星の花嫁たち

@wakihiroki

第1話

一目惚れだった。

私は、彼女に恋をした。


仕事帰りの、いつも通る道で、たまたま見かけた...

それだけなのに…


なぜか、忘れられなくなった。


こんな経験は、初めてだった。


横断歩道の信号が赤になって、立ち止まった。

隣に、その人がいた。

いつの間にか...


風になびく髪の毛

その下から、見え隠れする横顔


美しかった。


「この人だ!!」

私の心の、いちばん深いところで、眠り続けていた、何かが、叫んだ。


生まれた時から...

もしかしたら、生まれる前から...

ずっと、ずっと、眠り続けていた、何かが...


心臓は、鼓動を早めた。

「もっと近付け!!」

言葉にならない言葉で、何かが、また叫んだ。

脚が動き始めた。


信号待ちの人々をかき分けて、彼女の前方に出た。

そして、ゆっくりと振り返った。

彼女の顔を、私は見た。


美しくて、可愛い、女性の顔が、そこにあった。


『やめろ!!』

聞き慣れた声が、私の中で響いた。

たぶん、理性と呼ばれている、心の中の、別の何かの声が...

脚が止まった。

『見ず知らずの女性に何をする気だ?』

理性の声が、また響いた。


見ず知らずの女性だって?


...本当だ...

私は、その女性を知らない。

明らかに知り合いでは無いし、今までに会ったという記憶も無い。


見ず知らずの女性に近付いて、いったい、私は、何をしようというのか?


私は、自問自答した。

すると、心のいちばん深いところから、あの何かが、叫んだ。

「この人だ!!」

だから、この人が何なんだ?

「お前は、この人と、結ばなければならない。」

結ぶ?

それは、つまり、恋人になるということか?

「そして、子供を作るのだ。」

私は、唖然とした。

いったい何を言い出すのだ?

「そして、子供を育てるのだ。

その子が、一人で生きて行けるようになるまで。」


お前はいったい何なんだ?

その声は、何も答えなかった。


『たぶん、そいつは、本能だ。』

理性が、代わりに答えた。

『DNAの中で、ずっと眠っていた本能が、目覚めたんだ。

愛すべき女を見つけて...』


本能?

DNA?


つまり、人間に限らず、生き物ならみんな持っている、種族保存の欲求って訳か?


それなら、一応、納得が行く。

私は、人間の男で、まだ子供はいない。

それどころか、まだ、恋愛経験さえ無い。

生まれてこのかた、女性と親しく触れ合った事さえ無い。


そんな、サビシイ男が...

太古の昔からDNAに刻まれていた、女性のイメージそのもののような、女の人を見つけてしまったとしたら...


私は、ニヤリとした。


私にも、ついに、恋がやって来たのだ。


物語で読んだ事はある

マンガで読んだ事もある

アニメで見た事もある

ドラマで見た事もある

映画で見た事もある

お芝居で見た事もある

ゲームで疑似体験した事もある

非接触ニューロンVRで疑似体験した事もある


でも、本物の恋は、これが初めてなんだ!!



初恋の人を見つめながら、私は、想いに耽っていた。


幸せな時間…


だが、もちろん、現実は、容赦なく、流れて行くのだった。


信号が青になった。

人々が、横断歩道を渡り始めた。


初恋の人も、歩き出した。

スタスタと、雑踏をかき分けて行く。


まずい!!

このままでは、見失ってしまう!!


そうなったら、二度と会えないかもしれない…


永遠に!!


私は、理性の声を無視して、飛び出すように、走り出した。


歩道は、人でいっぱいだった。

初恋の人の後ろ姿が、人影の間に見え隠れする。


近付こうにも、幾重もの人の壁に遮られて、近付けない。


だんだん、遠ざかっていく...


そして、見えなくなった。


私は、立ち止まった。

いくら目を凝らしても、初恋の人の姿は見えない...


私は、失望のあまり、その場にへたりこんでしまいそうになった。

『頑張れ!!』

理性の声が聴こえた。

かろうじて、私は、踏ん張った。


「諦めるな」

今度は、本能?の声が聴こえた。

「また会えるから」

一体何を根拠にそんな事を言うんだ?

その質問に、本能は答えなかった。

「また会えるから」


『たぶん、仕事帰りだから、同じ時刻にここに来れば、また会える可能性はあるよ』

理性も答えた。


理性と本能が一致することもあるんだ...


私の心は、パッと明るくなった。


よかった!!


