第15話影の中の犠牲者
五月二十六日、松原は株式会社DNAに出社した。部署に向かう中、こそこそと自分の部署の悪口をいう人たちを何人も見た。
「もう慣れたけどね・・・。」
松原は、もう罵詈雑言などどこ吹く風と思える程慣れてしまった。ただ悪口が許せるかと問われると、答えはいいえになる。エスカレーターに乗りこみ、今日来る矢島について考えた。
「やはり矢島は、ここを辞めるのか・・・。矢島は腕のいいイラストレーターだったのに・・・、失うのは惜しい。」
矢島がノイローゼの療養のため五月末で辞職することは、前日に人事部の月野から聞かされた。矢島は明るい性格なので、彼女が辞めると部署内が寂しくなる。
「初めて彼女と仕事した時、彼女のデザインを見た時の衝撃は忘れられない・・。ああいう人を職人というのだなあと思ったよ・・。」
彼女が来たのは二千十八年の秋頃、一年半ほどの勤めであった。エスカレーターから降りると大門を見かけたので、挨拶をすると大門はこう言った。
「そういえば人事部から聞いたけど、矢島が今日辞表を持ってくるそうじゃないか。ノイローゼになったのは気の毒だけど、自己都合退職だから安く厄介払いが出来てよかったよ。」
大門は上機嫌に吐き捨てながら言った、松原は大門に対して初めて殴りたい衝動を感じた。松原は不機嫌な顔で部署に入ったので、みんなの注目を集めた。気になった高守は、控えめな音量で声をかけた。
「松原さん、一体どうしたんですか?」
「えっ、どうという事は無いよ?」
「そうですか、怖い顔してたからつい・・・。」
「ああ、ごめんね。大門から矢島について一言いわれたから・・。」
「何て言われたんですか?」
「ノイローゼになったのは気の毒だけど、自己都合退職だから安く厄介払い出来てよかったってさ。」
「はあ!?何ですかそれ、いくらこの部署のせいで泥を塗られたからって、そんな言い方ありえないですよ!!」
高守の言葉に部署の女性社員が賛同した。
「矢島先輩にそんな言い方するなんて・・。私、大門専務に一言言ってきます。」
川辺明が部署から出ようとしたので、高守と松原がなだめた。川辺は冷静になれたが、悲しそうに呟いた。
「でも・・・矢島さんが可哀想すぎますよ。せめてお別れ会がしたかった・・。」
それはこの部署の女性社員全員の気持ちだった、矢島はこの部署のムードメーカー的存在で、誰も彼女に不快感を感じる者はいなかった。そんな社員だから明るく送り出したかったのだが、「ノイローゼ状態では彼女もみんなも楽しめないし、そもそも参加する気力すらない。」ということで無しになった。
「気持ちは分かる、僕も矢島さんにはここで働いてもらいたいと思ったよ・・。」
松原はそういうと、自分の席に座って仕事を始めた。それから十数分程して、矢島が一週間ぶりに部署内に現れた。
「おはよう・・・。」
松原が挨拶をすると矢島は会釈するだけだった、一週間ぶりに見る矢島はムードメーカーの面影は無く、全身がやつれそれが表情に現れていた。ノイローゼという病が、人をここまで変えてしま事を松原は感じていた。矢島はバッグから辞表を出すと、松原のデスクの上に置いた。
「こんな形で辞めることになってしまい本当に申し訳ありません、今までありがとうございました。」
矢島は普通の音量で言ったが、ノイローゼの彼女にとっては精いっぱいの声なのだろう。
「矢島さん・・・今までありがとう。療養、頑張ってね。」
「矢島さん、今までありがとう。」
「矢島先輩、これからも頑張ります!本当にありがとうございました!!」
高守と川辺に続き他の社員が、矢島に別れと感謝の言葉を告げた。矢島は喋らなかったが社員全員に会釈で感謝を示した。そしてやりきれない雰囲気の中、矢島は足を一歩づつおぼつかないながらも、踏み出しながら部署から去って行った。
五月二十八日、寛太郎はルーティンを終え自宅のベッドでのんびり過ごしていた。外出を控えているおかげか、今の所体に問題は無い。ただ警察から疑われている事実は健在で、昨日美麗からそのことについて電話でいろいろ言われた。
『寛太郎、あんた事情聴取を受けたって本当なの?』
「うん、ていうか母さんのとこにも来たんだ。」
『当り前よ、あんたの事について色々聞かれたわ。ねえ、本当に個人情報とかを流したの?』
「そうだけど、俺が抜き取った訳でもないし、第一俺は個人情報を抜き取った奴の顔すら見てないもん。」
『だったら何で封筒が来た時に、無視して処分しなかったの!!』
美麗の声がヒステリックになったところで、寛太郎は受話器を置いた。寛太郎はもう家族とは関わらないつもりでいた、一人で生計できるし仲直りする必要は無い、もし絶縁を持ちかけられたら喜んで応じるつもりだ。
「別に育ててくれたことは感謝するけど、ろくでもない親父の死を利用してまで金を稼ごうとする精神が許せないんだ。」
もう他人が何と言おうと仲直りしないと寛太郎は決めていた。その頃世間では、コロナウイルス関連のニュースに次に、去年京都府伏見で起きた京アニ放火事件の犯人とその詳細が明らかになったことが報じられた。寛太郎は中高生時代、京アニのアニメにハマっていた頃があったので、犯人が逮捕されたことを心なしかほっとしている。そうしていた時、また電話が鳴った。
「もしもし?」
「もしもし、俺だよ。」
「藤野か、一体どうしたんだ?」
「それはこっちのセリフだよ。お前、DNAの情報流出事件にかかわっているって本当か?」
「ごめん・・・、藤野の言う通りだ。まさかこんな情報を流していただなんて思わなかった・・・。」
「そいつの目的は何だ?」
「はっきりとは分からないけど、DNAに復讐するのが目的だと思う。」
「なるほど、盗んだ情報を公にするために、寛太郎を利用したという事か・・・。」
「本当にいい迷惑だよ・・・。」
「ところでそいつは盗んだ情報を、どうやってお前に送っているんだ?」
「速達郵便、でも名前と住所がバラバラになっている。」
「もしかして届いている速達は、二通以上ということか?」
「うん、複数人いるという事かな。」
「そうとう恨まれているなDNA・・・。それでそいつらは、どうやって寛太郎の郵便番号とか住所を知ったんだ?」
「おそらく質問コーナーの告知の動画を見たんだと思う。」
「ああ、俺も応募したことある。なるほど、そこからか・・。それでそいつから、速達は届いているか?」
「いや、今のところは届いていない。」
「良かった・・・、もし届いたら絶対に公開するなよ。今度こそ警察に捕まるかもしれないからな。」
「分かった。」
寛太郎ははっきりと言った。
「じゃあ、またな。」
「うん、またね。」
通話を切った寛太郎は、ため息をついた。とうとう友人にも知られてしまったことを実感したからだ。
「犯罪を犯すってきっとこういう感覚なんだろうなあ・・・、いつの間にかセーフティーラインを越えていたんだな。」
寛太郎はハラハラとビクビクが交わった緊張感を感じた、そして落ち着くために自然とベッドの中へと飛び込んだ。
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