第3話   インターン 

 尚美が北の剣道場に通うようになり、しばらくしてから尚美、雪江、霞子の三人が学食で顔を合わせた。

 この前のK大生が詫びを入れてきて、今度はちゃんとした病院勤めのOBも連れて行くからという、合コンの打診についての相談だ。


 雪江の父が持っているという四百数トンの船舶についても、どうやら噓ではないと結論づけたようだが、雪江が漁師の網元の娘で、その船がマグロ漁船だということまでは、情報を掴んでいないようだ。

「僕と付き合ってくれたら、雪江さんのパパのお手伝いができる」と伝えろ。などと言っているらしい。 


「でもね、あいつら頭は良いんだろうけど、人間性ってものがなってないんだよね。見切ったなって感じがするのよ。どうせ観察するのならあんな女に餓えた軽薄男より、特定の男性を詳しく観察した方がより正確に、生態まで知ることができるのではないかしら。獣医の彼らなら私達とは分野が違うから、卒業したら別れざるをえない。将来まとわりつかれるリスクも無いから安心だし。因みに私はたけちゃんさんって呼ばれていた人がいいかな」

 霞子がそう言うと、雪江が、

「賛成。じゃあ私はやっさんがいいのでナオは剣道仲間になった冬馬君から二人の連絡先を聞き出すか、場所と時間をセットして」

 

 結局、雪江は安幸と、霞子は猛男を観察という名目のもとに交際することになり、四人が集まる場に冬馬と尚美も自然に組み込まれて、医科の女性3人と獣医科の男性3人の、異文化交際が始まった。


 北の剣道場から近いこともあり、冬馬と尚美は練習後よく連れ立って居酒屋に行き、そこで夕食を摂った。


 冬馬は道場に併設されたシャワールームで汗を流し、道着を洗って干した後、尚美のマンションの非常階段下で指笛を吹く。


 すると着替えた尚美がエレベーターで下りてくるのだ。

 その日その日にエレベーターの扉が開いて現れる尚美のファッションは、センスとコーディネートが絶妙でいつも冬馬に感嘆の声を上げさせた。

『綺麗だ』『可愛い』などの言葉でその都度尚美を褒める冬馬は、尚美がジャージで現れた時でさえ、「こんなにカッコ良くジャージを着こなせる女性を初めて見た」などと本心から言うものだから、尚美は普段着でさえ手を抜かなくなった。 


 居酒屋では尚美が『学生のための大盛りメニュー』の中から海鮮サラダを注文して、冬馬の注文する焼き肉定食を分けながらビールか酎ハイを飲む。そんなルーチンが日常のなかに組み込まれていった。


 尚美は頬がほんのりと赤みを帯びると「冬馬。何か面白い話しをして」と、子供のように話しをねだる。


 そんなとき、冬馬がよく話しをするのは姪っ子の、中学生らしい真っ直ぐな視線で見た、世の不条理だ。

法の矛盾に縛られた大人の姿を突きつけて慌てふためく大人の姿を斜めから冷ややかに見ている。


 前回話したのは冬馬が大学一年の夏休み、姪を競技場まで送っていったときのことだった。

 

「そのとき姪っ子は中学2年生でさ、テニスのナンチャラ大会があり、それに出るんだって言ってきた」


 どうでもいい試合ではないらしいのに、時間観念が適当な姪に、「遅れちゃうよ」と泣きつかれて送っていった。

 時間が無いというので下田川の堤防を走った。この道は橋のたもとに一時停止の標識がある。

 見通しの良いところなので前も左右にも車が居ないことは判っているのだが相手は優先道路だ。 方向指示器を出し、一時停止をしてから、おもむろに左折した。

 すると「トウマ」と声がかかった。姪は冬馬のことをトウマと、トの音を低く発音する。そこには年長者に対するリスペクトの欠片も無い。

「さっきなんで止まったの。他の車なんか居なかったのに」と言う。

「そりゃあ一時停止しなさいという道交法の標識があったからだ」と、真っ当な返事をした。

「でも他の車居なかったじゃ無い。一時停止ってさ、左右の安全を確認するために一旦止まりなさいってことでしょう。あんなに開けてて見通しが良くて他の車が居ないことが判って安全が確認出来たのに止まったせいで遅刻したら、私泣いちゃうよ」