また会える!!


きっと...



その夜は、あまりよく眠れなかった。

いつもなら、フルオートクッカー(独身男性用)の作った夕御飯を食べると、眠くなって、バタンキューですぐ寝てしまうのに...


なんだか身体中が興奮していて、目が醒めて、全く眠くならない。


目をつぶると、あの、綺麗な横顔が、浮かんで来る。


風に、髪の毛が揺れて...


目は、まっすぐ前を見つめたまま...


私が見つめている事に、気付かなかったのだろうか?


心の中の、どこか深いところで、何かが、悶えた。


「寂しいよ...」


もし、私の視線に気付いたとしても、私の気持ちが、彼女に伝わるとは思えない…


ただ、自分を見ている男がいるとしか思わないだろう。


彼女に、私の気持ちを伝えるには、何か行動を起こさなければならない。


男が、女に、愛を伝えるには、どうすればいいんだ?


古風な物語やマンガやアニメやドラマでは、手書きの手紙を書いて、愛を伝えるシーンが出て来る。


その頃は、まだ、植物を原料とする「紙」が、普通に使われていたのだ。


私は、ゲームや非接触ニューロンVRで遊んだ恋愛シミュレーションを思い出した。

それらのシミュレーションでは、あるクエストを達成すると、貴重なアイテムなどが得られて、それを女性に贈ると、気持ちが伝わるという話が多かった。


では、この現実世界で、いったい、どんなクエストをクリアすれば、愛を伝えられるのだろう…?


リアルな恋愛経験の無い私には、答えがわからなかった。


ため息をついて、眠りについた。



そして、何か、落ち着かない夢を見た。


彼女なのか、私なのか、それとも、別の誰かなのか…


必死に、救いを求めている魂が、声にならない叫びを上げ続けていた…



翌朝、起きてみると、なぜか、心の中に、ひとつの答えが、有るのに気付いた。


眠っている間に、無意識が、答えを見つけてしまったようだ…


彼女を見つけて、話しかけるのだ。


そして、私は、彼女を探し始めた。



仕事を終えたあと、同僚たちに飲みに誘われたが、断った。

「ヤボ用があってね」

仕事場から最寄りの駅まで、歩いていつも帰る。

その途中に、あの交差点がある。


歩きながら、考えた。

もし、彼女に会えたら、何て言おう?


やはり、まず、挨拶だな。


夕方だけど、まだ明るいから、「こんにちは」だ。


で、次は…?


「いい天気ですね!!」


だろうか?


私は空を見上げた。

シェルタリングスカイの乳白色の空が広がっている。

いつもと同じように…


天気なんていつも同じなんだから、この言い方は古すぎる。


「以前どこかでお会いしましたね?」


はどうだろう?


もちろん、彼女のほうは、私と会った事に気付いていなかったようだから、「いいえ」と否定される可能性が高いけど…


実際に会ったのだから、ウソをついている訳でもない。

ただ、私は、会った場所を覚えているのだから、「どこかで」というのは、良くないかもしれない…


「以前お会いしましたね?」

のほうがいい!!

あるいは、わざと馴れ馴れしく、

「前に会ったね!!」

でもいいかも?


出来るだけ明るく言えば、そんなに不快な感じもしないのでは?


慣れないけれど、笑顔で…


「いいえ」と彼女が答えると仮定して進めよう。


以前もこの交差点で見かけた事を言うべきだろうか?


それとも、わざと思い出せないふりをして、彼女の記憶を刺激するほうがいいのか?


あの時の、あの人かもしれないと、彼女が思ったとしたら…


親しくなるチャンスが増すかもしれない!!


でも…


「この交差点で初めて君を見て、一目惚れしたんだ!!」

と話したい!!

ありのままに…


彼女には、本当の事を知って欲しいから…


となると、「前にもここで会ったね」だ。


「この交差点で初めて君を見て、一目惚れしたんだ!!」


彼女は何と答えるだろう?


「はぁ?」

理性が、彼女になりきって答えた…


「はじめまして。」

そして、自己紹介だ。

名前と職業を知らせよう。

「葵幸星(あおいこうせい)と申します。

職業は、会社員です。」

「何のご用ですか?」

「あのう、出来れば、私の恋人になって欲しいのですが。」

「はぁ?」


「無理にとは言いません。

もし、よろしかったら…」

「…」

理性が演じる彼女は、黙りこんでしまった。

私を見つめるふたつの瞳…

VRコンタクトが、虹色に煌めく。


「どなたか、お付き合いされている方がいらっしゃるのですか?」

私は、彼女の指を見た。


小指に指輪が見えた…

やった!!

