第387話

 落ち着いたところでパパが切り出した。

「で……栞ちゃん、僕になんだい?」

「連休の間も宗太郎さんはお忙しいんじゃないかと……いいんですか? わざわざ送り迎えまでしてもらって」

「なぁに、忙しいといっても、朝は余裕があるからね」

 わたしもパパのスケジュールは把握してるよ。

「パパは教師だよ? ゴールデンウィークは学校もお休みだもん」

「そうかなあ……。連休だからこそ、引っ張りだこの気もするけど」

 しかし律夏ちゃんは納得せず、お蕎麦を平らげるとともに立ちあがった。

「実はさあ、さっきからずうーっと気になってんの。ねえ? 栞ちゃん」

「もう我慢できません。確かめましょう」

 栞ちゃんまで席を立ち、ずかずかとテレビのほうへ。

「どんだけデカいのっ! このスピーカー!」

 テレビの両脇にあるのは、全長1メートルのスピーカーだった。

「え? ライブハウスのもこれくらい……」

「ライブハウスとご家庭で普通、同じ大きさなわけありませんよ。こっちはオーディオプレーヤーですね、はあぁ……」

 律夏ちゃんと栞ちゃんは嬉々と盛りあがる。

「CDもたくさんありますよ。バッハにベートーベン、ワーグナーも」

「パパさん、これ、鳴らしてみていい?」

「どうぞ。CDもそこにあるの、好きなの掛けていいからね」

 スピーカーからワーグナーの大行進曲が流れ出した。ふたりはソファにゆったりと腰掛け、オーケストラさながらの重厚な旋律に、うっとり。

「なんて贅沢な昼下がりなの……音楽とともに生きてるって、こんな気分かも?」

「このまま何時間でも聴いていたいですね。はあ、幸せ……」

「あのぉ、練習は?」

 正気を保ってるのはわたしだけ。

 パパはどこか懐かしそうにふたりを見詰め、表情を緩めた。

「響希の幼馴染みで、麗奈ちゃんって子がいてね。昔はよく遊びに来て、響希と一緒にそうやってたんだよ」

 麗奈ちゃんの名前にわたしは口を噤む。

 それを察してくれたのか、律夏ちゃんも栞ちゃんも言及はしなかった。

「まだギターを続けてるのかなあ? 麗奈ちゃんは」

 続けてるよ、パパ。ライブハウスで先月、麗奈ちゃんと再会したの。

 でも麗奈ちゃんは、思い出の中にいる幼馴染みの女の子じゃなくなってた。ストイックに音楽の道を突き進む、孤高のギタリストになってて――。

 栞ちゃんが話題を変えた。

「ほかのCDも見ていいですか?」

「気になるのがあったら、貸してあげるよ。律夏ちゃんも」

「ん~、クラシックだし……」

 律夏ちゃんもソファを降りて、栞ちゃんと一緒にCDだらけの棚へ近づく。

「あ……この写真って」

 そこで律夏ちゃんの瞳が大きく瞬いた。

 棚の傍に飾ってあるのは、お母さんの写真。

「櫻子といってね。僕の妻で、響希の母親なんだ」

 パパは穏やかな調子で微笑む。

「櫻子は若いままなのに、僕だけ歳を取って……不公平だよねえ」

 お母さんが死んだ、とは言わなかった。

 パパにとってお母さんは、きっと今も生きてるんだもん。心の中で。

 事情を察したらしい律夏ちゃんが、一際陽気な声をあげる。

「響希ちゃんに似てるよ。目元の雰囲気とか」

「数年もすれば、響希さんもこんなふうに……あとは中身次第でしょうか」

 栞ちゃんの言動はどんどん遠慮(容赦)がなくなってる気がした。

 もう一枚の写真では、お母さんがピアノを弾いてる。

「ピアニストだったんですね」

「うん。あのピアノも櫻子のものなんだ」

 ピアノはお母さんの形見――わたしがそう考えることはなかった。

 考えないようにしてただけかもしれない。ピアノに命さえ懸け続けた結果、パパや娘より先立ってしまったひとのことを。

 お母さんにはパパも『音楽は音を楽しむものだよ』と言ったはずなのに。

 無理して、弾いて、そして死んで……。この家にはピアノのほかに、お母さんの生き様は何も残ってないんだよ? それでよかったの?

 わたしはお茶を飲まずに席を立つ。

「先に戻ってるね、律夏ちゃん、栞ちゃん」

「うん? もっと聴いてかないの?」

「耳タコなんですよ、きっと。ここに住んでるんですから」

 お客さんが多いと、スピーカーは大忙しだね。


                  ☆


 学校のあとは、お友達の麗奈ちゃんと演奏するのが日課だった。

 パパが帰ってくるまで、ずっと一緒なの。わたしはピアノ、麗奈ちゃんはギターに手を添え、子どもなりの二重奏を紡ぐ。

 書きかけの楽譜は、麗奈ちゃんのもの。

「麗奈ちゃん、続きはまだ?」

「響希ちゃんと演奏しながら、考えてるの。もうちょっと待ってね」

 わたしにはお母さんがいなくて、麗奈ちゃんのお母さんもお仕事で忙しかった。いつもふたりで曲を弾きながら、わたしはパパを、麗奈ちゃんはお母さんを待つ。

 夕方にはパパが帰宅した。

「麗奈ちゃんを送ってくるから、響希はもう少しお留守番だぞ」

「うん! ばいばい、麗奈ちゃん」

「また明日ね。響希ちゃん」

 麗奈ちゃんをお見送りしたら、キッチンでお夕飯の支度に取り掛かる。

 その間にもパパが戻ってきて、フライパンを火に掛けた。

「麗奈ちゃんって不思議な子だねぇ、響希」

「そお? フツーだよ」

「もちろん優しくていい子さ。でも、どことなく雰囲気が……なんだろーなあ」

 朝とお昼は麗奈ちゃんがいて、夜はパパがいるから、寂しくない。

「次のお休みは麗奈ちゃんも誘って、遊びに行こうか」

「ほんとっ? 行く行く!」

 けど、その週末が来ることはなかった。

 金曜日の朝、ホームルームで先生が言ったの。

「急なお話ですが、速見坂さんは転校することになりました」

 麗奈ちゃんは静かに前に出て、ぺこりと頭を下げる。

「五年間、ありがとうございました……」

 クラスのみんなが驚いてた。

 でも、一番びっくりしたのはわたしだよ。何も聞いてなかったから。

 その日、麗奈ちゃんはホームルームだけで早退してしまった。

「天城さん! 速見坂さんと仲いいんでしょ? こんな時期に転校なんて、どうして?」

「知らない……わたしも知らないの。明後日も一緒に遊ぶ約束で……」

 授業が始まるまでもなく、わたしにはパパが迎えに来る。 

「響希。空港まで見送りに行こう」

「パパ……?」

 麗奈ちゃんが転校することは、パパも今朝まで知らなかった。わたしも麗奈ちゃんのあとを追うように早退して、パパと一緒に空港へ急ぐ。

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