第318話

「よう、玄武! ようやくお出ましか」

 夏樹さんと鉢合わせの構図になり、リカはあんぐりと口を開く。

「な、なんで夏樹がいるワケ?」

「聞いてなかったのかよ? お前の代理で、ダンスのレッスンに混じってたんだぜ」

「ええええ~っ?」

 そういえばリカと夏樹さんって、クラスメートだったわね。

 夏樹さんがリカに釘を刺す。

「これで肩の荷が降りた……と言いたいとこなんだが。明日からダンスの引継ぎすっからな、玄武。勝手に遊びに行くんじゃねえぞ?」

「マジで? 夏樹、ほんとに踊ったりできんのぉ?」

 練習が遅れてるリカには、一日でも早く追いついてもらわなくっちゃ。

 咲哉がメンバーを指折り数えた。

「明日はわたしとリカちゃんでラジオ、でしょう? 結依ちゃんたちには、えぇと、NOAHチャンネルの準備をしてもらって……」

「リカが帰ってきたらやろう、って企画があったわね。確か」

「うんうん! 面白くなってきたかも」

 結依ったら水を得た魚ね。


 興奮冷めやらないままホテルへ戻り、部屋割りを変える。

 リカと結依を一緒にしたら、夜更かししかねないから。わたしとリカが同室となり、ほかのメンバーは隣の部屋で休むことに。

 マネージャーの聡子さんもほっとした顔つきだった。

「荷物の件は了解しました。下着くらいは明日、買ってきますので」

「ありがとー、聡子さん」

 リカったら、ほとんど身体ひとつで海を渡ってきたのよ? 持ち物は財布とケータイ、パスポートだけ。残りの荷物はまだロケ地にあって、郵送してもらうんですって。

 聡子さんは退室し、わたしとリカのふたりだけになる。

 照れ隠しのようにリカは頭を掻いた。

「ごめん、杏……その、結依にキスしたこと、怒ってる……?」

 なんだか胸がもやもやする。

 待ち侘びていたはずのリカに、わだかまりのようなものを感じるの。

「ううん、違うのよ。わたしは今日――」

 嫉妬? それとも羨望? どちらでもないわ。

「ふぅん……お母さんの歌をねー」

 リカが飛び込んできたことで、わたしの『蒼き海のストラトス』は持ち越しに。

 次回の第二コンサートはリカの帰還をメインに据えるため、わたしの『蒼き海のストラトス』は第三コンサートまでずれ込んだのよ。

 松明屋千夜の娘なら、悔しいと思うべきところでしょう? なのに、わたしは今、歌わずに済んだことに安心していた。

「じゃあ、アタシのせいで歌えなかったんだ?」

「そうじゃないのよ。わたし、きっと……歌えなかったから……」

 空っぽのくせに大きな無力感が込みあげてくる。

 ママのために歌いたかった。松明屋千夜の娘ここにあり、ってね。

 でも、あの沈みつつあったステージで、まともに歌えたとは思えなかった。

 かつて結依がデビューコンサートで逆風を押し返したように。今日のコンサートでリカが一気に流れを変えたように。

 わたしの歌には、そこまでの力がない。

「杏はさあ……お母さんの歌、歌いたくないの?」

「……わからないわ」

 子どもの頃は、ママの名前がこんなに重荷になるとは、想像だにしなかった。『歌いたくない』とか『歌わずに済んだ』なんて後ろ向きな気持ちが、わたしを責め苛む。

 リカはベッドに尻餅をつき、ふうと嘆息した。

「アタシは羨ましい気もするけどねー。うちはほら、伝統芸能の家元でしょ? でも女人禁制だから、アタシは絶対、お父さんと同じ道には進めないワケ」

 親と同じ道を、進めない……?

「だからさあ、杏みたいに親子で一緒っていうの、楽しいんだろーなーって。跡取りの弟もなんだかんだで、舞台に立つ時は張りきっちゃってるし?」

 その発想は、視野狭窄なわたしの価値観を揺さぶった。

 わたしはママに命令されて、歌ってるわけじゃないわ。わたしがママを目標にして、自分の意志で歌ってるんだもの。

 明松屋千夜の娘だから、否応なしに音楽の道へ進んだ――?

 違うわ。わたしは選べる立場にあったはず。弟の慎吾はそれをしたじゃない。

『よくやるよなあ、姉さん。母さんと一生比較されるとか、思わねえの?』

 パパも何度かわたしに似たようなことを言った。

『杏には歌よりピアノのほうが向いてるんじゃないか?』

 ピアニストなら、ママを追いかけずに済む。

 それでもわたしはママと同じ歌手を志し、ママの歌に手が届くところまで来ていた。

 リカが欠伸を噛む。

「ふあ~あ……まっ、杏の思うように歌えばいいんじゃない? あとで誰かが文句つけてきたら、アタシが言い返してあげるから」

 わたしの口元に笑みが戻った。

「ふふっ、そうね。頼りにしてるわ」

「それより、シャツかなんか貸してくんない? パジャマもないし~」

「はいはい」

 はこぶね荘じゃないのに、寮にいるような感覚だわ。

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