彼氏募集中なのだ!!


…というふうに、現実も、うまく行くといいのだが…


交差点が近付いて来た。

私は、まわりを見回した。

彼女はいないか?


家路につく人々で、歩道は混み合っている。

彼女は見当たらなかった。


何てこった!!


私は、その場に立ち尽くして、天を仰いだ。

灰色の空が目に入った。

シェルタリングスカイが少し薄暗くなっている。

火山灰の濃度が上がっているのか?


非接触ニューロンVRでネットにアクセスしてみた。

警報は出ていないようだ。


私は、交差点の方に顔を向けた。

どうすれば、彼女を見つけられるだろう?


あの時に、名前だけでも、訊いていれば…

それが無理なら、せめて、オープンIDだけでも…


何万年も前の古代人の男と同じように、自分の記憶だけを頼りに、恋しい女を探さなければならない…


交差点に着いた。

信号は、青だ。

人々は、立ち止まる事なく、横断歩道を渡って行く。

私は、慌てて、まわりを見回した。

彼女は見当たらない…

人の波間に、彼女もいるのかもしれない…


あっ!!


あれは彼女かも?


気が付くと、その女性の方に駆け出していた。

人の波をかき分けて、近付いて行く。

人影に隠れて、見えなくなる。

また、人と人の隙間に、チラリと見える。

でも、またすぐに見えなくなる。

彼女かもしれないその女性が、進む方向を想像しながら、人の壁をかき分けて行く。


見えた!!


その女性の、すぐうしろに出た!!


少しずつ、距離を詰めて、横顔を見た。



似てる!!


いや、そっくりと言っていい!!


あの人だ!!


見つけた!!



見失わないよう、必死について行く。

話しかけなければ…

最初は何だったっけ?

「「こんにちは」だ。」

理性が答えた。

「こんにちは!!」

彼女がこちらを向いた。

クリッとした、つぶらな瞳が、私を見つめた。

虹色の微かな光がきらめいた。

やっぱり、VRコンタクトを嵌めてるんだ…

私は、オープンIDをオンにして、名前などのプロフィールが彼女に見えるようにした。

「はじめまして!!」

精一杯の笑顔で、彼女に微笑んだ。


彼女は、怪訝そうな表情で、私の頭の上の辺りを見ている。

VRコンタクトにオーバーレイ表示されているはずの私のプロフィールを読んでいるのだ。

彼女が読み終わるのを待った。

虹色の瞳が、私の瞳をまっすぐ見た。

「どちら様ですか?」

私は自己紹介した。

「葵幸星と申します。

職業は会社員です。」

そして、彼女に思いを伝えようと、勇気を振り絞った。

「以前ここであなたをお見かけしてから、忘れられなくなって…」

彼女は、目を大きく見開いた。

「好きです!!」

私は叫んだ。

彼女は、ポカンと口を開けて、ただ私を見ている。


こんな時どうすればいいんだろう?


彼女がオープンIDを見せてくれているかどうか見てみた。


私は、非接触ニューロンVRを使っているので、VRコンタクトは使っていない。

オープンIDの表示を念じると、オープンIDを公開している人々の頭上に、それぞれのプロフィールが浮かび上がった。


しかし、彼女の頭上には、何も表示されていない…


オープンIDを非公開にしたままなのだ。


何故?


スパムアクセスを受け取りたくないからだろうか?


オープンIDを公開したままにしていると、AIフィルターを使っても、ブロックしきれないスパムアクセスが、届いてしまう…

「あの、もしよかったら、オープンIDを見せて頂けませんか?」

ダメもとで、頼んでみた。

彼女は、眉間に可愛いシワを寄せた。

「ちょっと、それは…」

気がすすまないようだ。

「何故です?」

「私、あなたの事、よく知りませんし…」

それは確かにそうだが、オープンIDは本来、知らない者同士でも連絡出来るように、作られたものなのに…


「あの、私の方こそ、あなたの事をよく知らないのです。だから、教えて欲しいのですが…」

彼女は、困った様子で、首を横に振った。

「いったい私に何の用です?」

今度は、私がポカンと口を開ける番だった。

「ですから、さっき言いましたよ?

あなたが好きなんです。」

「何でですか?」

私は、返答につまった。

「その、あなたのお姿を見て…」

「外見だけですか?」

私は、何と答えたらいいか分からなくなった。

「私の事、よく知りもしないのに」

彼女は怒ってるのだろうか…?

