第33話 末永栞李の『精一杯』


「……って、アンタそれ、やっぱり相手のことナメてたんじゃないのよ!」

「ん? あー、言われてみればそういうことになるか」

「しみじみ言うな! アタシがあれだけ注意したのに」


 優姫乃がどれだけキツい口調で咎めても、陽野涼はからからと笑っているだけで一向に反省する素振りを見せなかった。


「まあ済んだことは置いといてさ、今はこのピンチをどう抑えるかの話をしようぜ」

「アンタ、本当に自分勝手ね……」


 呆れ顔を浮かべる優姫乃に構いもせず、涼は不意に真剣な表情を覗かせた。


「アタシはもう少し、“ナックルカーブ”を増やしたい」


 その言葉につられて、優姫乃の表情かおもわずかに強ばった。


「スライダーを狙い打たれたのだって元はと言えばナックルカーブこの球を温存してきたからだし、アタシはもうマメの不安はない。何より、|陽野涼という投手アタシにとっては欠かせない球だ」


 この試合中陽野涼が“ナックルカーブ”を投じたのは先頭のメイ・ロジャースに対しての1球のみ。その球種は夏の大会を前に指先のマメが再発しないよう、練習試合では極力使用することを避けてきた。しかしそれは監督である大柿紫と大矢優姫乃が話し合って決めたことであって、投げる本人はこれまでも納得はしていなかった。

 多彩な変化球を操る陽野涼にとっても、“ナックルカーブ”という球種はチェンジアップと並んで絶大な信頼をおける決め球ウイニングショットだったのだから。


「マメを潰したあの日から湯船に入る時は指先を浸けないようにしてるし、ツメのケアも毎日忘れずにしてる。もう二度と同じ失敗はしねーから、もっとサインを出してくれ」


 いつになく真剣なエースの眼差しに圧され、ついに葵も諦めたように息を吐き出した。


「まあ、どうせ夏の大会までにはリハビリしとかないとって考えてたところだし、少しずつでもノってきてるアンタの邪魔はしたくないしね」

「よしっ! それじゃあよろしくな」

「ただし、配球のレパートリーを本来いつも通りに戻すだけよ。アンタの気分に流されていきなり連投させたりはしない。首振り続けてればカーブのサインを出す訳じゃないから、それだけは間違えないで」

「はーいはい。それくらいわかってるって」


 優姫乃の賢明な忠告など尊大なエースにはこれっぽっちも届いていないようだった。


「アンタはもういいわよ。内野手のみんなは打者走者をアウトにすることを優先していきましょう。走られても打順はまだ下位だし、ここできっちりイニングを終わらせるわよ」

「了解!」

「オッケー!まかせて!」

「それじゃあまだ回は浅いけど、集中していきましょう!」

「『おおッ!!』」


 大矢優姫乃は内野守備の最終確認を行って、それぞれのポジションへと去っていった。

 ピンチの場面で1人マウンドに残った陽野涼エースにはこれまでのような集中力に欠ける仕草もなく、旅人の前に聳える大自然かのように高圧的な存在感プレッシャーを放っていた。

 相対する末永栞李も、今一度葵のサインを確認してから打席に入った。


「プレイっ!!」


 先の栞李のバントは結局ファールになってしまったため、局面は変わらずランナー1塁3塁。


「ランナー走った!!」


 その初球、陽野涼が投球モーションに入ると同時にまたしても1塁ランナーの芝原あやめがスタートを切った。そして、打席の栞李も同じくバントの構えを見せる。


「……ボール!」


 しかし、その1球はアウトコースのボールゾーンへ大きく曲がり、栞李も届かないと判断してバットを引いた。

 それを捕球した大矢優姫乃は送球の姿勢にも入らず、ランナーは悠々と2塁へ到達した。


「よしっ! 盗塁成功!!」

「ナイスラーン! あやめちゃん!」


 この場面を作り上げたことは明姫月にとって理想的な展開だったはずなのだが、土俵際に追い込まれていたのはむしろ明姫月のほうだった。


「ここから先はシオリちゃん頼みか……」


 葵としては盗塁ケアと打者勝負のどっちつかずでいてくれたほうが付け入る隙を見つけられただろう。しかし、今の蘭華バッテリーは完全にランナーの盗塁を捨てて打者との勝負だけに集中している。高校に入学して1ヶ月の8番打者と、これまで数々の修羅場を潜り抜けてきた経験豊富なバッテリーとではどちらに分があるかなど火を見るより明らかだった。


