第4話 出会い

 美月と出会ったのは、二十歳の春だった。

 大学一、二年生の時に落としてしまった英語の単位を取るために取っていたその講義では、神経質そうな女講師が授業を行っていた。

 地元の隣の県の国立大学に進学した臣吾は、念願の一人暮らしを始めて当たり前のように堕落した生活を行っていた。

 取る講義は最低限、週の半分以上居酒屋のバイトに入っていた。バイト代はたいていサークルの飲み会代に消え、バイトや飲み会の翌朝にある講義は出席が足りずいくつか落としてしまっていた。

 英語もそのうちの一つで、それだけでなく、臣吾はTOEICの点数も足りておらず、危機感は感じていたものの、やはり初日の講義に遅刻してしまったのだった。

昨年までは同じように一年生の時に単位を落とした仲間が何人かいたのだが、さすがに三年生になると知った顔はもういなかった。

 凝りもせず初日に遅刻して登場した臣吾を、女講師は呆れたように見つめていた。

 「原田くん、今年取れなかったら留年でしょう。」

 銀色のフレームの眼鏡をかけた彼女は、授業が終わった後に手招きをして臣吾を呼び、こういった。

 「私も、あなたに単位をあげたくないわけじゃないの。でも、講義に来てくれないことには単位が出せないわ。TOEICの点数もね。」

 臣吾の通う大学では、一律で卒業時に必要なTOEICの点数が定められていた。それが達成できていない限り、卒業の単位が下りない、という制度になっていた。

 「はい。」

 二日酔いの頭に、高い声が響いていた。

 「初回だし、オリエンテーションをしただけだから、もう二回オリエンテーションを受けているはずのあなたは大目に見るわ。ただし、次回からはきちんとしてください。」

 彼女にとっての精いっぱいの譲歩であるようだった。

 臣吾は二年連続で単位をくれなかったこの女講師を恨んでいたのだが、それが逆恨みであろうことにはうすうす気が付いていた。

 「ありがとうございます。何とかします。」

 急いで講義に出席したせいでセットもしていない、寝ぐせだらけの髪を手でおさえながら臣吾は軽く頭を下げた。形だけの礼で、何の感情もこもっていないことはきっと女講師にも伝わっていただろう。

 臣吾が回れ右をし、帰って二度寝をしようと足を踏み出した時、ちょうど目の前にいたのが美月だった。

 薄めのクリーム色のニットに小花柄のロングスカートといったいでたちの美月は、いかにも真面目そうな雰囲気が漂っていた。化粧もし慣れていないその顔は素朴で、どこかかわいらしさが感じられた。

 「質問がしたくて…。」

 と遠慮がちに言う美月を、臣吾は真面目ちゃんだな、とどこかさめたような目で見ていた。

 当時、臣吾には彼女はいなかったが、一年前に別れた元カノとだらだらと関係を続けているところだった。

 世間の穢れを知らないような美月に、嫉妬したのかもしれなかった。

 美月の質問が終わるのを待っていた臣吾は、空を指さして、

 「傘、持ってる?」

 と聞いた。美月は肩から下げたキャンバス生地のトートバックから折り畳み傘を取り出すと、

 「よかったら…。」

 とだけ言った。

 二人で折り畳み傘に入って駅まで歩く間、臣吾は自分が現在三年生であることを美月に教えた。

 「俺さあ、いまこの授業三巡目。次落としたら留年なんだよねえ。でもさあ、朝一番とか起きれないじゃん。」

 「あの、私早起き得意ですから…。」

 美月はその先を言わなかった。臣吾はその先を言わなかったことをいいことに自分に都合よく解釈することにした。

 「まじ?連絡先教えてよ。」

 二人で入る折り畳み傘は小さく、臣吾は駅に着くまでに方がひどく濡れてしまったのだが、臣吾は得も言われぬ満足感を得ていた。

 そして、当時はやっていた赤外線通信でもフルフル通信でもなく電話番号とメールアドレスを書いて美月が渡してくれた紙を丁寧にたたんでポケットに仕舞い込んだ。

 家に帰ってすぐに渡された紙の電話番号に電話をかけると、

 「はい…。」

 という小さな声が聞こえた。鈴のような、可愛らしい声だった。

 臣吾はその電話で半ば強引に英語の授業の日は毎日モーニングコールをしてもらう約束を取り付け、前期の終わりには美月をお礼の食事という名目でデートに誘い、その年の冬に告白をして付き合ってもらうことになった。

 最初は純情そうな一年生をからかってやろうくらいの気持ちでいたのだが、気が付けばいちいち反応がうぶな美月にはまっていっていた。

 「えっ、こんな高価なもの頂いていいんですか。」

 付き合って初めての誕生日にネックレスをプレゼントしたときの第一声がこれだった。

 これまでに付き合った女は、大抵、良くてありがとうと言い、悪いときにはセンスないなあと言われたこともあった臣吾にはその反応が新鮮だった。

 付き合ってからも美月は変わることなく、いつも控えめな笑顔で謙虚だった。

 それでいて、芯があった。

 小学生の教員になりたいという夢をかなえるために、勉強はもちろん、小学校でのボランティアに参加したり、セミナーにも積極的に参加したりしていたのだ。

 そういった美月の姿勢に影響されて、無事留年も免れ、公務員になるために試験勉強を頑張れたのだと臣吾は感じていた。

 「支えてきてくれてありがとう。美月のおかげで、俺、人生建て直せたと思う。これからも一緒にいてください。」

 美月の大学卒業と同時にプロポーズをした時、美月はいつもの控えめな笑顔ではなく、はち切れるくらいの笑顔で、

 「はい。」

 と言って涙を流した。

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