「あの、だから、あなたの事を知りたくて…」

彼女はそっぽを向いてしまった。

そして、駅に向かって歩き出した。


何か不味いことを言ってしまったのだろうか?


「追いかけろ!!」

本能が叫んだ。

『このまま見失うと、またここで探さなければならなくなる』

理性も警告を発して来た。

私は、彼女について行った。

見失わないよう、彼女の後ろ姿を見つめながら…


「お願いです。せめてお名前だけでも教えて頂けませんか?」

すがるような気持ちで、彼女に頼んだ。

しかし、彼女は何も答えず、足早に歩いて行く。

『これはもう答えてくれないな。』

理性が容赦なく断じた。

追いかける足の動きが鈍る。


「諦めるな!!

追いかけろ!!」

本能が叫んだ。

立ち止まりそうになったところで、なんとか足を動かし続けた。


理由はわからないが、彼女の不興を買ってしまったらしい。

なんとかご機嫌を取り戻さなければ…


私は、藁にもすがる思いで、以前遊んだ事のある恋愛ゲームを思い出した。

贈り物や美味しいものなどが、ゲームの中の女性には、効果的だった。

特に、誕生日やクリスマスなどに…


「お誕生日はいつですか?」

彼女が、少し振り向きかけて、また、前を向いた。


脈がある!!

「お誕生日のお祝いに何かプレゼントさせて下さい」

心なしか、彼女の足取りが少し遅くなったようだ…

「何でも言って下さい。

服でもアクセサリーでも…」

いきなり、彼女が立ち止まったので、私は、危うくぶつかりそうになった。

ゆっくりと振り返って、私を見つめる。

「本気ですか?」

私は、慌てて答えた。

「もちろん本気です!!

何がいいですか?」

彼女は、少し困ったような表情で、私を見ながら、考え込んでいる。

私は、彼女に微笑んだ。

私を信じて欲しいと願いながら…

「さっき会ったばかりで、そんな事してもらうなんて、ダメです。」

「そんな…

遠慮しないで下さい!!」

「節操が無さすぎます。」

「あなたにとってはついさっき会ったばかりでしょうが、私にとっては、以前ここであなたをお見かけしてから、ずーっとなんです。」

彼女は、口を尖らせて、膨れっ面になった。

「お気持ちだけ頂いておきます。」

そう言うと、彼女は、クルッと背を向けて、また、駅に向かって歩き出した。

私も、また、彼女について歩き出した。


『俺って、思った以上に諦め悪いんだな…』

理性がひとりごちた。


「何か美味しいもの食べません?」

懲りもせず、彼女に話しかけた。

しかし、今度は反応が無い。

「何がお好きなんです?」

夕方が近いから、普通ならおなかが減って来る頃のはず…


「甘いものはお好きですか?

ケーキとかチョコとかアイスとか?」

彼女の歩みが少しだけ鈍ったか?


「パフェとか、ドーナッツとか」

たたみかける。

「和菓子は?お饅頭とか、お団子とか、鯛焼きとか?」

彼女が、立ち止まった。そして、振り返った。

「甘いものも好きですけど、今は大丈夫ですから。」

…あれ、笑顔だ。

少し屈託はあるけど、笑ってる…

何でだろ?


私の気持ちが通じたんだ!!

遊びじゃない…

ナンパなんかじゃない…

命がけの、本気の、大真面目な、真剣な、純情な、求愛なんだと…


信じてくれたんだ!!


「お腹すいて無い?」

「はい」

「じゃ、のどは乾いて無い?」

「あーー…えーと…」

彼女は生返事した。

迷ってる?

のどは乾いてるんだ!!


「冷たいもの飲みに行きません?」

彼女は、また、少し困ったような顔をした。

「アイスコーヒーは?」

「うーん…そうですねえ…」

「何がお好きですか?飲み物」

「別に何でも…」


具体的な答えが欲しい!!

それを飲みに誘える!!


「今日はお仕事はもう終わったのですね?」

「え?

まあ、そうですけど」

「なら、お酒はいかがですか?」

「はあ…」

「お酒はお嫌いですか?」

「いえ、好きですけど…」

「どんなお酒がお好きなんですか?」

「ビールとかワインとか」

かなり行ける口なのかな?

「では、飲みに行きましょう!!」

「そんな…今日会ったばかりで、お酒なんて…」


何かが彼女の行動を抑制しているようだ。


理性?