「シオリちゃん! ここ1本! 集中していこう!!」


 葵からの声援を片耳にいれながら、栞李は無茶なこと言うなと内心で悪態をついていた。

 1球前のスライダー。明らかにこれまでの投球とはキレもスピードも初球とは違っていた。ストライクゾーンから遠く離れた投球だったのに、ギリギリまでバットで追いかけそうになってしまった。このチャンスを逃したら二度と得点できないのではないかと思うほどの圧倒的な実力差を悟り、素肌がヒリヒリと焼けるような錯覚を覚えた。

 対策を考えつく間もなく、完全に受け身の状態で迎えた3球目。絶妙なコースにスライダーが入ってきた。


「ふッ……ぐ」


 2球続いたスライダーに栞李はスイングすることができなかった。というより、陽野涼の迫力に気圧されてバットが出てこなかったのだ。


「……ボール!」


 しかし、幸運なことに球審の右手は上がらなかった。大矢優姫乃は捕球した位置からミットを動かさずアピールしていたが、判定は変わらない。

 兎にも角にも、これでボールカウントは打者有利の2ボール1ストライクヒッティングカウント。次の1球、このバッテリーがスライダーを3球も続けることは考えにくいため、最も可能性が高い球種は速い球ファストボールだろう。ストレートか、ツーシームか。いずれにしても得意なコースだけに目をつけて、振り負けないように強く振る。それだけに意識を置いて、栞李はバットを強く握り直した。


「……」


 優姫乃はそんな栞李のわずかな変化も見逃さなかった。直後に彼女が出したサインを見て、マウンド上の陽野涼はわずかに頬を緩め頷いた。


「んッッ!!」


 力強い腕の振りから繰り出された1球は栞李が目付けしていた真ん中高めのゾーンへまっすぐ飛び出した。

 狙い通りの絶好球を逃すまいと、栞李が懇親の力を込めてスイングをかけようとした瞬間、白球は空気を裂くような勢いで大きく曲がり落ちた。


「……ッ!?」


 そのことに気づいた時にはもう、栞李のバットは空を切っていた。


「ストライク! ツー!!」


 空振りしてすぐ、その球種のキレに驚かずにはいられなかった。

 陽野涼の決め球の1つである“ナックルカーブ”。右打者の身体から逃げるように鋭く曲がり落ちるその1球に、栞李は為す術もなく空振りを喫してしまった。


「カーブ……どうして私に」


 というのも、この打席の前まではその球種を使うのはメイ相手にだけだと勝手に思い込んでいた。そんな思いもよらぬ球で、見るも無惨な空振りを奪われたことは栞李にとって忘れたくとも忘れられない生傷になってしまった。

 頭では忘れよう切り替えようとしていても、身体が同じ空振り失態をどうしようもなく恐れていた。この状態では、例え次に全く違う球種が来ようとも身体がナックルカーブの幻影に怯えて、まともにスイングできないだろう。

 カウントは2ボール2ストライク。もう、後がない。



「────栞李っ!」



 打席の中ですっかり追い詰められていた彼女の名を呼んだのは、耳に馴染んだ倭田莉緒菜の清かな声だった。ベンチ前で次のイニングに備えて肩を温めていた彼女はわざわざその手を止めてまで、栞李の打席をまっすぐ見つめていた。

 重く据えられたその瞳を見て少し、ほんの少し栞李の背筋が震えた。

 そして、思い出した。自分が何のために今日、ここに立っているのか。

 格上の相手と同じ土俵に立とうと焦り、知らず知らずのうちに相手にも自分にも見栄を張ろうとしていた。チームの期待に応えようと、過度に自分自身に期待をかけていた。

 莉緒菜のように狂おしいほどに自分を信じて立ち向かうことはできなくとも、今の自分のままでほんの少しでもチームの力になれることを探そうと割り切れたことで、いくらか心が軽くなった。

 結果として、末永栞李は余計な不安感情的負荷を思考から排除し、目の前の1球だけに集中できるような理想的な精神状態に辿り着いた。


「……ふッッ!!」


 そうして迎えた5球目、マウンド上の陽野涼が渾身の腕の振りから投じられた白球は真ん中やや低めへの軌道に入った。その軌道は完全にストライクゾーンに入っているように見えたが、栞李は振りにいく素振りも見せずあっさりと見送った。


