第15話 よびびと
『レグルス、本当にありがとう。レグルスがいなかったら、ここまでたどり着くことができなかった』
そう言って、カナは笑っていた。そんな彼女の言葉に、俺は一体どう返したのか。自分でもよく覚えていない。長くはない彼女の時間を、俺の都合で振り回した。結局、俺が願わなければ彼女はここにすぐにたどり着いた。罪悪感から、最後にカナの顔を見ることすらもできなくて、片手に持つ袋が妙に重い。
「……これ、報奨金だってもらったけど、返しといてくれや」
カナの手前、受け取りはしたが、まるで金と彼女を交換したようでひどく気の重いものだった。よくぞ送り届けてくれたと褒めちぎられる言葉は、ただただ空虚で馬鹿らしかった。金を渡した入り口の兵士は、「は?」と首を傾げて、袋の中身を確認して、仰天したような声を出したけれども、気にせずそのまま通り抜けた。
(帰してくれるって、言ってたよな)
帰りたい、と言ったカナに、そうか、と大神官は頷いた。
(……大丈夫だよな?)
そのとき俺は初めて、決して大神官はカナの言葉に返事をしたわけではないと気づいた。考えるとなんだか腹の中がもやついた。大丈夫に決まっている。なんてったって、エルフで一番の長寿で、人格者であるときいている。魔法も下手くそな俺なんかと顔を合わせたのも、今となっては不思議なくらいだ。
これ以上、俺の出る幕ではない。会ったところで、未練ばかりが募るに決まっている。それならさっさと消えた方が身のためだ。今度はどこに行こうか。今更南に帰るのもばからしい。いっそのこと、人間ばかりの土地を歩いてもいいかもしれない。昔みたいに。
そう考えて、神殿を通り過ぎようとしたはずが、気づけば足は反転していた。何をしているんだろうか。やめとけやめとけ、と自分の頭の中で呆れたような声がする。のろのろと歩いた。なのに最後には足早に進んでいて、息だって荒くなる。「お、うお! 帰ったんじゃなかったのか!?」 先程金を渡した兵士が飛び跳ねたように驚いた。
「金はもう返さんぞ。もらったものだからな!」
「いやそんなもんはいいんだよ。ちょっとやり忘れたことがあったんだ。カナはどこだ」
カナの顔を見てしまえば、行くなと勝手に声が出そうで怖かった。だから彼女の顔をまともに見ることもなく、ここまで来てしまった。「そう簡単に出入りできる場所じゃない」 男の言葉に、「だよな」と頷く。そしてとぼとぼ背中を向けた。と見せかけて、思いっきり飛び上がった。「おわ!?」 門番の頭を越えて、そのまま勢いよく走り抜ける。
おいこら! と背後からは怒り声が聞こえるが、舌を出して逃げ出した。それにしたって、来たときから思っていたが、なんだか嫌な気持ちになる場所だ。神殿とは、特に魔力の多いエルフ達が神官として集められる小都市だ。魔力の高い子供は、幼い頃に招聘され、竜の知恵を修めると聞く。俺にはめっきり関係のない場所だから、この場にいるだけでもそわそわする。
来た道とは逆の道を走っていく。ただそれだけだ。高すぎる天井はピカピカしていて気持ちが悪い。「……何をしているのです?」「ん?」 呼び止められた。見上げてみれば、大神官の隣に突っ立っていた、高い背のエルフだ。羨ましいなんて思わない。
「あー……ああ、すんません。ちょっとカナに」
なんと言えばいいのか。別れを惜しんで、というには気恥ずかしさが混じった。「……渡し忘れたものがあって」「忘れ物、ですか? それならば私が預かりましょう」「いや、そうじゃなく、ええっと」 言い訳を探した。
「あいつ、よく泣くもんだから、いつも水筒を抱えてるんですわ。そこにほら、今日は水を入れ忘れてたもんだから」
嘘だ。めいいっぱい入れてやった。それにもうカナは泣かない。いつの間にかすっかり強くなってしまっていて、人間というものの成長の速さに驚いた。俺はずっと、何十年も旅をして一人で泣きっぱなしだったはずなのに。
「……水筒」
神官はぽつりと言葉を落とした。それから納得したように頷いた。カナはいつもかかさずそれを持っている。「いや、それはもう不要でしょう」 なのにすっぱりと言い切られた言葉に違和感を得た。
「……不要、だって?」
「失敬」
神官はゆっくりと自身の口元を抑えた。失言だと告げているようなものだ。じっと男を見上げた。そうしたところで、男は諦めたようにため息をついた。「まあいいでしょう。貴方も功労者の一人だ。あなた、南の村の、どちらの出身で?」 村の名前を聞いているのだろう。