常識?

世間体?


お酒を飲み過ぎて失敗した経験でもあるのかな?


もしそうなら、お酒で誘っても無理っぽい…


「では、コーヒーは?」

「…1杯だけなら」

えっ?

「1杯飲んだらすぐ帰りますから。

代金は自分で払います。」

「お代金は私が…」

彼女は首を横に振った。

「大丈夫です。」


おごられるのを嫌がる人もいる。人に借りを作るのが嫌なのだろう。

私もそうだ。

彼女の立場なら、私もそうしただろう…


「わかりました!!

じゃ、お互い自腹で1杯だけ飲みましょう!!」

「はい!!」

彼女は、微笑んだ。

その可愛らしさ...

とても言葉には出来ない。

天才詩人でもなければ、無理っぽいほどの、例えようの無い、笑顔だ…

私も、微笑んだ。


言葉には出来ない事が、笑顔には、表情には、出来るのかもしれない…

本当の気持ちを、伝える事が…


「どこか行きたい喫茶店はありますか?」

「どこでも」

ネットで近くの喫茶店を探してみる。

そう考えただけで、近くの喫茶店のイメージが、地図上にいくつも現れた。

口コミ評価の点数もそれぞれ表示された。

近くだと、『無限分岐宇宙』という小さな喫茶店がいちばん高評価だ。

そこに行ってみようか…


喫茶店の情報をオープンにして、頭上に投影した。

「ここなんか良さそうですよ。」

情報を指さしながら、彼女に言った。

上の方を向いた彼女の瞳が、ひときわ明るく虹色にきらめいた。

「あら、変わった名前のお店」

ニコッと笑った。

「面白そう!!

そこにしましょう。」


その喫茶店は、住宅街の中に、隠れるようにあった。


この街が、シェルタリングスカイに覆われる前に建てられた、古い住宅のようだ。

表札の代わりに、『無限分岐宇宙』という小さな看板が掲げられている。


本当に、ここが喫茶店なのか?


ネットの情報では、ここに間違いない。

地図上の所在地も、今来ているところと一致している。


VRの看板は投影されていないようだ。

それがあれば、遠くからでも、喫茶店とわかるのだが…


「住宅にしか見えないなあ。」

頭を掻きながら、どうするか迷った。

「変わってる!!」

明るい彼女の声が聴こえた。

振り返ると、ニコニコ笑ってる笑顔の彼女…

ふたつの瞳が、虹色にキラキラ輝いている。

「早く入ってみましょ!!」


何が幸いするかわからないものだ。

この、喫茶店とも思えない喫茶店が、えらく彼女の気に入ったようだ…


古臭いノブのドアを開けた。

「お邪魔しまーす」

中を覗くと、これまた、古い住宅の玄関が見える。

彼女も、首を伸ばして、中を覗き込んだ。

「わあ、なんか、懐かしい感じ!!」


人の姿は見えない。

古いが、綺麗に磨かれた木の廊下が、奥の方に続いている。

「こんにちはー」

廊下の奥の方に呼び掛けてみた。

しかし、何の反応も無い。

「どうしよう?」

彼女に訊いた。

「あっ、何か書いてる!!」

彼女の指差す方を見た。

玄関の壁に、小さな貼り紙があった。

『お好きな部屋へどうぞ』


廊下に面して、ドアが3つ並んで見える。

そこへ入れという意味か?


一般的な喫茶店のイメージからは、かけ離れている…


「どれにしようかな?」

靴を脱いで、スタスタと廊下に上がった彼女が言った。

全く不審がっている様子は無い。

ただただ、楽しんでいるみたいだ…


私よりも、ずっと度胸があるようだ…


「ちょっと待って!!

よく考えてからにしよう。」

「えー?

大丈夫よ。

ネットで美味しいコーヒーが飲めるって書いてあったじゃない?」

そう言うと、彼女は、いちばん近いドアを開けようとした!!


古臭いドアノブを握って引いた…

ドアは、音も無く開いた。

「…タア、パッ。」

ボソッと、何かの声?が聴こえた。

「いらっしゃいませ。」

合成音声丸出しの中性的な声が聴こえた。

恐る恐る、中を覗き込む。


薄暗い部屋の中に、ジャズが流れている。

カウンター席と、いくつかのテーブル席が見えた。

客の姿は見えない。

目が暗さに慣れて、カウンターの奥に、ひとり、店員らしき姿が見えて来た。


人間…?


