第百二十六話 人形は神を導きて

 



「──ほーう。なるほどなるほど。つまり、口は悪いがただでさえ美人な我が屋敷のメイド長にフラれて意気消沈しているということか。いやなに、ご苦労様と声をかけるべきかどうなのか……フラれることなんて人生では何度も経験することなんじゃないかな? オルラッドでもあるまいし……」


「全然違うし主様ぜってー楽しんでますよね? あと、オルラッドは最強すぎてフラれるなんてまずないから。多分」


 紅茶の香りが仄かに鼻孔を擽る、主様ことリレイヌ・セラフィーユの執務室。空気の入れ換え中なのか、開け放たれた窓から入り込む風が、微かにあたたかかった室温を下げている気がする。別に震えるほど寒いというわけではないので大丈夫だが、女性は体を冷やすことを避けた方が良いと聞く。その辺、龍神は気にしなくとも良いのだろうか……。


 街中で起こった、ジルにとっては衝撃的とも言える宣告のあと、彼は逃げるように彼女たちから離れ、屋敷へと舞い戻ってきていた。そのまま突撃よろしく駆け込んだのは、状況を見てわかる通り、主様の元。タイミングの良いことに、書類整理をあらかた終えて休憩時間に移行していた彼女に、ジルは渾身の力を振り絞って先の一件を伝えた。結果、返ってきたのが冒頭の台詞というわけである。


「ああ、いっそ殺してくれよぅ……」


 嘆き、両手をついていた執務机からズルズルと地面に移動し、横たわる。そのまま涙を流す様と言ったら、哀れすぎて目も当てられないものだ。


「てゆーか、なに。なんなの。『あなたは今、どこにいるのですか?』って。……いるじゃん。ここに。ここにいるじゃんか。ジルさんはあなたの目の前にいたじゃないですかよ、師匠……」


「ならそう言えば良かったんじゃないか?」


「そうって?」


「自分はここにいますよ。あなたの目の前に。ということ」


 あくまで冷静に、リレイヌは告げた。言葉を紡ぎつつも紅茶を啜る様が、非常に洗練されている。

 彼女はきっと、幼い頃より、それこそジルの知り得ないような教育をたくさん施されてきたのだろう。そうでなければここまでの動作はなかなか出来まい。

 いや、まず貴族階級の者にそれほど会ったことがないから真相はわからないのだが……。


「……むり。絶対むり」


 妙な方向にズレかけた思考回路を一度止め、改めて再起動させたその頭を軽く振り、ジルは項垂れた。


 ぶっちゃけ言えばリレイヌの言うことには一理ある。あるのだが、それでもその言葉を返すことができなかった理由は、確かに、自分の中に存在した。

 別に、自身がどこかに行ってしまっているとは、全くもって思いもしないのだが……。


「……ドーアさんとさ、話したって言ったじゃないすか」


「うん。そうだね」


「その時の記憶が、妙に曖昧なんすよね。椅子を投げられる前、俺、あの人とどんな会話してたか思い出せなくて……」


 ボーッとしていたから怒って攻撃をされた。そういう考えもあるにはあるが、それでもそうだとは、ジル自身言い切れなかった。

 ドーアは、ただでさえあの性格だ。たかが意識を数秒、数分飛ばしていただけであのような暴挙には出ないだろう。寧ろ、笑いながら「大丈夫ー?」なんて言ってそうだ。


「……そう考えると、師匠の言葉が重く感じちゃって」


 あの短時間の間に、自分がいなくなっていたとしよう。変わりに、自分以外の何かが、そこにいたとしよう。

 その何かが、『敵』であるならば?あのように敵対されても、当然なのではないか?可能性は大いにあるはずだ。なんたって自分は、ミーリャを……調停者、を……。


「……」


 コトリ、と、陶器のカップが机上に置かれる。軽い音をたてて鎮座したそれを眼下、リレイヌは微かに息を吐き出すと、徐に席を立ってジルの方へ。床に転がったまま屍になりかけている彼の傍らに膝をつき、その柔らかな髪へと片手を伸ばす。


「ジルくん。少し疲れがたまっているんじゃないかい? 一度、里帰りでもしてきたらどうかな。君も、君のご両親と会えば、なにか……」


「……両親? 何言ってんの、主様?」


 ひょい、と顔をあげたジルが、訝しげに眉をひそめた。


「俺に、両親なんていないけど……」


 どこか、冷たい声色であった。


 はた、と言葉を止めたリレイヌは、微かに目を見開いたものの、すぐにいつもの柔らかな表情へ。優しさのこもる笑みを浮かべ、「ああ、そうだったね……」と、言葉を返した。


「すまない。どうも勘違いをしていたようだ。さすがに歳かな? いろいろなことがこんがらがってきてしまうよ」


「主様でもそういうことあんのね。なんかちょっと安心したわ……」


 軽く笑い飛ばした後に、よいしょ、と体を起こす。そうして、少年はにっこりと笑った。向けられるその笑みに邪気は一切含まれていないものの、リレイヌはその笑みに何かを感じ取ったようだ。つけた仮面を剥ぎ取るように、己が顔から微笑みを消した。警戒するように目前の者を見据えるその瞳には、確かな『敵意』が、僅かながらも浮かんでいる。


「……嫌なやり方だな」


「ありがとう。最っ高の褒め言葉だわ」


 輝かんばかりの笑みをこぼし、少年は大人しいリレイヌの片手を掴んだ。そのまま、「ほんじゃ行きましょーか」と告げる彼からは、すでに『ジル』という存在は感じられない。


 全く別の、未知なる生き物。かつて、愚かなる先代が作り出した、哀れなそれと酷似している。

 なるほど、なるほど。だからドーアはそういう行動に出たわけだ。


「『シャルド』」


 なんとなしに納得したところで、転移魔法が使用された。独特なるその呪文を耳に、神たる少女は全てを悟る。やはり未来は、変えられない。変えることなど、できないのだと……。


 やるべきことを終えて倒れ伏した人形を傍ら、繋いだ手はそのままに、リレイヌは視線を周囲へ。先程までいた執務室とは相反し、きらびやかな鉱石が幾つか視認できる薄暗い空間で、彼女は思わずと、疲れたように瞳を伏せた。


 まさかこのような場所へ、招かれることになろうとは……。


「──『新造の箱庭』、か」


 皮肉なものだと、誰かが笑う。

 それは自分か、それとも──……。

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