第8話 高く飛ぶ
ざくざくと、泥だらけの道を歩いていく。
真っ青な空が頭の上には広がっていて、買ったリュックには重たくならない程度に食料と必要物をつめこんで、歯型のついた水筒は斜めにかけた。すっかり雨に濡れた地面は、一歩踏み出す度に泥の中に足が沈み込んだ。こちらに来たときに履いたままのスニーカーは歩きやすいけれど、色んな道を歩いたから、すっかり汚れてしまっていた。
神殿までの道のりは、うっすらと不思議な線が伸びている。まるで糸のようだ。薄くて、細くて、少し間違ってしまえば、ぷちりと切れてしまいそうな頼りない線なのだけれど、これは私にしか見ることができない。その上ときどきぼやついて、わからなくなるときがある。それでもしっかりと、先に、先に進んでいる。
レグルスとは他愛もない話をした。
「一応何度も言っておくけど、俺は決しておじいちゃんなんかじゃなくって、エルフの村なら子供の扱いなんだからな」
「でも86歳なんでしょ?」
「いやそうなんだけど」
レグルスは子供と言うには落ち着いているし、おじいちゃんと言うには若すぎる。「そうなん、だけど、なあー! こればっかりは人間との感覚がなあ」と頭を抱えて唸っている。つまりは、私達は感覚が違うのだ。年齢だけ見れば間違いなくレグルスは私よりもずっと年上なはずなのに、エルフからしてみれば“ひよっこ”だ。
「価値観って難しいねぇ」
国や文化が違っていても揉め事は起きるのだ。異世界まで来てしまったのなら仕方ない。エルフがいれば、魔法だってある世界なのだから。「……魔法」 ざくざく、と進んでいく。「お、カナ、どうした?」「私にも、何か使えるのかな」 ちょっとくらい、期待するのはきっと仕方のないことだ。レグルスの便利な技をこの目で見て、夜中にこっそり練習したのは一度や二度ではない。
エルフは魔法を使うことができる。けれども人間は一握りだけ。この世界の住人ではない私が、そこに当てはまるのかどうかはわからないけれど、もしかすると、ちょっとくらいの可能性ならあってもいいんじゃないだろうか。
自分の手のひらをぐーぱーしていると、私のほんの少し前を歩いていたレグルスが、「はっは」 なぜだか笑った。にやついている、と言ってもいいのかもしれない。「練習、がんばってるもんな」 彼の言葉をきいて、頭の中で考えて、飲み込んで、「見てたの……!?」 恥ずかしさに顔が熱い。
「いや、がんばってんなと。うん、思ってた」
「見ないでよ! やめてよ!」
「秘めたる才能があるかもしれないもんな」
からかい口調のレグルスにくってかかったそのときだ。おぎゃあ。おぎゃあ。どこからか、微かな赤ちゃんの声が聞こえた。もしかすると、猫なのかもしれない。どこからだろう、と考えて、ぼんやりと周囲を見渡したとき、ひどく険しい顔のレグルスに両手首を掴まれた。「れ、レグルス、い、痛い……」 あんまりにも強すぎる力だ。小さな彼の体から、こんな力が出るのかとびっくりした。
「……レグルス?」
問いかけた名前を最後まで言うことができなかった。静かにしろ、と短く、鋭い声をレグルスが出した。それからすぐさま彼は私の体をひっぱった。「え? わっ!?」 泥の中に頭からつっこんだ。おぎゃあ、おぎゃあ。少しずつ声が近くなる。「絶対にしゃべるな」 その言葉がなければ、きっと何をするの、と大声を出していたかもしれない。レグルスが、私の顔やら腕やらに、べたべたに泥をぬりたくった。そうして、うつ伏せになった私の頭を、自分の胸元に抱え込んだ。
レグルスの心臓の音が聞こえる。荒い息で、必死で私を何からか“隠していた”。
隙間から、青い空が見える。そこから、鳥が飛んでいた。違う、手足がある。大きい、大きい羽根がゆっくりと動いていた。あれは。
竜だ。
なぜだか指先が震えた。赤子のような泣き声をあげて、遠い空の向こう側をゆっくりと通り抜けて消えていく。
レグルスが私から離れたのは、それから随分経ってのことだった。彼は暑くもないのにびっしょりと汗をかいていて、泥だらけの私を抱え込んでいたものだから、同じく泥で汚れている。震え上がるような、真っ青な顔色だった。
「れ、レグルス……?」
竜は街を襲う、そう彼は言っていた。「あ、ああ、悪い。臭い消しだ。あいつら、死ぬほど鼻がきくから」 泥のことなのだろう。あんなに遠い距離を飛んでいたのに、それでもやっとこさレグルスは一息ついたようで、長く息を吐き出した。
「悪いな、水を出すよ。ちょっとまってくれ」
「いや、全然。急がないし……」
ちょっと気持ち悪いけれど、理由があったことだ。仕方がない。それよりもレグルスの顔色の方が心配だ。ごしごしと頬の泥を自分でこすった。真っ黒だ。「……竜は、人間を狙うの?」 私の疑問に、レグルスは少しの間のあと、やっとこさ聞こえたように瞬いて、「いや?」 不思議げに首をかしげた。「人間でも、エルフでも関係ないぞ。あいつらはなんでも美味しくいただくからな」 そこまでの返答は求めていなかったけれど、それならさらに疑問が募る。
「私は隠してくれたけど、レグルスはどうするつもりだったの?」
レグルスは、ゆっくりと立ち上がって、きょとりと瞬いた。一拍、二拍。少しの間があったあとに、出すと言った水は失敗したのか、びちゃびちゃと足元に落ちてしまっている。「そりゃあ……まあ、もちろん」 はは、とカラ笑いをしながら視線を逸らした。
「なんとかしてたさ」
「い、いや嘘でしょう」
「なんとかなるさ」
「……ほんとに?」
そりゃあ、まあ、と返事をする声が小さい。
私はこの世界のことをよくわかってはいないから、もしかすると、本当になんとかなったのかもしれない。それでも、どうなんだろう、と訝しげに視線を送ると、とうとう彼は耐えかねたのか、「ああもう!」 と爆発したように叫んだ。それから自分の口を慌てて塞いで、竜がいないことを確かめてから、レグルスは思いっきり息を吸い込んだ。
「大人は、子供を守るもんだろう! カナはガキだから仕方ないんだ!」
「いやいや」
ついさっきまで、自分はまだ子供だとか、そう叫んでいたくせに。なのにいざとなればそんなことを言う。
「危ないじゃん、よくないじゃん、なんとか二人で逃げようよ!」
「できるもんならそうしとるわ! お前がこっちをじじいだとかなんだとか言うから、思わずそんな気になっちまったろ!」
「それは申し訳ないけれども!」
えいや、と先に泥をぶつけたのはどちらだったかわからない。互いにどろどろになって小さな子供みたいに遊んで、気づいたら笑っていた。
「今日は水を出すのに一苦労しそうだ」とレグルスはため息をついて、「やっぱりカナ、お前ちょっと、変な匂いがするな。竜に気づかれなくってよかったなあ」と何の気なしに言うものだから、彼の顔面に思いっきり泥をすりこんだ。んぎゃあ。
情けない悲鳴が響いていた。
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