第5話

「ふわぁ〜……。なんだか眠たくなってきました」


「もうそろそろ家に着くから、そしたらそのまま寝ちゃえよ」


「いえ、お風呂に入ってないです」


「おお、そうか。じゃあ風呂入ってさっさと寝ろ」


「はーい」


 無事仕事も終わり、街灯を辿って夜の街を歩く。

 治安は悪くないとはいえ、ここをエル1人で歩くことになるのは危険すぎる。エルを1人にしないでマジで良かった。

 事件の話を聞かないわけじゃないし、万が一っていうのがあるからな。

 遠くに古ぼけたアパートが見えてきた。あれが俺の住んでいるアパートだ。

 所々レンガが欠けていて、色褪せている。二階建ての古い建物だ。大きさは大体大きめの一軒家2つ分くらいで、トイレや風呂など最低限のものは揃っているので設備は見た目ほど悪くない。

 俺はその2階に住んでいる。

 家賃結構安いし、ここにはマジで助かってる。このおかげで生きられていると言っても過言ではない。

 階段を上がって、セメントの臭いから逃げるようにして、玄関の鍵を開けた。

 

「ほい、着いたぞ」


「お、お邪魔します」


 玄関に上がったエルは、少し肩が硬くなっていた。


「別に緊張するほどの場所じゃないと思うけど」


「い、いえ。人の家にお邪魔するのは初めてなので」


「そうなんだ。まあ、期待したって面白いものは何も無いけどな」


 というか、本当に何も無いんだよな。


「あ……あれ? 何も無いですね」


 うん、分かってる。分かってるからそんなこと言うな。

 俺には金がない。

 だから家具が買えないんだよ! 服も最低限しかないし! 食器もないし!

 唯一あるのは最近全く使うことが無くなった机と、異世界に転移して直ぐに俺を拾ってくれた人から貰ったベッドくらいだ。


「ああ、ごめん。まあ、ベッドなら使っていいから。俺は床で適当に寝るし」


「ダメですよ師匠! 師匠がベッドで寝るべきです。そんな硬い所で人が寝れるわけないじゃないですか」


「いや、寝れるけど」


「寝れるんですか!?」


 なんか一々オーバーなリアクションで面白いな。

 あれだな、カルチャーショックってやつだな。絶対違うけど。


「まあ、良いです。では、お風呂を貸してもらいますね」


「おう、分かった」


 エルはとてとて歩いて風呂場へと向かった。 

 そういえば、あいつ今タオルも服も持ってってなかったよな。

 タオルはどうでもいいけど、いや、どうでも良くないけど! でも服持ってってないってどういう……。

 はっ! まさか!! こいつあれだ、そういうの全部使用人に任せてたパターンのやつじゃないのか?

 つまり、あれか? 俺に持ってこいと?

 ――出来るか!!

 間もなくするとシャワーの蛇口を捻る音や、滴る水の音、そしてたまーに漏れるエルの声を聞こえてきた。

 なんだこれ、どういう状況なんだ。

 この謎の状況下で、俺はぼーっと時間を過ごしていた。

 

「……なんだこれ」


 本当になんだろう。ロリとかそういうのは関係なく、家族でない異性が風呂場に居るって変な気分だな。しかもこれから一緒に過ごすわけだろ? 

 ……いや、別にやましい気持ちはないぞ?

 こういうのって、現実に無いものだと思ってたけど有り得るんだな。

 いや、異世界だからこそってことか?

 

 ガチャッと扉の開く音が聞こえ、俺は思わず振り向いた。

 

「し、師匠。その……」


 ひょこっと風呂から顔を覗かせたエル。

 ホカホカと湯気がたっていて、なんかちょっとエロい。

 勿論、何も準備してないから隠れた首から先は……ダメだ考えるなよ俺。


「すみません。良ければタオルをお貸しして欲しくて……。あと、カバンを取っていただけると……」


「おう、分かった」


 なんてことだ。ロリ如きにここまで私生活を狂わせることになるとは……。

 結構マジでシャレにならん。本当に気が休まらねぇぞこれ。

 

「ほい、持ってきたぞ」


 出来るだけエルに目を合わせないようにしながら、腕をググッと伸ばしてカバンを渡した。

 寿命が2億年くらい縮んだ。


「ありがとうございます」


 直ぐに引っ込んで、ドアを閉めた。その瞬間見えた桃色で瑞々しい肌。

 ……くっ右手が疼き出してやがる!!