エルフは互いの村の場所を知らない。だから名前だってあまり使わない。いつ襲い来るかもわからない竜から、ひっそりと生きているためだ。エルフも、人間も、食われるために生きていることを知っている。だからそれを忘れてしまった人間を哀れんで、馬鹿にしている。
同じエルフだ。隠す必要もない。けれども何やら喉の奥がざわつくような奇妙な気持ちになって、適当に言葉を濁していた。「……なくなった村ですから。まあ、そういうことで」 つまりは竜に襲われた、と告げている。よくあること、というほどでもないが、長く生きるエルフにとってというならば、決して少ない話でもない。
「……そうでしたか。でしたら、あなたもこれで報われるでしょう」
「……報われる?」
何を言っているのか、と首をかしげる気持ちを隠すつもりもなく男を見上げたままでいると、神官は語った。カナは餌であると。カナの指の一本、ただのひとかけらでも、エルフや人間が束になってもかなわないくらい、竜はげっぷりと腹を満足させる。カナ一人を細切れにして、数多くの竜に食わせれば、それだけ同胞が救われる。エルフも、人間も、竜が喜ぶというのなら、進んでその身を差し出さなければいけない。けれども、代わりがいるというのなら別だ。
「そのために、カナを喚んだのか?」
神官は頷いた。
ただの回廊で、世間話のように話されるこれは、決して神殿が隠している事実でもなんでもなく、なんてこともないエルフの常識なのだろう。知っているか、知っていないか。それだけの差だ。だから丁寧に教えてくれた。俺は南の田舎のエルフで、なんにも知らずにカナをここまで連れてきた。
「あなたが行ったことは、とても尊いことです。異世界人一人と引き換えに、多くの命が助かるのですよ」
彼らは俺がカナを引っ張ってしまったことを知らない。そもそも俺がいなければ、カナはまっさきに神殿に落っこちていた。100年に一度の竜の年とは、竜が腹の具合に、我慢ができなくなってしまう年らしい。
なるほど、と頷いた。
「喚び人がいれば、俺の村も滅ばなかったってわけか」
その通りです、と神妙に頷く神官に、うんうん、なるほど。なるほど。そういうわけか――――なんて、思うわけないだろ。「ひっ……! な、なにを」「魔法を使う仕草の一つでもあれば、てめえの喉をひっかくぞ」 いくら向こうの体がでかいと言っても、腕を伸ばせば、いくらでも。どれだけ魔力が高くても神殿にこもりきりでは、反射神経の一つも磨けやしない。
「俺は、カナを殺すためにこんなところに連れてきたわけじゃねえ」
苛立ちが募った。ただ、ナイフだけは冷静に持っているつもりだった。「な、なんでこんな……」 心底理解ができないという声を出していた。当たり前だ。
「あんたにいちいち説明するのも面倒だ。さっさと俺を、カナのところに連れて行け」
***
目が覚めると、牢屋の中にいた。
冷たい床の上に転がっていて、天井近くからこぼれる光はとても僅かだ。地下なのだろう。逃げることも、どうすることもできない。そう理解したときに、笑いが込み上がった。そうしたあとで、涙が溢れた。神殿には、きっとふわふわのベッドがある。そう言って、綿菓子みたいな想像を膨らませていた自分があんまりにも滑稽だった。
(私はこの世界の人間じゃない……)
当たり前だ。知っていた。だから、私一人がいなくなっても、彼らにとってはどうでもいい。一人を殺して百人が助かるのなら、誰だって迷うことなくそうするだろう。その上その一人とは、彼らにとっては人間ですらもなかったのかもしれない。ちょっと言葉を話す家畜なのだと、その程度にしか考えていないのかも。
もとの世界に帰りたくても、彼らは私を帰す気なんて一欠片もない。
そのことに対しては、案外ショックは感じてはいなかった。レグルスと旅をする中で、少しずつ、諦めの気持ちが募っていった。だってもう、私の見かけはこんなに違う。この世界のものを食べて、体の一部になって、もとの世界のものはなにもない。ちょっとずつ、本当にちょっとずつだけれども、悲しい気持ちを克服していくことができた。レグルスがいたから。
なのに、死ぬために喚ばれたのだと言われたときは、さすがに苦しかった。
「……冷たい」