「ボール! スリー!!」


 栞李が見逃した1球は陽野涼のもうひとつの決め球チェンジアップだった。

 コースもキレも抜群だった1球をいとも簡単に見逃されたことには、捕手の大矢優姫乃も少なからず驚いていた。

 涼が投じた球は全国の猛者相手にも空振りを量産してきた絶対的な決め球。それも打者がスイングせざるを得ないような完璧なコースから落とした1球を、あろうことか余裕を持って見逃されたのだ。

 そうなるとまず考えられるのは、末永栞李打者がチェンジアップを強く警戒し、低めのボール全てを見逃して斬り捨てていた可能性。落ちる球を武器とする涼に対して、同様の対策を立ててくる選手はこれまでも一定数いた。しかし、この作戦には明確な弱点が存在した。


 それは低めの速球にも手が出なくなってしまうこと。


 チェンジアップを振りに行かないよう意識するあまり、低めのボールに対する反応が極端に悪くなってしまうのだ。それを利用され速球で簡単にストライクを奪われた打者は、今度はその速球を無視できなくなり、同じコースから落ちるチェンジアップをまた空振りしてしまうようになる。

 涼と優姫乃のバッテリーはこの組み立てを駆使して、これまで幾度となくチェンジアップを警戒する打者たちを手玉に取ってきた。だからこそ、続く1球のサインは迷うこともなくスムーズに決まった。


 “低めいっぱいのストレート”


 この1球で見逃し三振を奪う。2人はその結果未来を疑いもしなかった。



 ────キィン!



 しかし、末永栞李はその1球をバットに当てた。

 長打を狙うような渾身のスイングではなかったものの、何とかバットにボールを当て白球をファールゾーンに飛ばした。

 この1球をカットされるとは思ってもいなかったバッテリーは思わずお互いに顔を見合わせたが、それでも確信めいた自信が崩れることはなかった。

 それは、そもそもこの1球の目的は“三振を取ること”ではなく、“低めのストレートを意識させること”であり、続く決め球本命のチェンジアップをスイングさせることであったからだ。

 陽野涼と大矢優姫乃蘭華バッテリーはその配球パターンをお互いに頭の中で共有できていたため、次の1球のサインを交わすのに時間はかからなかった。


「……ふぅ」


 直前の1球を何とかファールにしたとはいえ、ストレートにスイングを崩されたという事実は変わらない。打者は必ずその残像を修正すべくスイングの始動を早く取るようになる。それは打者としての本能であり、打席で結果を残すために必要とされる心の持ち様マインドセットだった。

 だからこそ、2人には確信があった。この1球チェンジアップは必ず空振りを取れる。後はコントロールミスにだけ気をつければいい。優姫乃はホームベースの後ろからその事を目一杯表現していたが、マウンドの上の涼にとってはそれも過ぎた心配だった。


「んんッッ!!」


 その1球が涼の指先を離れた瞬間、優姫乃の杞憂は吹き飛んだ。球速・回転数ともに理想的なブレーキがかかっており、ストレートと同じ軌道からゾーンの外へ沈もうとしていた。

 末永栞李も低めいっぱいへ向かう投球に対して、ステップを深く踏みスイングを繰り出すかに見えた。


「なっ!?」


 しかし、彼女はまたしてもスイングの途中でバットを止めた。


「スイング!!」


 栞李の中途半端なハーフスイングに対して、優姫乃はすかさず1塁塁審に判定チェックを求めたが、その右手が上がることはなかった。


「よしっ! よく見たよ! シオリちゃん!」

「ナイスセン! 栞李〜!!」

「フォアボール! これで満塁っ!!」


 ツーアウトで、ランナーを溜めた状態で、下位打者に対しての四球フォアボール。それは考えうる限り最悪の打席結果だった。

 もちろん、バッテリーが勝負球に選んだ球種チェンジアップにそのリスクがあることは重々承知していたものの、過去の経験と現在いまの肌感覚から優姫乃は自信を持ってその球を要求し、涼も迷うことなく腕を振った。

