第498話

 翌日の夜、宗太郎は栞の父――大羽信一のナイトバーへふらりと立ち寄った。

「宗太郎か。どうした、また飲む気になったか?」

「いいや。君と話がしたくてね」

 このバーでは宗太郎のように『酒を飲まない』客も珍しくない。それもこれも話し上手で聞き上手のマスターがいるせいだろう。

 そんな客のため、信一のバーは一通りの紅茶を揃えていた。以前はコーヒーも置いていたが、ナイトバーの営業時間に欲しがる客はいなかったらしい。

 宗太郎の眼前にアイスのレモンティーが差し出される。

「日中はまだまだ暑いな」

「まったくだよ。あと一、二週間もすれば、グッと涼しくなるそうだけど」

 ふたりの父親は取り留めのない話題で間を繋ぎながら、ジャズに耳を傾けた。今夜もナイトバーはほどほどに繁盛しており、信一が客の注文に応じる。

「不動産業のほうはどうだい?」

「まずまずさ。そっちは妻が見てくれてることだし」

 律儀な客が多いおかげで、聞き耳を立てられる心配は不要だった。

 やがて宗太郎は物憂げな表情で語り始める。

「栞ちゃんの悩みがわかったよ。やっぱり例の曲は、彼女が作曲したものでね」

 信一は拭いたばかりのグラスを、手慰みにもう一度拭きなおした。安心と苦渋の両方をない交ぜに浮かべ、出掛かった言葉を飲む。

「……そうか」

 彼の苦悶は宗太郎にもひしひしと伝わってきた。

 娘がひとりで何かを抱えていたらしいことは、前々から気付いている。しかし信一はその内容までは知らず、何年も悶々と過ごしてきたのだから。

「春にお前から『ソラのスピカ』は栞の曲だと聞いた時は、信じられなかったが……」

「父親にとっても突拍子もない話だったからね。無理はないさ」

 合間にアイスティーを味わいつつ、宗太郎は今日の出来事を信一に語った。

 児童合唱団のコーチが大羽栞の音楽を奪ったこと。そのために業界から追放されたはずの彼が、再び栞へアプローチを掛けてきたこと。

「そんな輩に栞が狙われていたとは……ぞっとする」

「昨日の一件で彼も懲りただろうし、警察にマークされたとなっては、もう動けないと思うよ。神宮寺という婦警さんも、何か進捗があったら連絡してくれるそうだ」

「そいつは頼もしいな」

 この件では警察が親身になって動いてくれていることが、ありがたい。

「俺も一発殴ってやりたかったよ」

「エスカレーターから転げ落ちて、大怪我したんだ。充分だろう」

 新聞の隅っこには『かつての天才作曲家、逮捕』とだけ掲載された。宗太郎たちにとっては大事件でも、世間にとっては些末なことらしい。

「そいつは盗作を認めたのか?」

「警察の取り調べに対して、一応は」

 ふたりで事後の展開を追っていると、新しい客がやってきた。

「こんばんは。お久しぶりですね、宗太郎さん」

 待ち合わせの時間通り。宗太郎は目を丸くして、数年ぶりの彼女を眺める。

「雲雀ちゃん! いやあ……わからなかったよ。印象が全然、違ってて」

 ANGEのプロデューサー、巽雲雀は苦々しい笑みを浮かべた。

「すみません。学生時代は優等生で通ってた教え子が、こんなにやさぐれてしまって」

「気に病むことはないとも。……っと、こちら、大羽栞ちゃんのお父さんだよ」

 宗太郎の紹介に便乗し、信一も快く雲雀を迎える。

「ANGEのプロデューサーなんだってねえ、話には聞いてるよ。お近づきの印に一杯、奢らせてくれないか」

「いえ……で、ではモスコミュールをひとつ」

 宗太郎は時間の流れを感じずにいられなかった。

「雲雀ちゃんもお酒を飲む歳かあ……置いて行かれた気がするよ。ハハハ」

「宗太郎さん、それ、紅茶ですよね」

「こいつは滅多に飲まないんだよ。娘が立派に育つまでは、と」

 改めて、三人で乾杯。