 少女よ。例えお前が100リットルの涙を流したとしてもあの標識は撤去されないだろう。したがって私が一時停止を無視することはないし、お前が遅刻したとしても一時停止のせいではない。「遅刻罪」は全てお前に原因がある。(これは心の声だ)


「大丈夫。あそこで遅れた時間ぐらい、すぐ取り返せるから」

 そう言って加速するためバックミラーを見ると、いつのまにか後にパトカーがついてきている。しかもその時走っている道路は学校地域で速度制限が30キロだ。

 今日は日曜だ。小学生の姿は無い。道路の安全は確認出来る。しかし後にはパトカーがついている。


「ねえ。トウマ。マジ遅れるよもっと早く走って」

「いや。今、うしろにパトがいるだろ。これで加速って無理だから。大丈夫あいつらすぐにどこかへ行くから」


 しかしパトは何処までもどこまでもついてくる。えっ俺何かやったか。もしかしたら一旦停止見張られていた?停止時間が短かった?若しスピード出したら速攻検挙するつもりとか。

 俺の後にはパトカーが居てその後には五~六台の車が連なっている。


「じゃあトウマは砂漠の真ん中に一時停止の標識があったら止まるんだ。信号が赤だったら原っぱでもずっと止まってるんだ」


 いよいよ泣きそうな声で言う。「まるで馬鹿じゃん」

 一瞬ムカッとした。あの頃は俺も青かった。


「そりゃあ、そんなとこに信号や標識があったら、勿論とまる――どころか、降りて周りを見回すぜ。だって珍しいもの。なぜそんなとこに標識や信号があるのか知りたいもん」


 とうとうパトカーは競技場までついてきた。つまり、大会を警備に来たお巡りさんだったのだ。

 姪は車から降りるとお巡りさんのところに駆け寄り「警察なんか大っ嫌い」と叫び、べそを掻きながら駈けていった。


「まあ帰りにアイスでも食わせておけば機嫌は直る……」

「はずがないでしょう。そんなもので」

  尚美が時間を超越して姪の味方をする。


「だな。なんとかってパフェを二つも奢らされた」

 と言うのが前回の話しだった。


「姪っ子ちゃん、こんな叔父さんで可哀想だったね」  


「今回は、姪のシリーズから離れて、参考になる話しをするつもりなんだけど、聞きたくないんだな」

「ほうほう、聴いてやろうじゃないか」

「あのさ、医師免許取った後でMI(メディカル・インターン 研修医)をするだろ」

「するね」

「それをアメリカの海軍病院でやった人がいる。ドクターとどろき、今はハワイで評判の開業医してるけど」

「ほうほう」

「ある機関誌に寄稿していた彼のMI時代の話し。どう?」

「うん。聴かせて」

 尚美が冬馬のグラスにビールを注ぐ。

 冬馬はビールを一口飲んで、小さく咳をする。

「彼は病院からの通知に従って、指定された時間ピッタリに指導医の部屋を訪れた。指導医は、『先ず君の時間に対する姿勢は合格だ。次に語学力をテストさせてくれ』と言って六角形の鉛筆を転がした。その鉛筆は一面だけ塗料が剥がされていて、そこにはStrike while the iron is hot(鉄は熱いうちに打て)と書かれていた……と思った。鉛筆は転がっていて、しかも一回だけだったからね」


「簡単だわ。日本人には馴染みの諺だから、最初のストライクとWだけでワードが推測できるじゃん」

「彼も瞬間的にそう思ったらしい。でも、そんな簡単なテストであるはずがない。そう思い直して目を瞑り残像を思い浮かべた。すると最後のhotがnotになっているように感じたので、その事を言った。それで、まず二週間そのドクターの指導を受けることが許された」


