最初の1小節が一番良いな」そう言って、皆で馴染みになった雪江の酒を酌み交わした。


 風に桜花が舞い、盃に花弁が浮かぶ。

 舞う花の香を凌駕りょうがする女性の馥郁ふくいくと立つ花の宴に、だれもが皆、狂おしい程の至福の時の流れに身を委ね、酔い痴れて春が過ぎた。


*注……春の日の花と輝く (原題:Believe Me, If All Those Endearing Young Charms) 《訳詩:堀内敬三》

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