私が幸せになるために

赤雪 妖

第1話  学生通り

 学生通りという通りは無い。

 それは、大学の北門から農学部のフェンスに沿って東に向かう通りの俗称だからだ。

 

 北門から出た西の先には車止めがあり、バイクぐらいしか通り抜けできない。

 だから、北門から大学に入る関係車両の他にこの道を通る車は殆どない。


 フェンスに沿った歩道と二車線の車道を挟んだ塀の向かい側には、学生達が好みそうな洒落た喫茶店やファッション関係、イタリアンの店が立ち並んでいて、時間によっては登下校の学生や部活のユニホーム姿の色とりどりの学生達が、歩行者天国並みに車道にも溢れるので、そう呼ばれている。


 学生相手のマンションも幾つか建ち並び、尚美なおみの住んでいたマンションもこの並びにあった。

 

プラタナスの葉が格好の日陰を作る歩道は、影と木漏れ日のきらめきが美しいので、多くの店が歩道に椅子とテーブルを置いて、自由に使わせている。


 三年ぶりにこの道を通る小野冬馬おのとうまも、通りの東端でバイクを降りて、塀沿いを押して歩くことにした。

 

尚美と初めて会ったのは、丁度バイクを降りた辺りで店を構えている、チェーン店の居酒屋だった。


 その居酒屋は近くに駅とバス停があるせいで、学生や勤め帰りのサラリーマンで毎晩よく賑わっていた。


 あの日――冬馬達三人が座る掘りごたつ風六人掛けのテーブルに、店員が相席を頼みに来た。

「ああ。いいですよ」

 宮路猛男みやじたけおという男が気軽に答えて三人は席を詰めた。


「済みません。有り難うございます」と言って、店員に案内されて来た三人の女性のうちの一人が尚美だった。


 初めは双方とも遠慮をして、内輪の話を小声でしていたが、テーブルの真ん中に置かれている、醤油やソースなどの調味料を遣り取りしてるうちに猛男が声をかけた。


「失礼ですけど、ウチの学生ですか?」

 ウチのというのは、宮路だけがこのあと電車で帰るので、校章の付いたパス入れを持っていて、それを見せたからだ。


一見して化粧や服装のせいで高給取りのOLに見えるが、話しの端々で学生である事がわかる。


「そうですけど」

 近くに他の大学は無いのだから、学生なら必然的に『ここ』の学生に決まっている。

 そんな険のある響きを含んだ声を一人が返してきた。


 続いて「3人とも医科の5年です」と幾分柔らかな返事が追いかけてきたが、明らかに『5年』を強調して、上級生を意識している。

 5年と聞いた宮路の声が馴れ馴れしくなった。


「折角同じテーブルを囲んだのだから、名前ぐらいは名乗りませんか。俺らナンパとかしないんで安心して貰っていいんで」


「いいですよ。私がカスミ、この子がナオ、彼女がユキです」

 女性達は合コン慣れでもしているのか、手早く必要最小限の情報を提示した。


「有り難うございます。じゃあウチは彼が小野冬馬。獣医学科5年です。普通にトウマって呼んでるよな。俺達の作戦参謀。趣味はカメラ……あれ? お前、山とスキーの他に趣味とかあったっけ」


「冬馬です。まあ、趣味は写真とか沢山有りますけど、チームプレイの球技が苦手です。で、彼が田中安幸。ヤスとかヤっさんとか呼んでます。彼の趣味はサッカーを見ること、登山。性格は温厚誠実。だな」


「どうも。ヤっさんですがヤクザじゃありません。同じく獣医科5年。で、さっきから色々言ってるこいつが同じく獣医科5年の宮路猛男。タケとかタケちゃんって呼んでる。性格は親分だな。頼りになるし。こいつの趣味は山とスキーとテニス。ゼミ生」


「分かったわ。じゃあ固まってないで隙間を空けてよ。交互に座ろ。これで自分らだけの話しは出来なくなるでしょ」

 全員が同学年だと知り、急にタメ口になったナオがそう言って、冬馬と猛男の間に座った。

 カスミが猛男と安幸の間に座り、ユキが自然に安幸と冬馬の間に座ることになった。

 

 ナオがリュックを冬馬のバッグに寄せたとき黄色い紙のチラシを見つけた。

「ねえ、これ見て」ナオがリュックから同じチラシを取りだして冬馬に見せる。


「おっ。同じだ。県大会見に行くの?」

「今回は高校の後輩が出るから応援に行くわ。そういう冬馬君はどうするの。剣道好きなの? 高校の時やってたとか」

「いまもやってるけどね。俺は今回は行かないつもりだけど、てことは君もやるんだ」

「あなたも今もやってるって。でも、道場で見たことないよね」

「そりゃそうだろ。俺達の道場は北門の奥だし、君らの道場はキャンパスの南の果てだもん」


「えっ。知らなかったあ。道場が二つあったなんて。五年もいて初めて知った。しかもウチに近い方にあったなんて」

「名前もね。北は剣道場。南は武道場だろ」


 カスミが、

「最初に言っておきたいんだけど、会計はワリカンでお願いしたいの」と言った。


「注文は四人前ずつ。それを六つに取り分ける。飲み物は各個人で。私達、女だからと言って優遇されたくないの」

「分かった。じゃあ俺達の分はこれで会計閉めるので」

 了解して乾杯した。


 安幸がユキの銚子を取り、「日本酒なんだ」と言って酌をした。

「ちゃんづけでもいいかな。ユキさんよりもそんな雰囲気なので」

「正しくは雪江なんです。だから、ちゃんの時はゆきえちゃんが今までの呼ばれ方。あなた達が名前を言ってくれたので私達も言いますね。ナオは藤本尚美ふじもとなおみ。カスミは山下霞子やましたかすみこ。そして私は太田雪江おおたゆきえです」