「そうか。動体視力ではなく注意力の問題だったのね。思い込みの弊害というか」

「そういうことだ。その指導医はDr、Ken(ドクターケン)と言って、ベース以外でも高名な人で、彼の指導を受けた医師は皆、実力派の名医と言われるようになっている。

それで轟青年は、何としてもこの二週間をクリヤして、二年間、彼の元で実力を付けようと決意した」


「じゃあ次の二週間もテスト期間ってこと?」

「そうなんだね。で、ケンは、教えることが解らなければそのときに徹底して聴いて覚えろ。それは恥では無い。そして昨日教えたことを聞き返すな。教えることは山のようにあるから、それを蓄積して強固な形にしろ。振り返る暇など無い。というのがケンの指導方針だった」

「ハードだね」

「いや、ハードの入り口だな。米軍の訓練ってさ、実戦を踏まえて訓練するから、大怪我が絶えないらしくて、演習が始まると日に何度も怪我人乗せたヘリがくるときがあるらしいんだよ。その傷を的確に見抜いて素早く処理することで、命が助かったり身体の機能を失わなくても済む訳だから二十四時間緊張の途切れることがないらしい」


「しんどいね。でもそれは、日本の救急医療現場でも同じじゃないの」

「傷の大きさと数の違いだろうな。だけどケンのMIには二十時から翌朝五時まで自分の時間が与えられる」


「九時間の自由かあ。私だったら寝て終わりかしら」

 冬馬がニッと笑った。

「甘い。九時間も寝られるわけがない」

「えっ、それは判るよ。身体洗ったりのセルフケアもしなきゃいけないってことでしょ」


「それから、その日立ち会った全ての手術のレポートを書いて、チェックを受ける。要点を掴んでないと何度も書き直しをさせられる。おまけにその頃、縫合糸を渡された。この糸に千の結び目を作って翌朝私に見せろと」


「虐め?」

「インターン轟は、そうは思わなかった。とにかく言われたことをやろう。そう考えて、正確に千の結び目を作ってそれを見せた。ケンはそれをチラリと一目見ただけでOKだと言った」

「折角頑張ったのに数えもしなかったんだ」

「だけどその晩もまた糸を渡されたので轟青年は考えた。あんな見方をするのなら今日見せた糸を明日も見せればいい。そしたら少なくとも今日は二時間は余計寝る事が出来る」

「うん。私もそうする」

「駄目だ。できない」

 冬馬がまた笑った。

「ケンが『忘れていた』と言って、轟を呼び止め、『朝見せた糸をもう一度見せてくれ』と言った。手に取った糸をケンはライターで燃やしたってさ。『こうしとかないと、君が間違えて明日もこれを見せるかも知れないからね』そう言われてインターン轟は自分を恥じて、誠実な真の医師になろうと心を決めたらしい。千結びはその後も続けられて、最終的には新しい結び方も考案して半分寝ながら、片手で1ノットだけなら三秒。それをそれぞれ両手で結べるようになった。というのが序章。ナオにもその、『ズル』を恥じる心があれば、いい医者になれるだろうにな」

 

「凄い。頑張ったんだね。でも私、神経科医だから縫合しないもん。それに裁縫とかユキと同じくらい、チョー苦手だし。冬馬こそ見習って練習したら良いんじゃないかな。動物の皮って固いんでしょ。革の鞄修理させたげようか」

 冬馬が手をグウ、パッと開いてみせる。

「手先の訓練にはなるな。実際の縫合には持針機とピンセット使うし、人間には真皮と表皮の二層縫合が主流になってきてるから、手先のほかに腕も鍛えなくちゃってことだけどね」

「それに冬馬達は動物の毛を剃ることも練習しなくちゃいけないよね。馬に蹴られないように気をつけてね。あっ。馬とか鹿とかは仲間だから大丈夫か」

「俺達は蹴られない方法知ってるんだよ。ナオこそ気をつけろよな。馬に蹴られたって、文句言っていくとこなんかないんだぞ」


 二人はテーブルの下で秘かに蹴り合いを始めていた。


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