都会(まち)のホタル

岡上 山羊

第1話

 都心の中心部に周りのビジネス街と一線を画するように、木々の緑に覆われた大きな公園がある。その公園は都会にきょじゅうする者や辺りのビジネス街を職場にしている人々の憩いの場所となっている。

 早朝にはピッタリと身体にフィットしたウェアを身に着けた、何かのスポーツ選手でも真似ているかのようにサングラスをかけたランナーがランニングをしていたり、中央の広場では老後を迎えた老人たちが太極拳と称した踊りを舞っている。

 昼ともなればビジネス街の女子社員たちがこぞって現れ、お互いの手作り弁当を自慢し合いながらランチを楽しんでいる。

 ベンチには頭の辺りに置いた飲みかけの微糖缶コーヒーに蟻がたかっている事にも気付かずに、顔にスーツの上着を被せたまま昼寝をしている外回りの営業マンが横たわっている。

 一方中央の広場では、今度はゲートボール場へと姿を変え、朝の面子が2/3ほど入れ替わり、球技に興じている。

 そして夜ともなれば、広場から少し離れた噴水池が綺麗にライトアップされ、淵に腰をかけた恋人たちが愛を語らい深めていく、格好の場所へと変貌していく。

 街の灯りが届かない隅のベンチでは、互いの唇を重ね合わせる者たちさえいる。そうして都心の公園は都会に住する者や働く者たちの生活の一面を覗かせている。


 しかし、そうした人々が知らない世界がここにはある。知らないと言うよりも、視界に入っても気付かぬ振りをする。見なかった事にする。目を背けようとする。そして決して知ろうとはしない世界だ。

 その世界には、かつてはその世界に目を背ける者同様に家族を築き、それを護る為に額に汗をし働いてきた者たちの集まりなのだ。

 子供の工作と言うには大層立派な小屋のような物が軒を連ねている。その小屋はそこいらに投げ捨てられていたのであろう木材や段ボール、ビニールシートや毛布に至るまで様々な物を用いて作られていた。中にはどこで調達してきたのかドアまで付けられている小屋まで存在している。かと言って向こう側にいる人間にとって、それらは汚く粗末な空間である事は言うまでもなかった。

 こちら側と向こう側、向こう側とこちら側。はっきりとした境界線がある訳ではない。しかしれっきとしてその境界線は存在するのだ。

 その境界線は今を生きる社会との繋りを断ち、こちら側に来なければ見えない線なのだ。その線を作ったのは社会の人々なのに、見えるのはそこからドロップアウトした人間でないと見えないとは、なんとも皮肉なものだ。


 今年の誕生日を迎えれば46歳になる佐名木さなぎ 幹夫は今、まさにその境界線に立っていた。と言うよりも片足をどっぷりと向こう側に浸かってしまっていると言った方が適当であろう。佐名木は数ある所有物の中、残された数少ない所有物の一つであるヨレヨレのスーツに、薄汚れたワイシャツを上から三つ目までのボタンを外し、右手には長年愛用してきたビジネスバッグを、左手にはベージュと水色のななめストラップ柄のネクタイを持ち、行き場のないその身をこの公園に寄せてきたのだ。

 佐名木は思った。今まで決して目にして来なかった訳ではない。しかし改めてこうして見てみると、なんとも異様な世界だ。だがもはや身の置き場のない彼にとって、逆に居心地の良い場所のように感じられた。だからと言って両足共にどっぷりと浸かってしまう事は躊躇ためらわれた。

 今ならまだ引き返せるかも知れない。一度浸ってしまえば二度とは元の社会に戻る事が出来ないかも知れない。そんな葛藤が佐名木の頭の中を占拠していた。

 そもそもの佐名木は都内の国立大学を出た後、大手メガバンクに入行した。それからも順調に階段を駆け上るように出世をし、副頭取の大塚 賢治にも目をかけてもらっていた。その甲斐あって大塚の娘、理沙子をめとり、将来を約束されたような人生を確実に歩んでいた。理沙子に関しては特段の愛情を持っていた訳ではないが、可愛がってもらっている大塚の手前、恩を仇で返すような事は出来ず、ある程度大切に扱い、男女二人の子も設け、それなりの幸せを感じつつ過ごしていた。そんな佐名木に悲劇が襲ったのは今から八ヶ月ほど前の事であった。

 元々は行内には頭取派と副頭取派が静かな火花を散らすような覇権争いがあり、しばらく冷戦状態のような状況にあった。その二派閥が頭取派の陰謀により動き出したのだ。

 陰謀に巻き込まれた佐名木は副頭取への裏切りと言う汚名を着せられ、副頭取共々、失脚する事となった。実父を裏切ったと思い込んだ理沙子は佐名木を恨み、子供たちを連れ立って佐名木の元を去った。その時に理沙子は慰謝料と言う名目で、持ち家を含めた全財産を持って出てしまった。家族も財産も地位も仕事も、全てを失った佐名木は失意の中、吸い込まれるようにこの公園へとやって来たのだった。


 ひのきの丸太をそのまま使用したベンチがある。向こう側の住人が座るせいか、一般市民はほとんどと言うよりも、全く使用しない。佐名木はそのベンチに腰かけた。

 このベンチが境界線になっているのか。佐名木はふと、そんな事を思った。

 向こう側とこちら側の狭間。食料も金も持たない死に向かう世界と生の世界の狭間。何でも手に入れる事が出来たかつての自身が生きた世界と一人では何一つ手に入れる事の出来ない世界の狭間。それがこの腰かけるベンチなのかも知れない。でも確実に経験もした事のないこの世界に半身をどっぷりと浸かってしまっていた。

 そんな時、小汚いオヤジが佐名木の隣に座った。オヤジは手に持っていた薄茶色の球体を佐名木に差し出した。それは握り飯だった。真っ白な白米が汚れてしまったのか、醤油などで味付けされて染まってしまっているのか、はたまた元々がそう言った色をした米を使ったのか、佐名木には見当もつかなかった。

 以前の佐名木であれば、決して口にはしないだろう。しかしこの得体の知れない食べ物を目の前にして、生き永らえるつもりなど更々ないのにも関わらず、襲って来る空腹感。食べるのか、拒否するのか。少しながらの経験をした者ならば分かる事だろう。佐名木は貪るように握り飯にかぶりついた。

 握り飯はどこでどのように調達したのかは分からないが、炊きたての玄米を申し訳ない程度の塩で味付けされたものであった。佐名木の瞳から流れ落ちる水滴が、より一層に握り飯を美味しくさせた。その事は佐名木に生きている事を実感させると共に、自身の惨めさを浮き彫りにさせた。

「もう二年…いや三年になるかねぇ。私もお兄さんと同じようにこのベンチに腰かけてたんだ。するとね、この中の一番のベテラン…てのも変か。チョーさんって人に同じように握り飯をもらったんだよ。そん時にチョーさんに言われてねぇ。

『このベンチは世の中とそうでない世界の境界線だ』ってね」

 佐名木はオヤジの話しを聞きながら、自分の置かれる立場と、将来の自身の姿を理解した。

 自分はすでにエリート行員ではないし、未来の己の身はこの目の前にいるオヤジと同じか、そう変わらないのだ。

 

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