第38話 放課後の廊下

 チャイムが待ちわびたように鳴って、ホームルームが終わった。




「うおしゃーっ、終わったー。部活だーっ」




 マリは座ったまま背伸びをして、嬉しそうに独り言をつぶやく。その声を合図に、教室がざわめき始めた。




「マリうるさい」




 そんなマリの隣で、カンナが眠そうに目をこすった。




「ごめん、今日退屈だったから嬉しくて、つい」


「まあ退屈だったのは認める」




 カンナは頬杖をついたまま、首を左右に動かした。コヂカはそんな両脇の二人を見ながら、かばんに教科書を詰め込んでいた。




「コヂカは今日も生徒会?」




 マリが立ち上がって尋ねた。




「ううん、昨日会議があったから今日はお休み」


「そっか、まあゆっくり休みなよ」


「うん、ありがとう」


「今週乗り切ったらお泊り会だからね、絶対風邪なんかひかないでよ」


「わかってる」




 コヂカがそう笑顔で答えると、マリは安心したように、




「じゃ、またあした。カンナもね」




と言って部活に向かった。カンナはそんなマリを羨ましそうに眺める。




「さて、うちも部活行こうかな」


「あのさ、カンナ。昨日はありがとね」




 コヂカは少し照れ臭そうに言った。座ったまま身体を伸ばしていたカンナの動きが一瞬固まる。




「いいって、うちら友達でしょ」




 カンナはそう言ってストレッチを再開すると、立ち上がって、




「またなんかあったらいつでも話聞くよ、LINEでもいいし」




と続けた。




「うん、ありがとう」




 コヂカは頷いて少し笑った。胸の奥がじんわりと温かくなる。




「じゃあまた明日」


「うん、部活頑張って」




☆☆☆




 クラスメイトたちは下校したり、部活へと向ったりして、ほとんどがすぐにいなくなった。コヂカは散らかっていた机の中を整理してから、ゆっくりと下校の準備を終えた。カナタはもう家にいるのだろうか。久々にいっぱい遊んであげたい。


 コヂカが誰もいなくなった教室から出ようとすると、廊下に見知った人影が立っていることに気づいた。教室の扉の前で、コヂカが出てくるのをずっと待っていたらしい。彼女は相変わらず、お下げに眼鏡姿で、その髪は張りつめた雰囲気をまとっていた。




「あ、須坂さん」


「ひさしぶりね、海野さん」




 須坂シグレが偶然教室の前にいたわけではないことを、コヂカは彼女の引き締まった表情から察した。




「ひさしぶり、どうしたの?」


「堀田くんから聞いたわ。部長会議のこと」


「カヅキくん、話したんだ……」




 コヂカは独り言のようにそう漏らした。シグレはまるでコヂカの出口を塞ぐように、教室と廊下の間に立ち尽くしている。短い沈黙があって、コヂカは話を切り上げるつもりで言い出した。




「あれはね、ちょっと役員で揉めちゃっただけだから、もう大丈夫。あとは私が何とかするから」


「何とかって、具体的に何をどうするのかしら?」


「ごめん、弟が家で待ってるから。私はこれで」




 そう言い残して、コヂカは教室から出て行こうとした。シグレは止めなかったが、コヂカが廊下を歩き出した途端、吐き捨てるように言った。




「また逃げるのね」




 そのセリフにコヂカは思わず足を止めた。シグレは同じ口調で続ける。




「あなたはいつも逃げてばかり。みんなの要望を叶えるって約束したくせに、逃げてばかりで結論を先送りにして、何一つ叶えられていないじゃない。それに今度は部長たちだけでなく、生徒会までバラバラにする気なの?」


「違うよ、そんなつもりじゃない……私はただ、みんなが仲良くしてくれれば、それで」




 弱弱しいコヂカの弁明を、シグレは遮った。




「誰かの願いを聞き入れれば、他の誰かが不利益を被ることだってある。あなたの理想通り、みんなが仲良くするなんて現実では不可能だわ。だからこそ、意見をうまくまとめ、何かあった時はその責任をとる生徒会長の仕事が必要なのよ。私が生徒会長になっていれば、こんなことにはならなかったのに……」




