妖精の窓辺で歌ったころ
下村アンダーソン
Chapter I: Arriving Somewhere But Not Here
1
入口は昏かった――黒く生い茂った木々がわずかに左右に分かれて作られた小路を、そう呼ぶことができるなら、だけれど。
「やっぱりこっちじゃん?」
手許を覗き込んできた姫室理宇が、私の持っていた地図の端を掴んで回転させながら言う。フリーハンドで描かれた曲線と、眼前の緩やかなカーヴとを見比べて、
「あとは道に沿って行けばよさそうだね。再会は間近だ」
「ほんと?」
と思わず訊ねたが、なにを問いたかったのか自分でも判然としなかった。なにを今さら、とでも言うような顔で理宇はこちらを見返してきて、
「間違いないって。二十分後には抱き合ってわんわん泣いてるから。ハンカチすぐ出せる?」
「大丈夫」
応じながらポケットに手をやった私に、彼女は重ねて、
「歩くのが十分、この家って確認して呼び鈴を押すまでに五分、顔を合わせてお互いにそうって確信するまでに五分」
「十分で着く距離なの?」
「予想」
「予想だけ?」
「だってさ、大事な孫にこんな山道何時間も歩かせる? 地元の人が使う近道なんだよ、きっと。だったらせいぜい、五分か十分じゃない?」
一理あると感じたが、私は曖昧に頷くにとどめて、
「なんだか悪戯って感じがしてきた。ほんとにお祖母ちゃんから送られてきた手紙なのかな」
「そこ疑う? 一ノ瀬まつりさんって言うんだっけ、とにかくその名前を使って、柚葉をここまで呼びつけるメリットがある人って、他に誰かいる?」
「いない――とは思うけど」
ははん、と理宇が悪戯気な声をあげる。
「緊張してるんだ。心の準備がまだできてないんでしょ?」
不意を突かれたようで、私は慌てた。顔の前で掌を振って、
「別に、そういうわけじゃ」
「分かるよ。当たり前だよね。私が柚葉の立場だったら心臓爆発しちゃうもん。ちょっとゆっくり歩こうか」
理宇が笑む。無意識のうちに見栄を張っていたのが、彼女にはお見通しだったようだ。電車に揺られているあいだからしきりに胸を掠めていた、どこか謀られたような思いは、指摘されてみれば緊張に他ならなかった。そうと認めると、途端に鼓動が速くなりはじめた。
「まつりさんってお母さんのお母さん?」
ゆったりとした調子で歩みを進めつつ、理宇が傍らの私に向けて問う。
「うん。私はほとんど覚えてないけど」
「ほとんどってことは、少しは記憶があるの?」
「顔も分からないけどね。ただお母さんじゃない人に抱かれながら、すごく大きい窓を見てて――歌をうたってもらった。それがお祖母ちゃんだって確信だけがあるの」
語るうち、夢の一場面めいた感覚が脳裡に甦った。白い壁紙と天井、窓の向こうに広がった風景、異国的な旋律。どうにも現実離れしているようなのに、間違いなく自身の体験と断言できるから、幼少期の記憶というのは不思議である。
「なるほどね。じゃあ、声を聞いたらお祖母ちゃんだって分かる?」
「どうだろう。仮に会えたとしても、もう十五年くらいは経ってるわけだし」
「声ってそうそう変わらないんじゃない? 孫を寝かしつけるときの歌を、ここでもう一回歌ってくださいって頼んでみれば。きっと思い出すよ」
事の発端となった手紙は、書類が山積してパンク寸前となっていた自宅の郵便受けから、私が発見したものだ。唯一の同居人たる母の、ずぼらの虫が頭をもたげ続けていた時期のことである。ひっそりと届いたそれはなんの変哲もない茶封筒で、見落とさなかったのはちょっとした奇蹟と呼ぶほかはない。あれ、と気になって手に取ってみれば、一ノ瀬柚葉さま、と宛名が書かれていた。
生き別れたにも等しい祖母からの手紙は、いっとき私を高揚させた。しかし時間を経るうちに、昂揚に疑念が混じりはじめた。なぜ私が十六歳になった今なのか。運よく会えたとして、なにをどう話すべきなのか。そもそもこの手紙からして、本物だとは限らない。考えれば考えるほど混乱した。
母に相談するつもりはなかった。良好な関係とは思いがたい。連絡を取ってきた様子もむろんない。余計な穿鑿をして母の機嫌を悪くするのはなんとなく厭だったし、彼女の口から真相を明言されてしまうのも怖かった。そういった事情で、私は身動きが取れなくなってしまったのだ。
そんな停滞を打破したのが、幼稚園時代からの友人である姫室理宇だった。ここしばらく様子が変だが悩みでもあるのかと、彼女らしく直截に訊ねてきた。事情が複雑なのだと濁そうとすれば、
「誰? 私の知ってる奴?」
「ううん、理宇は絶対知らない人」
「どんな奴? どこで知り合ったの?」
「いきなり手紙が来たの」
「まじ、ラヴレター?」
最後の問いに至ってようやく、恋愛絡みの悩みと勘違いされていたことが知れた。まるで違う話だと告げると安堵したようだったが、真実を隠しておくのも申し訳なくなっていっさいを打ち明けてしまった。すると理宇はあっさり、
「夏休みに入ったら、会いに行ってみようよ。私も一緒に行く。もちろん話のあいだは、ふたりっきりにするから」
不意に風が起きた風が、私たちの髪をなぶった。運ばれてきた森の、濃く深い匂い。ざわめくような葉擦れの音。複雑に錯綜しながら差し入る陽光を浴びた、理宇の横顔。
「地図、もう一回見せて」
頷いて、そのまま渡した。彼女の手が向きを微修正する。
「柚葉のお祖母ちゃん、似てるかな」
「少なくとも、私とお母さんはあんまり似てない」
「隔世遺伝ってことも。どっちにしろ、もうすぐ分かるね。あと五分ぐらいの――はず」
理宇の予想も虚しく、森の景色はいつまでも絶えなかった。目印の小路は確かに続いているから、見当違いをしているわけでもないらしい。地図上では大胆な省略がなされていると解釈することにして、私たちは行進を継続した。引き返す気にはならなかった。
もとより細かった道がますます細くなり、折れ曲がった。先には荒れ放題の藪が待ち構えているのみである。道の途切れた箇所で立ち止まり、理宇と顔を見合わせた。
「行き止まり?」
「いや、この向こうなんだよ。ほら」
差し出された地図を受け取った。どうやらその通りである。理宇は背伸びしたり左右に移動したりを繰り返しながら、藪の奥を覗こうとしはじめた。私もそれに倣う。しかし密集した枝や葉に遮られて、ほとんどなにも分からない。
あれ、と理宇がつぶやいて、私を手招いた。隣に立ち、彼女の指差した先に視線を向ける。
「なんか建ってる。あれじゃない?」
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