 共通の話題を探した。


 雪江が「獣医科って何やってるの」と、安幸に訊いた。

「今は豚に酒を飲ませてる」

 三人の女性の顔から、表情が消えた。

 安幸が地雷を踏んだ瞬間だった。


「何それ」

 氷のような声で雪江が言った。

「何って、言ったまんまだけど。豚の餌に酒粕を混ぜると肉が美味くなる。これはストレスが無くなるためだ。という研究成果を農学部が出した」

 猛男が継いで言った。

「それで俺達は、手っ取り早く、餌の時、酒を飲ませたら良いんじゃないかって。 勿論、最低の安酒で、しかも薄めた状態で少しの量だけど。農学部とのコラボでね」


 猛男は「ヤスが何か失礼なことを言ったのか」と冬馬と顔を見合わせる。

 立ち上がりかけた三人の女性が、「ふうっ」と息を吐いて座り直したとき、三人の男性達も「あっ」「まさか!」と言って顔を見合わせた。


「ごめん。ユキエちゃん。言い方が悪かった。誤解だから」

 安幸がしどろもどろで弁明する中、冬馬が「ゆきえちゃんさあ、それって逆にヤスに失礼だよ-」と言った。

「ヤスみたいに真面目な奴がさあ、こんなに可愛い子にそんな例えするわけねーじゃん」

「あっはい。ごめんなさい。私達今日はどうかしていて」

 ユキが両手で顔を覆った。

 

「泣かせたっ」尚美が冬馬の頬を叩いた。

「痛っ。てー。なんで俺よ」

「ごめんねー。なんか手が勝手に動いたのよ。ヤス君や君達が誠実だなんて私ら知らないもんね。文句があるならこの手に言ってね」

「叩いた手をひらひらと冬馬の前で振って見せる。


 霞子が「私達、さっきまで合コンしてたの」と言った。

「K大の奴でね、中にOBが一人居て、そいつがユキに目を付けたの。お持ち帰りしようと魂胆見え見えで」

 尚美が相槌を打つ。

「酷かったよねぇ。高学歴自慢。車の自慢。マンションの自慢。船持ってます自慢。それでユキが最初は話しを合わせたのよね」


「そう。パパも船持ってますよって。どんな船って訊くから、良く知らないけど大きさは四百何トンとか言ってました。って。そう言ったら、うそつけって」

「だからね、ナオとふたりで噓じゃ無いですよって言ったのよね。私ら三年の時乗せて貰ってたから」

「そう。調理室も食堂も個室もベッドもトイレも付いてて……って言ったら、なに見栄張ってるんだよって」

「だから、はっきり断ったの。電話もアドレスも交換して頂かなくて結構です。だから噓も見栄を張る必要もないんですってね。まあ、合う前からそんな気なかったけどさ。でもユキ、面と向かって言ったから偉かったと思う。そしたらさ、そいつ切れて後輩達に当たり始めて」


「そこで言ったのよ『なんだお前らは。俺を豚に酒を飲ませるために呼んだのか』ってね」


「私、豚さん好きなのよ。でもそいつは豚を最低の汚い動物という意味で使ったから余計許せなかった」


「そんなわけで、飲み直そうとしてここにきてあなた達と出会った。そしたら、ユキが酒を注がれて、豚に酒を飲ませてると言われた。どう思いますか。冬馬君」


 猛男が「ひでえ」と呟いて何か言い出そうとしたが、尚美が冬馬を指名したので、皆が冬馬の顔を見る。


 冬馬は「クスッ」と笑い「すげえ」と言った。


「もうビックリした。こんなに可愛いくて、スタイルの良い女の子を豚と言える人間がいるんだ」


 安幸と猛男が改めて雪江を見て頷く。

「まったくだ。冬馬の言うとおりだよ。俺なんか初めて見るレベルの美人だもん」

「ヤスの言い方、今度は美術品ほめてるみてぇだ」

 猛男が冬馬に同意を求めて、 

「高学歴のくせにそこまで品性が無い野郎も初めてだけどな」

 見知らぬ男をけなし始めた。

 冬馬が、

「それにしたってさあ、車やマンションの自慢って、設計した人や作った人が自慢するなら分かるけど……なあ」

「そうだよ。使わせて貰う奴が自慢って、馬鹿すぎるだろう」

 猛男は見知らぬ相手には容赦が無い。


「そうか。そうだよね。あなた達の考え方ってすごくいいと思う。立派なのは作った人。私達は使わせて頂いてる」

「じゃあ船持ってるのはあれだな。自分で作ったいかだとその免許じゃないか。それなら自作を自慢出来る」

「それ、絶対沈むと思うぞ」

 ユキがまた両手で頬を包み、今度は「ふふっ」と笑顔を見せる。

「嬉しい。そこまでハッキリ美人とか、可愛いって言われたの初めて」 

 クスクスと笑う声は徐々に高まり、つられて、やがて皆の弾けるような爆笑になった。





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