 いや、手出すなよ。俺。

 ああでも! あの純粋な瞳が憎たらしい!

 悶々とした時間を過ごしていると、また扉が開いた。

 え……めっちゃ綺麗やんけ。

 思わずエセ関西弁が漏れ出てしまった。

 真っ白なネグリジェに身を包んだ姿は、まだ幼いにもかかわらず美人だと言いそうになってしまう。

 今確信した。こりゃマジモンの貴族だと。


「なんか、マジで貴族だったんだな」


「ええ、まあ」


 信用してないとかじゃないけど、こう改めて現実を見ると実感が湧くな。


「あの、ブラシとかってありますか?」


「あるわけないだろ。まあでも、そこら辺の生活用品も買わないとな……。服もそれだけじゃ足りないだろ」


「でも、さっきお金が無いと……」


「そうだな。だから、ピアノが成功したらの話だ」


 おっさんの店を成功させるには、圧倒的に認知度が足りない。このままピアノを弾いたって先は見えている。

 そうなると、宣伝をしないといけないわけだ。忙しくなるのは気に食わないが、おっさんには良くしてもらってるし、店が潰れてしまっては元も子もない。

 少しくらいは手伝わないとな。

 そもそもピアノ買ってそのまま放っておいたらどのみちこの店潰れるだろうし。

 すると明日行くべき場所は……。

 

「エル、当分忙しいからピアノ教える時間は余り取れないかもしれないけど……」


「はい。大丈夫ですよ」


「ありがとう。明日も早いから、早く寝ときな」


「はい、分かりました。では師匠。おやすみなさい」


「ああ、おやすみ」


 さて、明日のことを考えないとな。

 おっさんの店復興作戦は兎も角、次はエルにどうやってピアノを教えるか……。

 エルは、難易度の高い曲を弾けるものの、完全に弾きこなせているわけではない。

 ふとしたところで音がズレたりするし、なんでもないところでのミスタッチもあった。

 多分、完璧って言えるほどの演奏は数えるほどしかないんじゃないかな。

 俺も人のことは言えないが、基礎的な練習が足りてないのかもしれない。


 どうやってエルにピアノを教えたのかは分からないが、基礎がまだ足りないってなると、ツェルニーとかソナチネとか、なんかそこら辺の練習曲が必要になってくる。

 しっかりテンポをとって正確に音をなぞっていくのが、今のところ1つ課題だな。


 となると問題は楽譜だ。

 当たり前の話だが、この世界にツェルニーもソナチネも存在しない。同一人物なんて存在するはずないからな。

 そこで一番最初に考えるのは、単純に練習曲を買いに行くこと。これが1番早くて楽だ。だが、楽譜なんて売ってる場所は限られるし俺は見たことがない。

 それが無理となると、手間はかかるが俺の記憶から無理やり引っ張り出してくるしかない。

 そして、そうなった時に紙とペンが必要になる。消しゴムなんてないから書き間違えればそれだけで支出がかさむし、楽譜がさっさと見つかることを祈るか。

 

「前途多難だな……」


 明日は仕事の合間にやることがいっぱいあるな……。

 弟子を取ったのはいいけど、生活全てが大変だ。最近は俺の店での役割がはっきりした分、融通は利かせてくれるようになったが、その分自分でやらなきゃいけない事が増えた。

 それと、床が冷たいし硬い。これは死活問題だ。睡眠が俺の唯一の至福の時間だ。それがこんな所で邪魔をされるなんて思わなかった。

 金が入ったらベッドでも布団でも、最悪寝袋でもクッションでもいいから欲しい。

 このままじゃ朝の目覚めが悪くて仕方がない。

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