「なんか、ロボットみたいな声」

彼女もびっくりしている。

ここで尻込みしていては、カッコが悪い…

部屋に入った。

「こんにちはー」

近づきながら、人影に挨拶した。

「…」

人影が、ボソッと何かを話した。

「お好きな席へどうぞ」

すぐに、人工音声も答えた。

やはり、人間ではないのか…

それとも…


カウンターから離れたテーブル席に、彼女は座った。

向かい合って、私も座った。

VRメニューを探したが、どこにも見当たらない。

テーブルの上に、四角いシートが置いてある。

白熱灯の灯火に照らされて、メニューが書かれているのが見えた。

手に取って見ると、紙のメニューだった。

なぜこんな古いものが…


「コーヒーは?」

彼女が訊いた。

『ブレンドコーヒー 350円』

円?


巨大噴火以前に使われていた通貨だ…

すぐにネットで調べてみた。

1円がほぼ10命(LIFE)にあたる。

世界共通通貨のLIFEと今でも両替可能だ。

コンビニのコーヒーは1200命くらいだ。

とすると、3500命払えばいいのだろうか?


「あのー、すいません」

カウンターの向こうの人影に呼び掛けた。

人影は、動きを止め、こちらを見た。

そして、カウンターの左端からフロアに出て来た。

こちらに歩いて来る。

「…」

…外国語だろうか?

呟くような、聞き取れない声。

「ご注文は?」

人間離れした声で、それは尋ねた。


白熱灯の灯りの中に、その姿が浮かび上がった。


白い毛で覆われたずんぐりした物。

上の方には、盛り上がったところがある。

下の方は、2つに分かれている。

足だろうか?

上の盛り上がりは、頭部か?


「…」

「ご注文は?」

再び、それの2つめの声が尋ねた。

「コーヒー…

ブレンドコーヒー!!」

彼女が、すっとんきょうな声で答えた。

「私も...」

答えた...つもりだったが、声が出なかった。

『情けないぞ!!』

理性が叱った。

「わ、私も、ブレンドコーヒーを」

何とか声を絞り出した。


「ブレンドコーヒー…」

どこから声を出しているのかわからないけれど、最初の「ブレンドコーヒー」は聞き取れた。

しかし、あとは、ちんぷんかんぷんだ…

聞いたこともない言葉だ…!!


「ブレンドコーヒー2つでございますね。

かしこまりました。」

2つめの声は、そう言うと、それは、向きを変えて、カウンターの向こうに戻って行った。


突然、彼女が、私の手を握って、顔を近づけて来た。

「なんなのあれ?」

手が震えている…

怖いんだ…


ひきつった口元…

そして、大きく見開かれた2つの目が、私を見ている。

何か、安心出来るような事を、言ってあげないと…


「うーん…

あれかな、着ぐるみかも?

中に、人が入ってるのかも?

ゆるキャラみたいに…」


彼女は、私の手を握ったまま、カウンターの中にいるそれを見た。

「ちょっと小さ過ぎない?

人が入っているにしては…」


言われてみれば確かにそうだ。

盛り上がったところのいちばん上の端でも、身長?1.3メートルぐらいしかない。

「子供が入ってるのかな?」

ありそうも無いな、と思いながらも、言ってみた。

彼女は、キッとこちらをにらんで、

「子供なんかじゃない!!

感じでわかるの。」


「だとしたら、たぶんロボットだよ。」

「でも、あんなロボット見た事無いわ。」

私も、あんな毛むくじゃらなロボットは記憶に無かった。

ネットで調べてみた。

先ほど見た、それの視覚像(ちゃんと記録されていた!!)に似た画像を検索してみた。

そして、ヒットしたのは…

白くて丸いぬいぐるみや、毛の長いウサギや、はるか昔に絶滅した氷河期の獣や、毛糸で作られた何だかわからない手工芸品などだった。


ロボットはヒットしなかった。

ロボットを作った者は、個人も法人も、その旨をロボット管理ベースに届け出る決まりになっている。

勝手にロボットが増えてしまっては困るからだ。

技術的には、人間や動物そっくりのロボットも、作れてしまう。

見た目だけではなく、話し方や、行動まで、人間とそっくりのロボットが、作れるようになっているのだ。

そんなロボットがむやみに増えないように、届け出が義務付けられている。

しかし、届け出られたロボットの中には、そこに居る、毛むくじゃらなヤツは、見当たらなかった。


とすると、無届けのロボットだろうか?

