第3話 青天の霹靂

 休日、病院へと向かう臣吾に、

 「大丈夫?」

 と心配げに声をかけてきた美月を思い出す。人の気も知らないで、と怒りがこみあげてくるのを抑えながら、

 「ただのコンタクトの受け取りだよ。」

 と臣吾は返したのだった。目を見ることはできなかった。

 「あ、今日昼直樹と約束してるから。ひなと遊んであげられなくてごめんな。」

 大学時代の友人の名前を出し、臣吾は逃げるように家を後にした。

 悪くない自分がこそこそとしなければならないのに情けなく感じていた。おそらく悪いのは妻なのに、それをはっきりと問い詰めることができない自分に苛立ちも感じていた。また、そのせいでせっかくの休日に何も悪くない娘のひなに構ってやれないことも。

 それでも、結果が出るまでは分からないから、という期待から、結局妻にこのことを打ち明けられないまま、臣吾はまた例の診察室の椅子に座っていた。

 なんとなく居心地が悪いのは、椅子の硬さのせいなのか、これから知らされる結果に対する緊張のせいなのか、あるいはその両方によるものなのかは分からなかった。

 気を紛らわせようと、診察室を見回すが、隣にある簡易的なベッドも、無機質な薬類もかえって臣吾の居心地の悪さを増長させていくだけだった。

 症状や最後にセックスした日にちから予想はしていた病名を医師は言った。

 「クラミジア感染症ですね。」

 やはり、と言う気持ちだった。

 「クラミジアは、薬をきちんと服用していただければ治ります。今から別室で飲んでいただきます。二、三週間後にもう一度来ていただいて完治しているか確認します。」

 初めてこの椅子に座った時と同じ、冷たい絶望感は、足元から臣吾の胸あたりまで到達していた。完治する、だとか、一回薬を飲むだけで大丈夫らしい、だとかそういった問題ではないのだった。

 心の準備はしてきたつもりだったのに、心臓が早鐘を打ち、背中には一筋の汗が流れている。

 「次回来院はいつがご都合いいですか?土曜日だと、再来週の十時からはいかがでしょう。」

 「あ、はい。じゃあそれで…。」

 臣吾には都合がいいかどうかを考える余裕すらなくなっていた。

 そうなのではないか、という疑いは病院に来る前から持っていた。しかし、はっきりと結果が出るまでは美月を信じたい気持ちが勝っていた。

 なにか重大な病気だったほうがいくらかましだったかもしれない、と臣吾は震える手で薬を飲んだ。

 「パートナーには…?」

 臣吾が診察室を後にする直前、医師は控えめにそう聞いた。

 目を伏せた臣吾に、医師は、

 「話しにくいとは思いますが、不妊につながる可能性もありますのできちんと話し合いされてくださいね。」

 といった。あるいは医師は、臣吾に何か後ろめたい事情があると思っていたのかもしれなかった。

 しかし臣吾はそれに対して誤解を解くほどの元気もなく、軽く会釈だけして診察室を後にしたのだった。

 案内された部屋で、臣吾は薬を飲んだ。誰もいない部屋で薬を飲むだけで治るらしいこの病気は、しかし、臣吾の心をじわじわと蝕んでいた。

 いつから、なぜ。

 昨日渡されたパンフレットに目を通してからは、その疑問だけがずっと頭の中を回っていた。パンフレットを職場のデスクに押し込めて帰宅したものの、感情まではどう頑張っても押し込めることができなかった。

 どうにか薬を飲み終え、会計を済ませて外に出る。

 青天の霹靂という言葉を思い出したのは、クリニックから出たときに見上げた空が突き抜けるように青かったからだろう。

 

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