第45話 ヲネの温度
「カナタ……」
「いま誰かと俺のこと話してた?」
誰もいない部屋で立ち尽くす姉の姿をみて、カナタは不思議そうな顔で言った。ベッドの上にいるヲネの姿は、やはり彼には見えていないようだ。
「ううん、誰とも話してないよ」
「ぜったい嘘だ。だって廊下で俺の名前が聞こえたもん。誰と話してたの? もしかして彼氏?」
「違うってば、そもそも彼氏なんていないし……」
「じゃあ誰?」
困ったような顔をするコヂカをヲネはニヤニヤしながら見つめた。
「えっーと、神様」
「なにそれ、バカにしてんの」
「このシーグラスと丸石の神様に、カナタがずっと幸せでいられるようにお祈りしてたの」
コヂカは机の上にシーグラスを戻し、丸石の横に並べて言った。そんなコヂカにカナタは若干引いたように
「えぇー……」
と顔をしかめると、
「てか、それ昔、裏山で拾った石じゃん。まだ持ってたんだ」
とあの日を懐かしむように言った。コヂカはこれが偽りの記憶だなんて未だに信じられなかった。
「うん、なんか気に入っているから手放せなくて」
「やっぱり姉弟なんだね。俺も部屋に拾ってきた石がたくさんあるもん」
「そうなんだ。見してよ」
「いいけど……」
カナタが嬉しそうに歯を見せると、玄関で音がした。仕事に出ていた父と、父を迎えにいっていた母が帰ってきたようだ。慌ただしくスーパーで買ってきた食材をリビングに置いて、二階にいる2人を呼んだ。
『コヂカ、カナタ。ご飯にしましょう。遅くなっちゃって、ごめんね』
コヂカとカナタはすぐさま母の声に返事をし、一階に向おうとする。カナタは得意気に、
「石はまた今度みせてあげる」
と言って、コヂカより先に一階へ降りていった。ヲネは2人なったところで、自分を置いてリビングに降りようとするコヂカを呼び止めた。
「『トレード』の魔法。本当にキャンセルするのね?」
「うん。でも今日一日だけ、待ってもらえないかな。最後に一回だけ、カナタも含めた家族4人で過ごしたいの」
しかしコヂカの切なる願いを、ヲネは叶えられそうもないと首を振った。
「悪いけどそれはできないわ。もう時間がないの」
「時間がないって?」
「魔法をキャンセルするためには、すべて魂を元通りに集めないといけない。カナタの魂はこっちにあるけど、シオンの魂が手元にない。生贄になった彼女の魂は体と分離されて、今は巷ちまたを漂っている。いわば野良の魂になっているの。そうした野良魂は一週間もすると輪廻から外れて、完全に自我を失った亡骸になる。それをヲネたちエコウは、『雫』としていただいてるの。まだシオンの魂には自我が残っているみたいだけど、今晩あたり『雫』に変わってしまってもおかしくないわ。一度、自我を失った魂はもう二度ともとには戻らない。あとはどこかのエコウに食べられてしまうだけ。そうなれば、ヲネたちの魔法を使ってもシオンを取り戻すことはできない。タイムリミットが来る前にシオンの魂を見つけ出さないと、残念だけど手遅れになる」
「それっていつなの?」
「おそらく持って、明日の朝まで。でも野良魂はいっぱいいるから、この街にいたとしても、見つけられるかどうかはわからない。それから……」
ここまで淡々と話していたヲネが少し口を閉ざして、何か思うように目を瞑った。そうしてまた話を続けた。
「それから、魂の捜索にはね、物凄く大量の魔力が必要になるの。ヲネ自身と、そのえんじ色のシーグラスの魔力をすべて使い果たしてしまうくらいには」
「えっ、そうなったらクリヲネちゃんは……」
「大丈夫、心配しないで。ヲネはエコウとしてまた別の世界に生まれ変わるだけだから。でも悲しいけれど、コヂカちゃんとはもう二度と会えなくなる。シーグラスが消えてしまえば、コヂカちゃんはヲネのことも、3つの魔法のことも忘れる」
ヲネは切迫した表情でコヂカに真実を語ると、ベッドの上から立ち上がって問いかけた。
「それでもキャンセルする? シオンの魂を見つけ出せる確率はとてつもなく低い。シオンを救えても救えなかったとしても、コヂカちゃんはもう二度と魔法を使うことができなくなる。それにシオンを救い出せても、大切なカナタの魂は輪廻の果てへと消えていく。コヂカちゃんの求めていたものが何一つない、いままでの生活に戻るのよ。もう透明になったり、都合よく何かを消すこともできない。それで、本当にいいのね?」
真剣な眼差しのヲネ。残酷な選択には違いなかったが、コヂカの答えはすでに決まっていた。
「うん、それでも構わない。シオンの魂を探しにいこう」
そしてそう言い切ったあとで、コヂカはヲネに優しく触れた。
「クリヲネちゃんに会えなくなるのは、ちょっと寂しいけどね」
「コヂカちゃん……」
ヲネの身体はとても冷たく、まるで冷蔵庫の野菜室に眠っている青果のようだった。
「今までいろいろありがとう。私がクリヲネちゃんのことを忘れてしまっても、クリヲネちゃんは私のことを忘れないでね」
コヂカの言葉にヲネは顔を赤くした。
「魔法をキャンセルしたいって言いだしたのは、あなたがはじめてなんだから忘れるわけないでしょ」
「そっか。私ね、クリヲネちゃんからたくさんのことを教えてもらった。恩返しってクリヲネちゃんは言ったけど、クリヲネちゃんは私がしたこと以上に私を助けてくれた。クリヲネちゃんのおかげで、心にぽっかり空いていた穴を綺麗に埋めることができた。もしも記憶が残ったとしたら、私はあなたのことを一生忘れない」
人間の温もりをはじめて感じたであろうヲネは、俯きながら小さく呟く。
「ヲネはいつの間にか、コヂカちゃんの心を満たしていたのね……」
「え? なに?」
「ううん、なんでもない。ヲネもコヂカちゃんに拾われてよかったよ。コヂカちゃんのことを絶対に忘れないわ」
顔をあげたヲネの髪からなんとなく潮の匂いがした。
「ねえ、クリヲネちゃん。どうしてクリヲネちゃんの体はこんなにも冷たいの?」
「ヲネたちは『生き物』ではないのよ。魂を整理する『装置』のようなものだから、血も心も存在しない」
ヲネは虚ろな目そう言った。その瞬間、コヂカは咄嗟に彼女を抱きしめていた。どこまでも冷たいその身体が、今はとても愛おしい。
「違うよ、そんなことない。クリヲネちゃんはここにいる。こうやって抱きしめて、髪の匂いも肌の温度も感じられる。私を魔法で助けたり、時には叱ってくれる。クリヲネちゃんは装置なんかじゃない。クリヲネちゃんは、私のはじめての、大切なエコウの友達なんだから」
コヂカの胸の中で、ヲネは濡れた頬を優しく寄せた。
「ありがとう、コヂカちゃん。さあ、夜が明ける前にシオンの魂を探しに行きましょ」
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