それとも…


「登録済みのロボットではないみたい」

「ロボットじゃなくて生き物だと思う…

なんとなく、そんな感じがするの」


カウンターからそれが出て来た。

前に何かを持っている!!


…トレイに載せたコーヒーのようだ。

トレイを左右から支えている部分も、白い毛で覆われて、形がよくわからない。

手が2本あるのか?

「…」

「お待たせ致しました。」

それは、コーヒーの載ったトレイを、テーブルの上に置いた。

訊くなら今だ!!

「ちょっとお尋ねしますが、あなたは、…」

そこまで言って、何と続けていいかわからなくなった。

ロボットですか?と訊いて、もしそうでなかったら…

怒るかもしれない…


もしも、人間だったら…

自尊心を傷つけられるかも…


「私は、マスターです。」

それの2つめの声が答えた。

「あの、どちらのご出身ですか?」

彼女が助け船を出してくれた。

「それは、お話しないほうがいいでしょう。」

「え、何でですか?」

「本来なら、お客様が知るはずのない事ですから。」

どういう意味だろう?


「ずっと以前にも、同じ質問をされたお客様がいらっしゃいました。

どうしてもとおっしゃるので、私の出自をお教えしましたが、その結果、そのお客様は…」

それは、ブルブルッと身震いした。

「どうなったの?」

彼女が問い詰めた。

「この世界には戻れなくなりました。」


この世界?


「この世界って、どういう意味よ?」

「そのお客様が元々いらっしゃった世界の事です。」

「元々いらっしゃった世界…

何の世界に居たの?

その人は?」

「お客様方の世界と同じ世界です。

地球があって、巨大噴火もあった、この世界です。」


それの言っている事の意味は…

もしかして…


この喫茶店の名前を思い出した。

『無限分岐宇宙』


名前?

いや、もしかしたら、名前だけではなくて…


パラレルワールド…

平行宇宙と、何か関わりがあるのだろうか?


彼女も、黙りこんでしまった。

意味がわかったのだろうか?


「コーヒーが冷めてしまいますよ。」

「あ、そうだね。」

コーヒーを飲んだ。

しかし、味がわからない…


これは現実なのか?

もしかしたら、VRを強制的に見せられているのか?


喫茶店に入ったあと、ニューロンをハッキングされて、偽の現実を見せられているのかも…


「あなたは、別の世界から来たのね?」

彼女が、それに訊いた。


「…」

それは、動揺したかのように、体を揺らした。

「あなたのような生き物、見た事が無いもの。

別の宇宙の地球か、もしかしたら、別の惑星から来たんじゃない?」

「…」

それは、こちらに向いたまま、後ずさった。


否定しないところを見ると、当たっているのか?


「とっても寒い星だから、その…」

彼女は、少し言いよどんだ。

「暖かそうな立派なヘアがあるのね。」

気を使って、言葉を選んだ彼女…


相手は人間では無いかもしれないのに、プライドを傷つけないよう、気配り出来るなんて…

なんて思いやりのある人なんだろう…


「お客様。

先ほどご説明した様に、私の出自については、お知りにならないほうが…」

「何言ってるの?

あなたの姿を見れば、だいたいわかるじゃない!!」

彼女は、怒った様に、それを睨み付けた。

「気密服も着ていないし、この地球の重力にも適応してる。

あなたは、この地球にそっくりな星で生まれたのよ。

違うのは、ただ、気温だけ。

ほとんど一年中、雪が降って、凍り付いた、寒い星。」

まるで、その星の寒さを感じたかのように、彼女は、身をこごめて、うつむいた。


私たちが住んでいるこの地球も、海まで全て凍りついていた時代があったという。

もし、何らかの理由で、その状態がずっと続いたとしたら…


「そこまでお分かりとは…

あなたは、まるで、『氷河の城の女王』のような方ですね。」

それは、私たちの知らない例え方で、彼女を誉め称えた。

「『氷河の城の女王』って?」

彼女が訊いた。

「私たちの星の神話に詠われた、伝説の英雄です。」


女王…ということは、彼らにも、性別があるのだ!!


「『氷河の城の女王』がそうだったように、お客様は、並外れた洞察力をお持ちなのですね。」

それは、うやうやしく、体を前に丸めて、彼女の前にこうべ?を垂れた。

「わかっちゃったもんはしょうが無いわ。

それで、私たち、これからどうすればいいの?」

冷めかけたコーヒーを飲みながら、彼女が訊いた。


「お客様の望まれる通りにされればいいのです。

別の世界に行きたいなら、そうされればいいのです。

そして、もしも、その世界から、この世界に戻られたいなら、そうされればいいのです。」


うん?