寝転がったまま呟いた。幸いなことに、手も、足も縛られることはなかった。一人きりじゃどうあがいても逃げ出すことができないし、私の体は、彼らにとって大事な肉なのだろう。いつものように肩にかけていた水筒は、足元に転がっていた。ゆっくりと起き上がって、蓋をあけた。
「……おいしい」
それじゃあな、と言いながらも、いつものとおりにいっぱいに入れてくれた。飲んだ代わりとばかりに、今度は涙が溢れてきた。「レグルス」 小さく、声を落とした。ちっちゃな背中だった。でも本当は、私にとってはとても大きな背中だった。「レグルス……!」
「カナ!」
聞こえた声は、てっきり気の所為なのかと思った。けれども違った。頭の上の小さな鉄格子から、彼は必死に私に呼びかけていた。彼の顔を見た瞬間、ぼろぼろと溢れた涙をそのままにしていると、彼はまるで豆鉄砲を食らったみたいに緑の瞳を大きくさせて、それから少しだけ笑った。それがなんだか不思議で、これがただの旅の途中のように思えて、硬くなっていた体が、ゆっくりと柔らかくなっていた。
「なんだカナ、お前また泣いてたのか? 久しぶりだなあ」
「ちょっとだけ、ちょっとだけじゃん!」
軽口を叩いて、溢れた涙を拭い去ると、少しだけ冷静になった。「それにしたってひでえ場所だな。ちょっとまってろ」 そう言ったところで、「おらっ!」 レグルスは力の限り入り口を上から踏み降ろした。小さな鉄格子が勢いよく落っこちて、大きな音を響かせる。びっくりした。そうすると、私の頭にはぽっかりと小さな穴ができた。流石に呆然とした。
「うん。人間が逃げられないようにしてるだけだな。外からの手助けだなんて、考えてもいねえのな」
間抜けなやつらめ、とレグルスは似合いもせずに、にやりと笑った。ここまでどうやってやってきたのか、お察しである。けれども私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「レグルス。私、死ぬために喚ばれたんだって」
言葉にするとぞっとした。そんな私の口調を悟って、彼はただ静かに聞いた。牢屋の中に閉じ込められていたのだ。彼だって、ある程度の事情を知って、ここまでやってきてくれたのかもしれない。彼がひどく優しくて、お人好しなことは、短くはない旅の間で知っていた。
「でも、もう逃げられないと思う」
つながっていた紐は、もうすっかりと形づいている。私を読んだ“大神官さま”の場所を私がわかることと同じように、その反対もそうだ。ここからどこに行こうとも、逃げ出そうとも、きっと何の意味もない。薄く、ぼんやりとしていたはずの紐は、すっかり私をぐるぐる巻きにしてしまっている。
レグルスは、少しばかりの間、静かに口を閉ざしていた。けれども、「うるせえ!」 かんかんに叫んだ。そうしたあとで、口元を押さえて、周囲を慌てて見回した。しばらくしてホッとしたところで、もういちど、「うるせえぞ!」 小さく怒った。彼の細い腕が、勢いよく私の頭の上に突き出した。
「さっさと来い!」
有無なんて言わせないような言葉だ。「俺は、お前ともっと旅したい。一緒にいたい。ちょっとでもそう思うんなら、手くらい必死で伸ばしてみろ!」 そう言ったあとで、「まあ、ちょっとでもな。ちょっとでもいいんだぞ」 今度はいきなり自信なくつぶやき始める。
――――森の中で、一人きりで泣いていた。
気づいたら、勝手に彼の腕を掴んでいた。「おっしゃ!」とレグルスは嬉しげな声を出して、相変わらずびっくりするくらいの馬鹿力で私を勢いよく持ち上げた。ぎゃあ、と悲鳴をあげて、小さな彼の体に入り込んでいると知ったときは恥ずかしくてたまらなかった。
「逃げような」
レグルスが泣いていることを知るには少しばかりの時間がかかった。「死んじまったら、おしまいなんだ。どこでも、ずっと。いくらでも。逃げて、逃げて、逃げちまおう」 俺は、お前と一緒にいたいんだ。最後に、そんな言葉をきいて、体の底から震えた。言いたくってたまらなかったその言葉を、彼に言わせてしまった。そう気がついて、必死にレグルスに抱きついた。彼はそのまま転げてしまった。
(――――レグルスと、一緒にいたい)
私達の終わりは、きっと全然違うけど
それでもずっと、終わるまで。
ちょっきん
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