第440話

 その上に立つと、千人ものお客さんを一望することができた。最前列にはちゃっかり環ちゃんと詠ちゃんが陣取り、手を振ってくれる。

「速見坂先輩っ! 頑張ってくださーい!」

「あはは、お姉ちゃんってば。ビビりすぎだって~」

 妹の手前、栞ちゃんがいくらか持ちなおした。ベースを構え、正面を見据える。

「よ、詠に笑われるわけには……」

 わたしは麗奈ちゃんの後ろでキーボードの準備を終え、配置についた。

 ギタリストの麗奈ちゃんが背中越しに振り向く。

「……響希? MCを」

「あっ……ごめん」

 緊張のせいで、段取りが頭の中からすっぽ抜けてた。

 わたしは震える手でインカムを掴むと、なんとか声を絞り出す。

「こ、こんにちは。ガールズバンドのANGEです。今日は……えぇと」

「可愛いだけじゃないってとこ、見せてあげるよ!」

 わたしの不調を読み取ってか、あとは律夏ちゃんが引き継いでくれた。麗奈ちゃんも怖気づいたりせず、律夏ちゃんのMCに調子を合わせる。

「可愛いだなんて、自分で言うこと?」

「麗奈だってドレス着てんじゃん。レースがどうとか言ってたくせに」

「あ、あれは……演奏の妨げになると思って」

 それを遮るように、栞ちゃんがベースをひと撫でした。

「そそっ、そんなに長い時間は持ちませんよ? 二分が限度かと」

 どっと笑いが巻き起こる。

 すし詰めとまでは行かないものの、わたしたちのステージには大勢のお客さんが集まっていた。後ろのほうのひとは多分、入場制限の掛かったAステージやBステージから、やむを得ず流れてきたんだろうね。

「頑張れ、JK~!」

 律夏ちゃんがドラムスティックを振って、声援に応える。

「ありがとっ! そんじゃあ一曲目、行こうか。ワン、ツー、スリー、フォー!」

 そして、いつものカウント。

 はっとして、わたしもキーボードの鍵盤に臨む。

 そのつもりが……一瞬、キーボードがピアノに見えたの。それも横に長く、長く。

 81キーどころじゃない。途端に音階がわからなくなり、打ち間違える。

「……あっ?」

 咄嗟に律夏ちゃんがドラムの乱打を重ねた。

「もう一丁、せーの!」

 アドリヴでカウントを取りなおし、なんとか繋いでくれる。

 ――しっかりしなくちゃ!

 わたしは自分に喝を入れ、今度こそイントロに加わった。幸いにも身体が憶えてくれてて、もうミスはない。ピンチを乗りきったことで、緊張も和らぐ。

 と思いきや、麗奈ちゃんが焦るように振り向いた。

 口パクで何かをわたしに伝えようと……?

 演奏を続けながら、わたしはさらなる失敗に愕然とする。この曲のパートはわたしの歌い出しで始まるのに――。

 お客さんも徐々に異変に気付き始めた。

「あれ? 歌は?」

 詠ちゃんははらはらという面持ちでステージを見守ってる。

 歌い手が歌を忘れた。その事実が、ANGEの演奏を寒々しいものにする。

 ど、どうしたら……!

 今から歌うにしても、わたしは完全にタイミングを失っていた。キーボードを弾くのに必死で、そっちから意識を離せない。

 そのせいで律夏ちゃんや麗奈ちゃんも歌うに歌えず、混乱するの。

 栞ちゃんは視線を落とし、ベースの音色を鈍らせた。もはやライブの失敗は誰の目にも明らかで、空気が重い。

 わたしの……わたしのせいで……。

 不意に涙が滲んだ。『失敗』の二文字がわたしの小さな背中に圧し掛かる。

 ところが――演奏を追いかけるように響いたのは、誰かの歌声。麗奈ちゃんがはっとして、栞ちゃんも顔をあげる。

 歌い手はギャラリーの最前列にいた。

 環ちゃんが一生懸命、歌ってくれてるんだよ。ANGEの楽曲は一通り知ってるとはいえ、この息が詰まりそうな空気の中で、わたしたちのために。

「使ってください!」

 栞ちゃんが自分のインカムを外し、環ちゃんに預ける。

 それを着け、環ちゃんは夢中で声を張りあげた。ANGEの演奏は息を吹き返す。

 詠ちゃんが大袈裟に手拍子を取った。

「ボーカルはこっちの子なんだ? いいね、いいね!」

 半信半疑という雰囲気を引きずりつつ、お客さんたちもリズムに乗る。

 その間、わたしはとにかくキーボードに集中した。集中するほかになかった。

 後ろのほうのお客さんは続々と離れていき、空白が目立つ。失敗は失敗――環ちゃんのおかげで九死に一生は得たものの、ANGEの勢いは失速する。

 わたしのせいで……!

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