 反省すべき点はあっても、その1球に後悔はなかった。


「やられたわね。あの娘があんなにがいい打者だとは思わなかったわ」

「んー、アタシには眼がいいって言うよりあの1球チェンジアップはハナから打つ気がなかったように見えたけどな」


 何気ない涼の一言で、優姫乃はこの打席における栞李の真の目的に気がついた。


「なるほど。あの子の本当の目的は“自分が先制点をあげること”じゃなく、“自分の打席でイニングを終わらせないこと”だったのね。現にこれで2アウト満塁。これでもし9番打者にヒットが出れば先制点を取った上でメイ・ロジャースチームのベストヒッターに打順を回せる。先制できなかったとしても、次の回は1番打者最もいい形から攻撃を始められるって訳ね」


 そのために末永栞李は打って返すという“欲”を捨て、ゾーン内の速い球はファールで逃げ、誘い球の変化球に手を出さないよう徹底していたのだ。

 頭で理解するのは簡単でも、実際に打席の中でそこまでハッキリ割り切るのは勇気がいる。誰しも打席に立てばヒットを打ちたいし、三振を喫したくはない。それがチャンスの場面であれば尚更だ。

 そんな場面でも末永栞李が“欲”を捨てきれたのは、過去の挫折による自尊感情の欠如からくるものだったが、蘭華バッテリーはそんなことを知る由もなく。


「イヤな打者バッターね。もっと強いチームにいればああいう選手は重宝するんでしょうけど……うん、なるほどね。あの子はをする選手なのね」


 優姫乃はゆっくりと1塁に進む栞李を惜しむような瞳で見つめていた。


「よし! 反省はここまで! 切り替えましょう。わかってると思うけど、絶対に次の打者で終わらせるわよ! メイ・ロジャース1番に回したら『もしかしたら』がありえるからね」

「え、今反省してたのか? アタシにはタラタラ言い訳してるようにしか……」

「いいからアンタも気引き締め直しなさい! ここ絶対抑えるわよ!」

「……アタシやユズが言えたこっちゃないけど、ヒメ様もだよなぁ」

「うるさい! 何か文句ある!?」

「や、好きだけどさぁ……ヒメ様のそーゆーとこ」


 照れ隠しのように白球を涼のグラブへ押し付けて、優姫乃は再びキャッチャーマスクを深く被った。


「これ以上、好き勝手させないわよ。絶対に先制点はやらない」

「んー。分かってるよ」


 相変わらず締まりのない言い争いを繰り広げていた2人だったが、それぞれのポジションに戻る時にはもう近寄りがたい程の威圧感を取り戻していた。

 このイニング、ここまで明姫月の打線に好き放題攻められ、先制点の1歩手前にまで迫られた。蘭華女子の選手として誇りを背負う2人がやられっぱなしのまま黙っているはずがなかった。


「ストライク! ワン!!」


 初球はボールゾーンから切れ込んでくるツーシーム。ストレートと同じ球速帯から大きく曲がり込んでくる1球に、明姫月9番打者ラストバッターの橋口成美は全く反応できずワンストライク。

 右打者の彼女から見るとバックドアと呼ばれる球でカウントを稼がれ、続く2球目も同じようなコースからストライクゾーンへ入り込んでくる球が続いた。


「ッッ!!」


 今度は逃すまいと必死にバットを伸ばしたが、白球はそれを嘲笑うかの如く失速しスイングの下へ沈んだ。


「ストライク! ツー!!」


 ──チェンジアップ。

 1球目のツーシームと同じような軌道から大きく落ちるその球を空振りし、ツーストライク。

 ツーシームファストボールチェンジアップオフスピードピッチと効果的に見せられたことで、成美は続く決め球を絞ることが出来なかった。


「んッッ!!」


 陽野涼が投じた1球は強烈な回転スピンを得て、ストライクゾーンを斜めに切り裂いた。



「────ストライーク! バッターアウト!!」



 内角高めインハイから外角低めアウトローいっぱいまで大きく曲がるナックルカーブに手が出ず、成美はたったの3球で見逃し三振に倒れた。


「──っしゃああ!!」


 陽野涼の派手なガッツポーズに呼応するように、深刻な表情で見守っていた応援スタンドからもその投球を祝福するような歓声が上がった。


「まったく……相変わらずエンジンかかるの遅いのよ」


 大ピンチを凌ぎきり、堂々とマウンドを降りるエースをベンチ前で真っ先に迎えたのは、やはり捕手パートナーである大矢優姫乃だった。


「けどまぁ、ナイスピッチ。

「ん。ありがとー、


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