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頬に当たる風は柔らかく、蕾も花開く季節。
空は晴れ渡り、散歩をするには最高のコンディションだ。そう、のんびり散歩をするのなら。
ビルが林立する街中から何本もの電車を乗り継ぐこと四時間。さらにそこから歩く事三十分。
長く緩やかな坂道を、
目的地はこの道の先、小高い丘の上に建つ小さな一軒家だ。そこは晴がまだ小さい頃に、祖母と両親と過ごした家。仕事で家を空ける事の多かった両親に代わり、ほとんど祖母に育てられたような晴にとっては、祖母との思い出が多く残る場所でもある。
駅周辺の住宅街から少し離れている事もあり、周りに灯りが少ないこの場所は、夜になるとたくさんの星が見える。年に何度か流星群のニュースが流れると、祖父が昔使っていたらしい天体望遠鏡を持ち出して、祖母の淹れてくれたホットココアを飲みながら、毛布に包まって一晩中星空を眺めていた。
両親の仕事の都合や通学のしやすさなどを考えて、高校への入学を機に街中へ引っ越したけれど、長い休みの度に一人で遊びに来ては、祖母といろいろな話をした。
いくつもの想い出が刻まれた家も、昨年祖母が亡くなってからは誰も住んでいない。けれどこの春からは晴が暮らす予定だ。
大学の入学準備の為、そして何より憧れのあった一人暮らしの為に、高校の卒業式の翌々日である今日、「そんなに急がなくてもいいんじゃない?」という母の声に笑って手を振り、大荷物を引っ提げてやって来た。
家具や家電はあるものをそのまま使う予定なので、荷物の大半は着替えで占められている。
「日頃の運動不足の解消になりそう」と前向きに出発したものの、元気があったのは最初だけ。緩やかな坂道に差し掛かってすぐに、我が身を以て体力の低下を思い知らされた。歩く度に荷物も足も重く感じて、気分はさらながらちょっとした登山だ。
こんな事なら「着替えくらいなら大した荷物じゃない」なんて高を括らず、素直にタクシーをお願いすればよかったかもしれない。
けれどそのタクシー代で新しい服が二着は買えると思うと、やっぱり歩く事を選んでいただろう。
心許ない軍資金とこれからの事を考えると少しでも節約しておきたい。
新生活は何かとお金が掛かるものである。
「あと、もう、ちょっと……」
坂の終わりが見えてきた。ゴールが見えると足取りも少しだけ軽く感じられる。
はっきりとはわからないけれど、誰かに呼ばれている気がした。だから少しでも早くここへ来たかったのだ。
そんなこんなでようやく玄関先に辿り着いた時にはすっかりくたくたになっていた。
ドールハウスを思わせる洋風二階建ての外観は今見ても可愛らしく、記憶の中の姿と変わりない。
「ただいま」
鍵を取り出し玄関の扉を開く。「おかえり」と返してくれる相手はいなくても、懐かしい香りが、ふわりと包み込む空気が、変わらず迎えてくれた。
ここに来るといつも不思議と心が満たされるような、とても落ち着いた気分になれる。人生の長い時間を過ごしたからだろうか。懐かしい故郷に帰ってきたような気持ちが込み上げてくるのだ。
昔、祖母がよく座っていた入ってすぐのリビングにあるソファに倒れるように座り込むと、ちょうど目線の先の棚の上に、晴が小さい頃からの写真がいくつも飾ってあるのが見えた。
幼稚園の遠足、新しいランドセルを背負った姿、小学校の学芸会、まだ補助輪の付いている自転車に乗って練習しているところ、中学の球技大会、高校の修学旅行に、家族みんなで撮ったものまで。
写真を見ると、その時の記憶も蘇ってくる。
今このまま寝たら懐かしい頃の夢を見られるかもしれない。程好い疲れもあって、眠気に誘われるまま、ソファに深く体を預けた。
* *
「……くしゅん!」
肌寒さを感じて目を覚ました。来る時には高い位置にあった太陽は姿を隠し、月が夜の闇をぼんやりと照らしている。
ずいぶんと長い昼寝になってしまった。夢は見たような気がするけれど、よく覚えていない。ただ曖昧な記憶の中で、誰かに優しく名前を呼ばれたような気がした。
ソファで寝ていたからだろう。首が変に凝っているし、どことなく体も痛い。指先を組んで背中を伸ばすと、じわじわと血が巡っていく感覚がして気持ちがいい。そのままゆっくり全身を解した後、小さく気合いを入れて階段を上った。
二階には晴が使っていた部屋がある。荷物のほとんどは引っ越しの際に運び出してしまったけれど、泊まりに来た時にはこの部屋を使っていた。
前に来た時からしばらく経っているから、簡単な掃除くらいは今日中に済ませておいた方がいいだろう。
扉を開けて真っ先に目に入るのは、少々無理を言って設置してもらったアップライトピアノ。
何かを弾く度に褒めてくれるのが嬉しくて、そして何よりピアノを弾くのが楽しくて、時間があればしょっちゅう触れていた。
「わぁ、懐かしい!私を呼んだのは君だったの?……なんて、流石にそんなわけないか」
聞いたところで答えが返ってくる筈もない。
ここへ来た目的を瞬間忘れて、艶のある蓋に触れる。うっすらと積もる埃にも月日を感じながら重量感のある蓋を開け、臙脂色の鍵盤カバーを取ると、人差し指を鍵盤に乗せた。
ポーン――。
柔らかく済んだ音が部屋に響いて空気に溶けていく。懐かしい音色。余韻が消えるのを待ってから、続けて今度は音階を鳴らしてみた。
ポロロロロン――。
しばらく振りに触れたけれど、指が感覚を覚えているようで、思いの外滑らかに動く。
ピアノは祖母に教わった。若い頃ピアノ講師をしていた祖母は、引退してからもずっと趣味でピアノを弾き続けていた。そんな祖母と暮らしていたから、晴も自然とピアノを弾くようになった。
時には一人で、時には一緒に、またある時には祖母のピアノに合わせて自由に歌った。
あの頃は毎日楽しくて、そんな時間がずっと続いていくものだと思っていた。
ちょっとだけのつもりだったのが、気付けば昔のように夢中になって弾いていた。
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