 コヂカはシグレの言葉に、拳を握りしめた。確かに彼女の指摘は正しい。でも現実的でこれまで何度も意見を切り捨ててきたシグレに、そんなことを言われたくはなかった。




「須坂さんに何が分かるの……」


「分からないわ。あなたの考えていることなんて、分かりたくもない。でも理想だけを求めていて、現実から逃げていることくらいは、見ていれば分かる。それに誰からも嫌われたくないから、みんなにいい顔をしているみたいだけど、逆にそれがあなたを周りから遠ざけていることもね」


「もうやめて、放っておいて」




 コヂカは小さい声で歎願した。




「やめない。誰もお互いのことを否定し合わない、一緒にいて居心地のいい人たちの中だけで生きてきたから、そんな甘い考えになったのよ。だから、私はやめない。言い続ける。本音で話しなさいよ。上辺だけの綺麗事ばかり並べて本音を言えないあなたは、まるで透明人間ね」




 奇しくもヲネの魔法で透明になったコヂカを揶揄するような言葉だった。シグレは息が上がり、呼吸を整えている。ここまで言われたのは、コヂカにとって初めての経験だった。




「知ってる、そんなこと、言われなくてもずっと前から分かってる。私だって、できることなら本音で語り合いたい。でも、私の本音はみんなの意見とかけ離れていることが多いから、嫌われるんじゃないかって思って、つい嘘でその場を取り繕って、口をつぐんでしまうだけ」




 悔しさと悲しみと怒りが混じった感情が、コヂカの胸から込みあがり、コヂカの口内で苦い唾液となった。少し感情的になったコヂカに、シグレは動揺したようだったが、慰めるような言葉をかけることはなく、静かに呟くように話を続けた。




「本音が周りとかけ離れていることが、どうして嫌われる理由になるの? もちろん、本音で話し合った結果、意見が合わなくて、否定されることも否定してしまうこともあるでしょうね。でも、そんなことで周りから孤立したりなんてしない。確かに、何人かは離れていくかもしれないけど、私は同じ意見を持つ者同士より、異なった意見を持つ者同士の方が、より深い関係になれると思ってる。だってお互いに、好きな部分も嫌いな部分も認め合っているのだから、上辺だけ仲良くしている嘘まみれの関係より、気を使わなくて済むのだもの」




 シグレは長広舌を揮って、最後に一息ついてから言った。




「あなたには否定される覚悟がないんじゃない?」


「否定される覚悟……」




 シグレの言葉をコヂカは口で一回、そして心で何度も反芻した。そうだ、やっとわかった。カンナが言ったことと、シグレに言われたことが、頭の中で重なり合って繋がっていく。


コヂカが八方美人で、誰に対してもいい顔をしてきたのは、自分の考えを、自分の存在を否定されるのが怖かったからだった。でも、否定されても、否定してしまったとしても、本音で付き合って、相手の弱みの認め合う関係の方が、より深く結ばれる。誰からも嫌われない完璧な人間なんて目指す必要はなかったんだ。自分の全てを、良い部分も悪い部分も認めて、理解してくれる友達がいれば、それでよかったんだ。コヂカは胸に手を当てて、すーっと息を吸い込んだ。なぜだか生まれ変わった気がした。


 なにも言わなくなったコヂカに対し、シグレは恥ずかしそうに苦笑いをした。




「嫌われている私が言っても、説得力なんてないに決まってるわよね」




 そして息を大きく吐いて、続けた。




「ごめんなさい。つい感情的になってしまって。もう二度とこんなこと言わないし、海野さんの前にも、もう二度と現れない。私から言いたいのは、生徒会のこと、後輩たちのこと、よろしくねってことだけだから」




 そう言うと、シグレはスタスタと上履きの音をたて、コヂカとは反対側の廊下を歩き出した。




「須坂さん待って」




 コヂカの声にシグレは足を止めた。




「なに?」


「今の言葉は、認めないから」


「そうね、私もちょっと言い過ぎたとは思うわ、反省してる」


「そうじゃなくて。また会いたいし、また本音で話をしてみたい」




 シグレは少し驚いた様子でコヂカを見つめた。コヂカはシグレに歩み寄ってから言った。




「もしよかったら、私と友達になってくれませんか?」


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