「本当に懐かしいなあ。元気だったかい?」

「風邪くらいはひきましたけど」

 宗太郎と雲雀の出会いは、最愛の妻・櫻子が生きていた頃まで遡る。

 天城櫻子のピアノに焦がれて、同じピアノ教室へ飛び込んできたのが、この巽雲雀だった。ピアニストを目指して奮励努力していた当時の雲雀を、宗太郎はよく憶えている。

 残念ながらピアニストの夢は叶わなかった――が、雲雀には稀有なセンスがあった。その才能を見込んで、宗太郎が作曲を指導した時期もある。

 モスコミュールを嗜む昔の教え子を見て、宗太郎はふと気付いた。

「もしかして……お盆に櫻子のお墓参りをしてくれたのは、雲雀ちゃんだったのかな」

「はい。お葬儀以来のお参りで、恥ずかしい話ですが……」

 墓前のお供えに彼女がお酒を持ってきたことも、月日の経過を実感させる。

 ひとしきり昔話を楽しんでから、雲雀は神妙な面持ちで切り出した。

「で……宗太郎さんはいつからご存知だったんですか? あの『ソラのスピカ』が大羽栞の曲だという事実に」

「最初からだよ。栞ちゃんの曲を聴いた時にね」

 一世を風靡した名曲『ソラのスピカ』が神谷次郎の作品でないことは、当時から知っている。しかし宗太郎とて、まさか作曲したのが娘の友達とは思わなかった。

「栞ちゃんがスピカに所属していたことは、信一から聞いてたし」

「私も予想はしたんですけど、速見坂に先を越されまして」

「ああ、麗奈ちゃんは鋭いところがあるからねぇ」

 相槌を打ちながら、雲雀が報告する。

「昨日のことで、お話しておきたいことがあるんです。うちの社長とも相談しまして、大羽栞が『ソラのスピカ』の作曲者であることは、しばらく伏せておこう……と」

 いずれ神谷次郎は公式の場で盗作を認めるかもしれない。そうなれば、世間は『ソラのスピカ』の本当の作曲者を探し始めるだろう。その過程で今回の事件が明るみになり、大羽栞の名が衆目に晒されることは、想像に難くない。

 それがたとえ同情や応援の言葉であっても、一介の女子高生には負担となるはず。場末のマスコミが悪乗りして、必要以上に騒ぎ立てる恐れもあった。

「――ですので、『ソラのスピカ』を取り戻すのは時期を待とう、という話でまとまったんです。大羽も納得してくれました」

「うん、僕も賛成だ。曲はどこにも逃げないんだしねえ」

 うら若き作曲家を今度こそ守りたい。その気持ちは宗太郎も雲雀も同じだった。

 雲雀が俄かに声を弾ませる。

「ところで……宗太郎さんはケイウォルス学園の卒業生で、この夏もケイウォルスのオーケストラ部で指導されてたとか?」

「そうだよ。……ああ、ANGEがお呼ばれして、学園祭で演奏するんだってね」

「よろしければ、宗太郎さんもお越しください。娘さんのライブ、まだご覧になったことがないでしょう」

 カウンター越しに信一がはにかんだ。

「ゲストの父親ってことで、俺も入れるのかな? 部外者なんだが」

「招待状のほうは手配しておきますよ。任せてください」

 宗太郎は得意げに口を挟む。

「何なら僕の同伴ってことでも行けるよ。実は僕も招待を受けてるんだ」

「そうだったんですか。じゃあ、後夜祭にも?」

「ケイウォルスの後夜祭はすごいぞー。ドレスの貸し出しまでやってるくらいでね」

 超のつく大金持ち学校の発想に、雲雀プロデューサーは少し怖気づいた。

「……月島を代理にするかな」

「そう言わずに行ってきなよ。やっぱりプロデューサーがいないと」

 かくして長い夏は終わり、秋が深まりつつある。

 娘の活躍を楽しみにしながら、宗太郎は甘酸っぱいレモンティーで気をよくした。

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