この世界に…戻れるのか?


「どうすれば、この世界に戻れるの?」

彼女が訊いた。

「簡単です。通ったところを引き返せばいいだけです。」

「なあんだ!!

それならいつでも戻れるわね!!」


「だったら、さっき話してた、この世界に戻れなくなった人の話は、何なんだ?」

私は、訊いた。

「彼は…男性だったのですが…自分の意志で、別の世界に行く事を選んだのです。

私の世界の事を知って…」

「じゃあ、その男は、君の世界…君の宇宙に、行ったのか?」

「そうです。」

「今も、そこに居るのか?」

「それは…」

それ…雪の星の住人は、言いよどんだ。

「これ以上お話しすると、お客様方も、私の世界に行きたいと思われてしまうかもしれません。

そして、お客様方の元の世界に戻るお気持ちを無くされてしまうかも…」


なるほど、そういうわけで、その男は、自ら別の世界に旅立ったのか…

よほど魅力的な世界のようだ。


「あなたの世界から私たちの世界に戻るには、どこを通ればいいの?」

彼女は、訊いた。

「ここ…この喫茶店にある通り道を通れば、戻れます。」

「だったら、別に怖がる事なんか無いじゃない?

行ってみて、気に入らなかったら、こっちの世界に戻ればいいんだから。」

彼女は、もうすっかりその気のようだ…


コーヒーを一杯飲みに来ただけなのに…


いったいどうなっているんだ…


「でさ、あなたの世界はどんないいところがあるの?」

彼女が、訊いた。

「いいところ、ですか?」

雪の星の住人は、彼女の方を向きながら、少し後ずさった。


…まるで、彼女を怖がっているみたいだ…


「地表も、海も、雪と氷と氷河で覆われていて、いいところ、と言われましても…」

「あなたたちはどこに住んでいたの?」

「ほとんどの者は、地下の都市に住んでいます。」

「地下なんだ!!

灯りはどうするの?」

「我々にもテクノロジーがあります。

何十万年も前から、我々の祖先は、地下で暮らして来ました。

現在の我々は、地熱発電と太陽光発電と火力発電と原子力発電が、主なエネルギー源です。」


密閉された地下世界!!

私は、興味をそそられた。


私たちの都市も、シェルタリングスカイによって密閉されている。

もしかしたら、何かの技術的なヒントが…


「君たちは、人間なのか?」

勇気を出して、私は、訊いた。

「皆さんの世界の言葉で言えば、人間という事になるでしょう。」

雪の星の住人は、迷わず答えた。

「約64万年ほど前に、我々の星では、気候が寒冷化し、全球凍結が起きたのです。」

「どうして?」

彼女が訊いた。

「おそらく、我々の星では、皆さんの星…地球に比べて、火山活動が少しだけ活発だったのでしょう。

そのため、大気中を浮遊する火山灰が少しだけ多くなって、遮られる太陽光が少しだけ多くなって、地球が受け取る太陽エネルギーが、少しだけ少なくなって、寒冷化したのでしょう。」

「少しだけって、どれくらい少なくなったの?」

「おそらく、皆さんの地球に比べて、数%少なくなっただけでしょう。

その、わずかな差で、我々の星は、雪と氷に覆われてしまったのです。」


雪の星の住人は、まるで首を振るように、上半身を左右に回転させた。

「生物種のほとんどが絶滅しました。

我々の祖先も、絶滅の淵に追いやられました。

しかし、わずかに、地熱によって暖められた地域に、生きながらえられる場所があったのです。」


生物の大部分を絶滅させた火山が、生き残った生命の拠り所(よりどころ)となったとは…


「今も、我々の星は、真っ白に凍りついたままです。」

「そう…」


私たちが、その星に行っても、大して役には立てないだろう。

でも、それでも、一目見てみたい!!

真っ白に凍りついた、別の地球の姿を…


彼女も、同じ気持ちのようだ。


「何か条件はあるの?

その世界に行くために…

お金とか、要るの?」

「特に必用なものはありません。

自己責任で、ご自由に何時でも行けます。」


彼女は、虹色の瞳をキラキラさせて、言った。


「それなら話が早いわね!!

防寒着を用意して、早く出掛けましょうね!!」

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